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2007年9月27日 (木)

川戦:蓮如編⑤吉崎御坊

 とかく、戦争というものは金がかかるものです。蓮如がいかに門徒に頼って比叡山に抵抗しても、本拠を持たぬ流亡の生活です。いつまでも対立は続けられません。本来でしたらこういった抗争には、朝廷や幕府が仲裁に立つことがあるのですが、応仁の乱まっただなかです。都大路には軍勢が犇き、道は寸断されます。また、プライベートに通行税を徴収する関も設けられ、都に依存して生活している南近江の門徒衆も困窮したと思われます。
 要するに、いつまでも比叡山と争っているわけには行かない。金森合戦のあと、蓮如は叡山と和解します。とはいっても全面敗北です。蓮如は隠居。実子実如は廃嫡を言い渡されます。寺宝である親鸞の像は取り上げられて天台宗三井寺の末寺に安置されます。
 替わりに蓮如が得たのは自由でした。京都は荒廃し、琵琶湖の交通も堅田が崩壊してままならない状況です。貴族達は田舎の領地に疎開を初めるなど、京にいても余りよいことはないように思われました。そこで蓮如は新天地を求めます。以前にも蓮如は東国や北国を訪れ、その先、途中で熱心な門徒たちとの交流を深めていました。その時勝ち得た自信が都からの脱出を決断させたのでしょう。
 選んだのは加賀国と越前国の国境にある吉崎。大聖寺川の日本海に注ぐ河口に隣接する北潟湖畔を臨む立地ですが、ここは間違いなく城砦都市といっていい構えをしています。三方を北潟湖という大きな堀で囲み、あいた一方には大きな寺内町が本堂を守るように囲んでいるそういう構造の寺でした。ここはうるさい延暦寺もいませんし、政治的な圧力をかけられる心配もなく、仮に襲われたとしても守りは万全です。大谷や堅田のような目にあうことはないでしょう。
 また、地方に拠点を据えて教化に専念する手法は爆発的にあたりました。本願寺教団はこのころ急速に拡大します。遠くは奥州から蓮如に会うためにやってくる門徒もいたそうです。
 でも、一見蓮如にとって理想的な宗教都市であっても、結束する門徒達からなる宗教集団は別な見方をされます。信者達は河川運送従事者や商人や農民達だけではありません。国人・土豪・地侍など後の武士階層もいたのです。いえ、正確ではありませんね。当時は階級分化が未成熟でした。ゆえに、田畑を耕す武士もいれば、水上交通をなりわって、時に海賊行為をする武士もいたりするのです。そして、その集団は戦力と見なしたものがいました。それが、加賀国守護の富樫政親でした。
 彼は応仁の乱において、細川政元方の東軍についたため、山成宗全率いる西軍についた弟の幸千代と争うことになりました。
 富樫政親は幸千代を滅ぼすために、吉崎に助力を求めました。蓮如にとっては関係のない話でありましたが、運の悪いことにこの地には同じ浄土真宗の高田専修寺派の勢力が根ざしていて、彼らが幸千代派に与してしまったのです。本願寺派は延暦寺と大喧嘩をしてしまいましたが、同宗である高田専修寺派とも仲が悪かった。もし、吉崎が立場を決めずにうかうかして、政親が幸千代に敗れれば、幸千代は専修寺派を引き立て、吉崎に弾圧を加えるでしょう。
 本件にあって、蓮如がとった立場については諸説ありますが、ここでは起きた事だけ書きます。吉崎御坊の門徒達は富樫政親に与し、富樫幸千代を攻め滅ぼしました。そのこと自体は成功したのですが、吉崎御坊の門徒達が見せた力は富樫政親を警戒させることになりました。それに気づいた蓮如はいち早く吉崎を退去。蓮如の側近である下間崇蓮を門徒達を扇動した罪で破門に処しました。
 一応のけじめをつけた形にはなっていますが、富樫幸千代を攻め滅ぼした門徒衆と要塞同然の吉崎御坊はそのまま残りました。大きな火種は残されたままです。後に、この門徒衆は加賀一向一揆を起こして富樫政親をも攻め滅ぼしました。それ以後加賀国には大名はいなくなり、百姓(この場合は源平藤橘以外の素性を持つ人々のこと)の持ちたる国となったそうです。

 

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2007年9月25日 (火)

川戦:蓮如編④ 金森合戦・堅田大責

 比叡山延暦寺によって、大谷本願寺を破却された蓮如が当座たよったのは、隣国近江の国の金森、堅田、大津の門徒衆でした。浄土真宗の信者のことは信者と呼ばずに門徒と呼ぶのがならわしなので、それに従います。金森・堅田・大津はいずれも琵琶湖南部にあった集落で本願寺教団はここにいる湖岸の民に対して着々と教化を施していました。そういう事情もあって蓮如はまず金森にあって、近在の門徒衆に結束をうったえます。
 とはいえ、比叡山延暦寺もその滋賀県側の琵琶湖岸に坂本という一大寺内町を築いていました。平和な頃ならともかく、応仁の乱は目の前です。宗派の違いは信徒たちの利害関係に複雑に絡んで、湖岸の利権の絡む諍いが、容易に宗教抗争に発展します。それを沈めるべき守護大名や将軍家がお家騒動でごたついていたため、彼らを止められるものは誰もいません。
 比叡山延暦寺は蓮如に追っ手を差し向けました。蓮如は金森御坊に門徒を集めてこれに対抗。本願寺教団は金森に城を築き合戦に及びました。これを金森合戦といい最初の一向一揆による合戦です。
 金森城は、境川(さかいがわ)右岸の自然堤防上にあり、南北を河川に挟まれた要衝の地でした。本願寺派の中心地として栄え、金森御坊を中心とする計画都市が形成ています。江戸時代に書かれた地図には周囲に濠を巡らし、土居を築いた跡が見られるそうです。金森は宗教的性格と防御の城郭的機能をあわせもった典型的な寺内町でした。ここでは、境川という水利を防備に応用した城砦であることも記憶して置いてください。後々の考察で取り上げることとなると思いますから。

 延暦寺側は大将が討ち取られるなどして、この局地戦においては門徒側が勝ったようです。

 しかしながら安心は出来ません。蓮如が琵琶湖湖南の地に逃れ、その追跡が失敗におわったことによって、延暦寺の怒りは蓮如を支援する村々にも向くことになります。
 堅田は琵琶湖南部の湖西側に位置する集落で、惣村組織である堅田衆による自治が行われていました。堅田衆は大別すると地侍層からなる殿原衆と商工業者、周辺農民からなる全人衆に分かれていました。このうちの殿原衆は船舶をもち、堅田の水上交通に従事していました。メインクライアントは延暦寺でしたが、時に海賊行為も行ったそうです。それでは延暦寺の面目丸つぶれなので、堅田衆に対して堅田以外の船から海賊行為を行わない代償として、上乗(うわのり)という通行税を取る権利を与えました。堅田衆はこれをちょっぴり拡大解釈して私腹をさらに肥やしたりしたのですが、それを延暦寺は苦々しく思ったものの黙認はしていました。
 一方で蓮如の教えは金森の対岸である堅田に及び、主に全人衆の指示を得ていました。
 応仁2年(1468年)、室町幕府御蔵奉行が花の御所再建のために調達した木材を運搬する船団が上乗を払わない事を理由に堅田衆が積荷を差し押さえてしまいました。応仁の乱が起こって将軍の権威は凋落し始めたとはいえ、激怒した将軍足利義政は延暦寺に堅田の処分を命じます。湖南には蓮如が潜伏しています。ここに至って延暦寺は堅田に対する方針を変えます。
 延暦寺は堅田に対して焼き討ちを行いました。堅田の集落はほぼ全域が焼かれ、住民は琵琶湖の中ほどに浮かぶ小さな孤島、沖島にのがれました。堅田大責(かたたおおぜめ)です。

 一向一揆というと宗教戦争のようにとらえられがちなのですが、その背景としてこの堅田に見られる惣村組織や寺社間の利害関係も複雑にからんでいるのですよね。
 すでに、京都の町では応仁の乱が始まっており、都の中は山名と細川の軍勢が犇いていました。足利義満が築いた花の御所を中心とした秩序は明らかにほころび始めていました。そのカオスのなかに、蓮如と本願寺教団は立たされていました。

 次回は蓮如が応仁の乱で荒廃した京都を離れ、疎開先で新天地を開拓するところに移ります。

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2007年9月20日 (木)

川戦:蓮如編③大谷本願寺

 東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時。夜空に響く鐘の音が陰にこもって物凄く……。
 と講談の台詞に出てくる東山。京都府東山区あたりの山、というか丘陵と読んでもよいところに、本稿で取り上げる大谷本願寺がありました。ありました、というのはちょっと語弊があるようなないようなですが、現在の知恩院の敷地の西側にある崇泰院のあるところらしいです。
 大体の地理を文章で書くなら、京都盆地というお椀があって、そのそこに碁盤の目の将棋台が置いているとおもってください。その将棋盤を京都の町とするなら、お椀のふちの真ん中から真西からちょっと南側にあたるあたりが、東山です。そこには清水寺だの、知恩院だの有名な寺社がひしめいていますが、大谷本願寺もその中の一つです。もともとは、親鸞の墓所がそこに作られ、墓を守る形で遺族が管理していましたが、親鸞の曾孫の覚如が自ら本願寺三世を名乗り、その墓所に本願寺を建てました。これが、浄土真宗本願寺派の始まりです。
 以後、法主は覚如の子孫がついで行くことになりますが、浄土真宗という宗派の伸張にあって、その流れについてゆききれていたとはいえなかったそうです。寂れているとはっきり書いているところもありますが、貴族の帰依も得ていたりしていますから実情はよく判りません。
 本願寺派教団の代表のことを法主と書いていますが、正確には留主職というそうです。成仏して彼岸の向こうに行った親鸞の留守を守って、親鸞の教えを代行して広める役目という意味なのでしょうか。蓮如が留主職を継いだのは三十七歳になった時だそうです。
 時に長禄元年(1457年)、乱世の開幕を告げる応仁の乱の勃発はこの十年後です。

 相続が遅いのは留主職が終身の身分だからかもしれません。腹違いの弟と継母とのあいだで相続でもめ、わずかながらあった財産は弟が留主職相続を諦めることとと引き換えに継母が持ち去ってしまった。
 相続間もない留主職がまずやらなければならなかったのは傾いている本願寺教団の再興でした。浄土真宗の寺として紹介していましたが、この頃は寂れていたため、真宗の看板を外して天台宗の門跡の一つ青蓮院の末寺として扱われる始末です。
 もともと、浄土宗の法然からして天台宗の学僧であり、親鸞はその教えを受けた立場です。そして、蓮如自身も今書いた青蓮院で得度しています。真宗と比叡山との関係は非常に密接なものだったといえるでしょう。青蓮院の本寺は比叡山延暦寺。東山の峰々を北にのぼった場所にあって、都の鬼門を守護する日本最高権威をもつこの仏教寺院にとって、浄土真宗の隆盛は忌々しげなものだったでしょう。親鸞の子孫の寺である本願寺に対して宗旨替えをさせていたのです。寺院の歴史を紐解くにこの手の宗旨替えは結構あったようですね。蓮如はみずからが留主職を継ぐにあたり、これに抗いました。教風から天台衆的なものを一掃し、上納金の支払いを拒絶したのです。実際払えなかったのかもしれませんが、その後の積極的な活動を考えると払えないほど貧乏だったようには見えません。
 この頃の宗派間の争いは室町幕府が傾いていることもあって、些細なことからヒートアップします。細かな事情は私も知りえないのですが、延暦寺はついにキレて、大谷本願寺の破却を決めます。蓮如は親鸞の像を抱えて流亡の時代にはいりました。
 本願寺のネットワークは畿内をじめ、北国・東国まで及んでおり、蓮如自身も東国、北国に布教に赴いた経験がありました。その際の支援者を頼っての流亡生活です。

 さて、次回は流亡の蓮如を支えた支援者たちの実体について触れたいと思います。

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2007年9月18日 (火)

川戦:蓮如編②前史

 歴史を語るときにはその前史から始めなければならないのがしち面倒くさいのですが、さくっとやっちゃおうと思います。
 そもそも、浄土真宗というのは鎌倉時代に活躍した親鸞を開祖とする浄土宗の分派です。浄土宗を起こしたのは法然という比叡山の学僧で、それまで戒律厳守を建前としていた比叡山延暦寺の表看板である天台密教のアンチテーゼというか、仏教教義の経年変化を極端に進めた教義を日本で広めた人でした。ちなみに、浄土宗の教義の元となった物は浄土教という中国仏教の分派の一つです。
 浄土宗の教えは簡単かつ乱暴に言うとひたすら念仏を唱えると浄土=極楽・天国に行けるというもので、その念じ方によって大量の分派をだしています。そして、信仰の対象が仏陀、ゴーダマシッダールタではなく、阿弥陀如来であることも特徴的です。阿弥陀信仰を語りだすとかなり長くなりますので、 この際端折りますが、当時の仏教の主流であった天台密教のそれと比べると、戒律は極めて緩く、遥かに自由度の高い教えでした。そのため、教えは学問をする余裕のある貴族や武士の知識階級にとどまらず、町人、農民、漁師などを中心に広まりました。
 そして、自由度が高いが故にこの浄土宗という宗教は同じ阿弥陀信仰をする時宗と同様、数多くの分派を生み出したのです。
 その中の一つが浄土真宗です。親鸞は法然の教義をさらに押し進め、新たな宗派を作りました。これもまた、浄土宗や法華宗などの鎌倉新仏教の代表的な宗旨として同様幅広く受け入れられてゆきました。
 この親鸞が画期的だったのは、日本の高僧で始めて妻帯したことです。それ以前の僧侶はみなすべて未婚もしくはヤモメ、つまり独身でなければなれませんでしたが、親鸞は不犯戒(異性と交わらない教え)まで自ら撤廃して見せたのでした。過激といえば過激かもしれません。
 でも、その過激な行動なくしては蓮如の存在はありませんでした。なぜなら、蓮如は親鸞の子孫なのですから。そして、それこそが蓮如の属する本願寺教団の最大のアピールポイントでした。
 つまり、それ以前の仏教各宗派は互いに勢力争いをしていましたが、その拠り所になるものは教義の正しさのはずです。しかしながら、本願寺教団においては、親鸞に連なる血統がそれに加味されたわけです。
 ただし、浄土真宗は親鸞の後いくつかの分派に分かれ互いに凌ぎを削っておりました。それ故、本願寺派は親鸞の血統を謳っているものの、他宗派のみならず、同じ浄土真宗教団分派と比べても教勢は劣っていたと思われます。むろん、教義の正しさが教勢に比例するわけではありません。
 そして、そのような情勢下で応永22年(1415年)京都東山の大谷本願寺で生まれました。時に室町幕府第四代将軍足利義持の時代です。先代の足利義満が南北朝の内乱時代を治め、自ら日本国王としてわが世の春を謳歌した、そんな時代から間もない頃でした。

 以降、蓮如ゆかりの寺社について、その関わりを中心に書いてみたいと思います。

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2007年9月13日 (木)

川戦:蓮如編①考察の前提条件

 本稿において、蓮如といわゆる『一向一揆』を起こした門徒衆を取り上げます。ここでは特に特定の宗教を批判したり否定する意図はないことを先に明記しておきます。
 それを前提として、浄土真宗本願寺教団を率いた蓮如と門徒衆との思惑の違いについては一切考察しません。そして、浄土真宗の教義についても触れないこととします。
 本稿においては蓮如と一揆を起こした人々を含む門徒衆を一体と見なし、彼らが起こした事件を見てゆくことにします。その関連の中で、浮かび上がってくる門徒衆の性格を本稿で論じることを試みたいと思います。

とはいえ、本願寺教団の中興の祖である蓮如の生涯を追う所から始めてみたいと思います。

 応永22年(1415年)京都東山の本願寺で生まれる。
 長禄元年(1457年)本願寺の留守職を相続。
 寛正 6年(1465年)延暦寺、大谷本願寺を破却。隠居を強いられる。
 応仁 3年(1469年)大津南別所に顕証寺を建立、長男・順如を住持として祖像を同寺に置く。
 文明 3年(1471年)吉崎御坊を建立。
 文明 6年(1474年)加賀国富樫氏の内紛に介入。
 文明 7年(1475年)吉崎を退去。
 文明15年(1483年)山科本願寺の落成。
 文明18年(1486年)紀伊に下向。のちの鷺森別院の基礎ができる。
 長享 2年(1488年)加賀の一向一揆。
 延徳元年(1489年)寺務を子の実如にゆずり、山科南殿に隠居。
 明応 5年(1496年)大坂石山の地に石山御坊を建立。後の石山本願寺。
 明応 8年(1499年)山科にて入滅。

 彼は浄土真宗本願寺教団を率いる立場ではありましたが、その生涯において自らの寺を焼かれたり、新たな寺を建てたりしつつ、住処を転々と致しました。その転々とした過程で本願寺教団は復活をはたしました。諸所で弾圧を受けてなお、それらを跳ね返して隆盛をきわめたのです。
 先の年表に上げた諸寺の中にいくつか例外はあるものの大きな共通点があることがわかります。それが、本稿のメインテーマである『川の戦国史』の最初に蓮如を取り上げる理由です。

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2007年9月11日 (火)

川の戦国史:まえがき②

 川といっても海に注ぎ込む大きな川からそこらのどぶ川まで千差万別、その姿は一様ではありません。大きいものは古に文明をもたらしたものです。黄河文明、インダス文明、メソポタミア文明、ナイル文明。それぞれ黄河、ガンジス川、チグリス・ユーフラテス川、ナイル川と文明の発祥に川は不可欠でした。為政者の関心は川にあり、治水に成功したものは名君と呼びなわされています。尭舜もこれの成功によって帝王として祀り上げられたのです。川がもたらすものは豊饒の大地であり、収穫でした。そこに集落が出来て人が集まり社会を形成します。川は人のコミュニティの場を提供しました。
 ただし、川はしばしば氾濫し人の命すら奪います。それを抑えて、田畑に水を満たし豊かな収穫をもたらす者。それが王と謳われ、祀り上げられたわけです。そして、荒地を農地に変え、豊饒をなすためには、お百姓一人一人の努力では限界があります。組織を作り、役割を分担し、時に不公平が生じたとしても、結果として個人の力ではなしえない豊かな実りを実現することによって人々の生活を下支えする。そのシステムそのものが文明と呼ばれるものです。
 いきなり大きな話から切り出しましたが、川の周りに集落はでき、そこから農耕という共同社会が発生し、国となる。いうなれば、川の国の母なるものですね。人は水無しでは生きてはいけないものですから。ですが、川がもたらすものは農産物だけではありません。魚をとったりすることもできます。でも、それよりもっと大事な役割を川は持ちます。何だと思いますか?
 それは、船をつかって物資を運ぶことです。物流の路として川は機能しました。日本ではなぜか車輪が発達せず、陸路の輸送には人力や牛や馬が用いられていました。それとても大量の物資の輸送にはあまり適したものではありません。しかるに、船や筏を使えば、一度に大量の物資を運びこむことが出来ます。当たり前といえば当たり前なことですね。
 でも、これは重要なことなのです。それまでは一つの地域の中で物を循環させていればよかった。余所者が他の地方の物をもたらしたとしても、それはイレギュラーの一つで根付くことはありません。しかるに、水路で二つの地域がつながると、互いの地域にないものを手に入れることが出来るようになります。上流地域から檜の木を下流に流し、下流に生えている萱を上流に運び込むことによって、上流も下流も茅葺檜の家に住むことが出来るようになりますよね。そういう便利さがあることを互いの地域が知ることによって、地域相互の依存関係が成立します。川の流域に点在する村々はそういったネットワークを持っていることがよくあったようです。そして、その村の一つに何かをもたらして、受け入れられさえすれば、それは瞬く間に流域の村々に波及する。

 ずいぶんと前置きが長くなってしまいました。川の道に点在する村のネットワークを戦国の世にあって気づき、最大限に活用した者がいました。それが、本稿の最初の章で取り上げる考察対象です。

 ――それは、浄土真宗本願寺教団を率いる蓮如と彼を囲む門徒衆達です。

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2007年9月 9日 (日)

川の戦国史:まえがき①

 私は歴史が好きです。まぁ、年表を見てるだけでご飯三杯はいける。年表からどんな事実が読み取れるのか、そんなことを考えるのが好きだったりします。年表の一行一行はただのファクトに過ぎません。そのファクトの連続が歴史です。しかしながら、私達が普段歴史の教科書や歴史書で読んでいる歴史はファクトの全てではありません。確かに歴史の転換点は明確に記されています。でも、ファクトの数で競うなら、描かれているファクトよりも、描かれないファクトの方がはるかに多い。
 故に大望を持った若者は望むのです。歴史に名を残したいと。それは歴史に名を成さずに消えていった人々の多さをも象徴します。
 とはいえ、私とて全てのファクトを記してゆこうなどと大それたことを考えているわけではありません。それは世界で起っている全ての事象を記しているアカシック・レコードにお任せしたいと思います。そこで引き起こされる奇蹟の物語を想像することも嫌いではありませんが、ここはそれをするスペースではありません。ほんのちょっとだけ、真面目に学問へと振れてゆこうかなぁなどと考えています。
 さて、ファクトの連なりが歴史であると書きましたが、そのファクトをどう選ぶかによって歴史の様相は変って行きます。マクシミリアン・ロベスピエールはフランス革命期の政治家ですが、彼の評価は視座によって上がりもすれば下がりもする。危機に陥った革命の擁護者であると同時に、たくさんの人間を断頭台に送った恐怖政治の立役者でもあるのです。それは革命を支持する立場からみたものなのか、革命の負の部分からみたものなのかによって、一人の人間の行いが見せる様相も変わってきます。本編のタイトルである戦国も同様。歴史を俯瞰してみれば織田信長は英雄ですが、彼に滅ぼされる浅井、朝倉、比叡山の立場から見れば血に飢えた侵略者に過ぎません。ただ、英雄も侵略者も人が人に対してなす評価に過ぎません。客観的に見てそこにあるのは織田信長の行いあるのみです。
 ただ、ファクトが正にしろ負にしろ何らかの評価をえるのだとすれば、それば別のファクトとの相関関係から導き出される影響によるものなのだと思います。そして、ファクトは無数にあってそれを選び取るのが歴史家です。こういう考えにたてば、誰でも根気と努力さえあれば歴史を紡ぎだせるようなきがしないでもないでしょう。
 本編はそのファクトの取捨選択の基準として一つのテーマを選びました。それが『川』です。次項ではなぜ、川で戦国史を描こうとしたのか、その動機に触れてゆきたいと思います。

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