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2007年9月20日 (木)

川戦:蓮如編③大谷本願寺

 東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時。夜空に響く鐘の音が陰にこもって物凄く……。
 と講談の台詞に出てくる東山。京都府東山区あたりの山、というか丘陵と読んでもよいところに、本稿で取り上げる大谷本願寺がありました。ありました、というのはちょっと語弊があるようなないようなですが、現在の知恩院の敷地の西側にある崇泰院のあるところらしいです。
 大体の地理を文章で書くなら、京都盆地というお椀があって、そのそこに碁盤の目の将棋台が置いているとおもってください。その将棋盤を京都の町とするなら、お椀のふちの真ん中から真西からちょっと南側にあたるあたりが、東山です。そこには清水寺だの、知恩院だの有名な寺社がひしめいていますが、大谷本願寺もその中の一つです。もともとは、親鸞の墓所がそこに作られ、墓を守る形で遺族が管理していましたが、親鸞の曾孫の覚如が自ら本願寺三世を名乗り、その墓所に本願寺を建てました。これが、浄土真宗本願寺派の始まりです。
 以後、法主は覚如の子孫がついで行くことになりますが、浄土真宗という宗派の伸張にあって、その流れについてゆききれていたとはいえなかったそうです。寂れているとはっきり書いているところもありますが、貴族の帰依も得ていたりしていますから実情はよく判りません。
 本願寺派教団の代表のことを法主と書いていますが、正確には留主職というそうです。成仏して彼岸の向こうに行った親鸞の留守を守って、親鸞の教えを代行して広める役目という意味なのでしょうか。蓮如が留主職を継いだのは三十七歳になった時だそうです。
 時に長禄元年(1457年)、乱世の開幕を告げる応仁の乱の勃発はこの十年後です。

 相続が遅いのは留主職が終身の身分だからかもしれません。腹違いの弟と継母とのあいだで相続でもめ、わずかながらあった財産は弟が留主職相続を諦めることとと引き換えに継母が持ち去ってしまった。
 相続間もない留主職がまずやらなければならなかったのは傾いている本願寺教団の再興でした。浄土真宗の寺として紹介していましたが、この頃は寂れていたため、真宗の看板を外して天台宗の門跡の一つ青蓮院の末寺として扱われる始末です。
 もともと、浄土宗の法然からして天台宗の学僧であり、親鸞はその教えを受けた立場です。そして、蓮如自身も今書いた青蓮院で得度しています。真宗と比叡山との関係は非常に密接なものだったといえるでしょう。青蓮院の本寺は比叡山延暦寺。東山の峰々を北にのぼった場所にあって、都の鬼門を守護する日本最高権威をもつこの仏教寺院にとって、浄土真宗の隆盛は忌々しげなものだったでしょう。親鸞の子孫の寺である本願寺に対して宗旨替えをさせていたのです。寺院の歴史を紐解くにこの手の宗旨替えは結構あったようですね。蓮如はみずからが留主職を継ぐにあたり、これに抗いました。教風から天台衆的なものを一掃し、上納金の支払いを拒絶したのです。実際払えなかったのかもしれませんが、その後の積極的な活動を考えると払えないほど貧乏だったようには見えません。
 この頃の宗派間の争いは室町幕府が傾いていることもあって、些細なことからヒートアップします。細かな事情は私も知りえないのですが、延暦寺はついにキレて、大谷本願寺の破却を決めます。蓮如は親鸞の像を抱えて流亡の時代にはいりました。
 本願寺のネットワークは畿内をじめ、北国・東国まで及んでおり、蓮如自身も東国、北国に布教に赴いた経験がありました。その際の支援者を頼っての流亡生活です。

 さて、次回は流亡の蓮如を支えた支援者たちの実体について触れたいと思います。

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