2017年2月26日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑭戦国時代中盤の大徳寺の生存戦略

 今まで述べてきたとおり、妙心寺は独立後に着々と戦国大名をパトロンにつけて地盤を固め、ついには今川・武田二大勢力の政治顧問を自派から輩出するようになります。その様なことをせざるを得ないのも、ひとえに両細川の乱によってかつて妙心寺の後ろ盾にな...

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2017年2月18日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑬妙心寺のいざない

  妙心寺派臨済宗の進出はこれに留まらず、遠江・三河という今川義元が再進出した領域にも広がってゆきます。その一つが遠江国引佐の龍泰寺(龍潭寺)です。ここは奈良時代に行基が建てた古刹だったのですが、のちに井伊家が菩提寺にしていました...

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2017年2月11日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑫黄金回廊

 以前、1495年(明応四年)と1498年(明応七年)に起こった明応大震災についての話をし、今川氏親は周辺諸侯の救済の為に西進したのではないかという仮説を立てました。しかし、よく考えると今川氏親が治める駿河国における地震と津波の被害もまた甚...

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2017年2月 5日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑪武田家の宗旨報告書Ⅴ(武田晴信・大井流武田氏)

  今までの書きぶりで甲斐国に妙心寺派臨済宗が入り込んだのは、今川義元の影響のように書いてきましたが、実はもう一つルートがあります。それが今回お話しする大井流武田家です。大井家は以下の系図にあるように穴山家同様、武田一門衆を形成す...

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2017年1月29日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑩武田家の宗旨報告書Ⅳ(穴山流武田氏)

  穴山家は甲斐武田家の一門衆で、足利尊氏に従って軍功をあげた武田信武の子から始まるとされる一流です。尊氏に認められてそれまで甲斐守護だった石和流武田家から甲斐守護の座を取り戻し、甲斐に入府して以後は甲斐守護家を信武流で占めること...

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2017年1月22日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑨武田家の宗旨報告書Ⅲ(武田晴信)

 前稿に記した通り転法輪三条公頼を中心とした姻族連合に、本願寺が加わります。転法輪三条公頼の三女が細川晴元の養女として法主証如の嫡男顕如と結婚するわけです。これは1544年(天文十三年)に発表されましたが、双方まだ若年のため、婚約という形と...

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2017年1月15日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑧武田家の宗旨報告書Ⅱ(武田信虎)

 武田信虎が甲斐国主の座を追われた理由は私には判じかねます。武田信虎は有能な軍略家で不安定な甲斐国を実力で統一しました。その過程で色々恨みを買っていたと言うことはあったかとは思います。但し、武田信虎暴君説の論拠の多くは根拠のないものらしい。...

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2017年1月 7日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑦甲駿同盟

 花倉の乱における栴岳承芳派の動きは極めてスピーディで、氏輝の死から二ヶ月も過ぎないうちに室町殿から偏諱を拝領しています。しかも許可を得た時点では玄広恵探という対抗馬が武装蜂起している状況でした。玄広恵探がその間に栴岳承芳を攻め殺していた可...

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2016年12月29日 (木)

中漠:林下編Ⅱ⑥武田家の宗旨報告書Ⅰ(源義光~武田信虎)

 武田氏は平安時代に活躍した新羅三郎義光の流れをくむ清和源氏で、本貫地は常陸国那賀郡武田郷です。この地を源義光の三男義清が受け継いで武田冠者と呼ばれるのですが、近隣の有力者大掾氏(桓武平氏)と争った結果、勅勘を蒙り甲斐国市河荘に配流となり、...

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2016年12月17日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑤今川家の宗旨報告書Ⅷ(今川氏輝・今川心範)

 天文五年三月十七日の今川氏輝・彦五郎の死から花倉の乱が起こります。氏輝・彦五郎の死の原因については皆が謎としていますが、容疑者として最初に浮かんでくるのは最大の受益者である今川義元、太原崇孚、武田信虎であることは間違いがないでしょう。私は...

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