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2007年9月25日 (火)

川戦:蓮如編④ 金森合戦・堅田大責

 比叡山延暦寺によって、大谷本願寺を破却された蓮如が当座たよったのは、隣国近江の国の金森、堅田、大津の門徒衆でした。浄土真宗の信者のことは信者と呼ばずに門徒と呼ぶのがならわしなので、それに従います。金森・堅田・大津はいずれも琵琶湖南部にあった集落で本願寺教団はここにいる湖岸の民に対して着々と教化を施していました。そういう事情もあって蓮如はまず金森にあって、近在の門徒衆に結束をうったえます。
 とはいえ、比叡山延暦寺もその滋賀県側の琵琶湖岸に坂本という一大寺内町を築いていました。平和な頃ならともかく、応仁の乱は目の前です。宗派の違いは信徒たちの利害関係に複雑に絡んで、湖岸の利権の絡む諍いが、容易に宗教抗争に発展します。それを沈めるべき守護大名や将軍家がお家騒動でごたついていたため、彼らを止められるものは誰もいません。
 比叡山延暦寺は蓮如に追っ手を差し向けました。蓮如は金森御坊に門徒を集めてこれに対抗。本願寺教団は金森に城を築き合戦に及びました。これを金森合戦といい最初の一向一揆による合戦です。
 金森城は、境川(さかいがわ)右岸の自然堤防上にあり、南北を河川に挟まれた要衝の地でした。本願寺派の中心地として栄え、金森御坊を中心とする計画都市が形成ています。江戸時代に書かれた地図には周囲に濠を巡らし、土居を築いた跡が見られるそうです。金森は宗教的性格と防御の城郭的機能をあわせもった典型的な寺内町でした。ここでは、境川という水利を防備に応用した城砦であることも記憶して置いてください。後々の考察で取り上げることとなると思いますから。

 延暦寺側は大将が討ち取られるなどして、この局地戦においては門徒側が勝ったようです。

 しかしながら安心は出来ません。蓮如が琵琶湖湖南の地に逃れ、その追跡が失敗におわったことによって、延暦寺の怒りは蓮如を支援する村々にも向くことになります。
 堅田は琵琶湖南部の湖西側に位置する集落で、惣村組織である堅田衆による自治が行われていました。堅田衆は大別すると地侍層からなる殿原衆と商工業者、周辺農民からなる全人衆に分かれていました。このうちの殿原衆は船舶をもち、堅田の水上交通に従事していました。メインクライアントは延暦寺でしたが、時に海賊行為も行ったそうです。それでは延暦寺の面目丸つぶれなので、堅田衆に対して堅田以外の船から海賊行為を行わない代償として、上乗(うわのり)という通行税を取る権利を与えました。堅田衆はこれをちょっぴり拡大解釈して私腹をさらに肥やしたりしたのですが、それを延暦寺は苦々しく思ったものの黙認はしていました。
 一方で蓮如の教えは金森の対岸である堅田に及び、主に全人衆の指示を得ていました。
 応仁2年(1468年)、室町幕府御蔵奉行が花の御所再建のために調達した木材を運搬する船団が上乗を払わない事を理由に堅田衆が積荷を差し押さえてしまいました。応仁の乱が起こって将軍の権威は凋落し始めたとはいえ、激怒した将軍足利義政は延暦寺に堅田の処分を命じます。湖南には蓮如が潜伏しています。ここに至って延暦寺は堅田に対する方針を変えます。
 延暦寺は堅田に対して焼き討ちを行いました。堅田の集落はほぼ全域が焼かれ、住民は琵琶湖の中ほどに浮かぶ小さな孤島、沖島にのがれました。堅田大責(かたたおおぜめ)です。

 一向一揆というと宗教戦争のようにとらえられがちなのですが、その背景としてこの堅田に見られる惣村組織や寺社間の利害関係も複雑にからんでいるのですよね。
 すでに、京都の町では応仁の乱が始まっており、都の中は山名と細川の軍勢が犇いていました。足利義満が築いた花の御所を中心とした秩序は明らかにほころび始めていました。そのカオスのなかに、蓮如と本願寺教団は立たされていました。

 次回は蓮如が応仁の乱で荒廃した京都を離れ、疎開先で新天地を開拓するところに移ります。

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