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2007年10月30日 (火)

川戦:三河布教編②三河国

 さて、前篇においては、蓮如の生涯を追いながら、その時々で作られた金森道場、吉崎道場、山科本願寺、石山道場、鷺宮道場などを見てきました。ちょっと、時代を後に転じて織田信長との石山合戦を見てみましょう。伊勢長島の一向一揆責めは、織田方の有力武将も討ち取られ、かつ一揆勢も皆殺しにあったというその戦いの凄惨さが特徴です。
 なぜそんな凄惨な戦いになったかというと、一揆衆が立てこもった長島願証寺が長良川に浮かぶ強固な水塞だったからです。そして、石山合戦そのものも、淀川に船を浮かべた織田水軍とこれに兵糧入れしようとする毛利水軍の戦いでした。運河の未整備な当時の大坂の石山本願寺ほ日本最大の水塞であったといえるかもしれません。ここに豊臣秀吉は大坂城を建て、本願寺を外敵から守った川を惣濠として難攻不落の要塞に仕立て上げましたが、この堀を大坂の陣で埋めたのが徳川家康です。
 ちょっと話が横にそれてしまいましたね。このように本願寺派が建てた寺は水塞としての機能を持ったものが多かったのです。私としてはここに着目いたします。水塞といってもそれを作るためには高度な治水の技術が必要ですし、洪水への備えも必要です。そういったものを整備するためには技術者集団がいたと観るのが正しいでしょう。その技術者集団は水上のネットワークを保有していたと考えています。
 逆に言うなら、水上交通に適した所であれば、彼らはそこに手を伸ばしたということです。

 そこは親鸞が拠点とした関東と京都の間にありました。三河の国です。三河の国は愛知県の東半分ですが、もともとの三河国の愛知県西半分のさらに半分。西三河と呼ばれる矢作川流域を指します。矢作川の流域は支流の乙川とアルファベットの『Y』の字をなします。おそらく、矢作川流域は乙川と乙川と合流する上流部分、下流部分の三つの領域に別れるゆえに三河なのでしょう。
 とは言え本稿では、渥美半島と知多半島に挟まれた三河湾を流れる三つの主要河川である、緒川、矢作川、吉田川の三つをもって三河国と呼んでみたいです。中心となる舞台は矢作川流域。織田信長が今川義元を桶狭間で討ち取ってから数年後、三河の国で一向門徒が蜂起しました。

 本稿ではその端緒となった三河国への本願寺教団の浸透状況を二人の人物の存在を通して見て行きたいと思います。その名は佐々木如光と石川政康と言います。佐々木如光は三河国佐々木にある上宮寺の住持で、石川政康は同じく三河国小川に勢力を張った土豪です。ご当地ではわかりませんが、全国的には全く無名と言っていい人物だと思います。こういう無名の人物を掘り起こすのも歴史マニアの醍醐味というものですね。

 二人は本稿、『川の戦国史』を語る上で重要なキーパーソンです。その理由は次稿以降にて語ります。

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2007年10月25日 (木)

川戦:三河布教編①真宗分派概略

 前稿に引き続き、川の戦国史にて浄土真宗本願寺教団の動向を記して参ります。前稿においては、蓮如の生涯という軸を通して、本願寺教団が畿内・北陸に築いた拠点について説明しましたが、本稿においては蓮如が畿内・北陸以外にもう一つ活動の中心に据えた三河の地を中心に見ます。

 その前に、本稿において押さえておくべき浄土真宗の分派の概略を説明します。例によって、教義に踏み込んだ説明は最小限にします。私には荷が重いものですので。
 仏教はご存知の通り、ゴータマシッダールタ(仏陀)が開いた宗教です。本来の仏教は厳しい戒律を守ることを通して自らを救う教えであり、インドからタイ方面に伝わってゆきました。これを上座部仏教もしくは、小乗仏教といいます。後になってもう一つの流れが現れました。これは仏に帰依し、仏の慈悲によって解脱を果たすやり方です。これを大乗仏教といい、中国経由で日本に入ってきたものです。
 仏教の教義は仏典に記されているのですが、その仏典は仏陀が自分で書いたものは無く、ほとんどが仏陀の言葉を記したり、仏陀の考え方を仮託して書かれたものです。故にその教えは多岐にわたり、時に合い矛盾するものもあったりしました。その仏典の中にどういうわけか、自らの教義を破壊しかねないものがあり、それがどういうわけだが世の中に流行してしまったのです。これが末法思想です。末法思想というのは、仏陀の教えに耐用年数があるという、何を根拠にしたのか良くわからない考え方です。曰く、仏陀入滅後千年は正法の時代。仏陀に祈れば誰でも仏陀の力で解脱が果たせます。千年から二千年の間は像法の時代。これはしっかり修行をした人が救われる時代です。逆に言えば、救われる努力を怠った者は救われない時代です。そして二千年以降が末法の時代。これはどんなに修行をしても、仏陀に祈ってももはや仏陀の力はその末世の人々を救うまでには届かないという考え方です。この末法の始まりが大体平安時代の末期とされていました。
 神による救済のない宗教なんて、宗教としての価値は見出せませんし、おそらくはこいつはデマなんじゃないかと思うのですが、それを本気で信じた人たちがいました。そして、何とかしようと考えた人たちがいました。それは中国で起こりました。仏陀が救えないなら、仏陀の弟子で仏陀の後に仏になる如来に帰依するべし。という考え方です。その為に用意された如来が阿弥陀如来です。この阿弥陀如来への信仰が中国では浄土教になりました。それを日本で展開したのが法然の浄土宗であり、法然の弟子親鸞が開いた浄土真宗へと受継がれてゆくわけです。(もう一つ時宗の流れというものがあり、徳川家康の先祖が時宗の遊行僧だったりして、実に興味深い題材なんですが本稿では不勉強のこともあり割愛します)

 浄土宗及び浄土真宗とそれまでの旧仏教との大きな違いは戒律を撤廃し、ただひたすら阿弥陀に帰依することによって浄土に行けると主張したことです。簡単に言えば、往生するために出家する必要がなくなったということですね。貴族のような財力に余裕のある人たちだけではなく、武士や農民、商工業者にも解脱の道が拓かれたということです。この教義の大転換をマルチン・ルターやカルバンのキリスト教の宗教改革になぞらえる論者もいます。
 親鸞は京都で活躍しましたが、過激な思想であるために佐渡に流されました。その後、許されて後関東で活動したのち、京都の東山で死にました。
 親鸞が生前京都山科において興正寺という寺を開いたとされています。厳密にはその弟子である真仏あるいは、その後に関東から来た門徒達によるというのが正しいのですが、これがのちに京都東山汁谷という所に移って寺号を仏光寺と改め、真宗教団の一派を形成しました。これを仏光寺派といいます。
 親鸞の関東における拠点は下野国高田でここに根本道場を作りました。これが高田専修寺です。ここで活動する真宗教団を高田専修寺派といいます。この専修寺派は蓮如と同時代を生きた真慧が伊勢国津に建てた無量寿院を新たな根拠地とし、本願寺派のライバルとなってゆきます。

 そして、本願寺教団。すでに説明しましたとおり、親鸞の曾孫の覚如が親鸞の廟堂を寺として始めたのがこれです。一時期寂れていたのを蓮如が立て直し、山科本願寺から石山本願寺に拠点を移しながら、仏光寺派、高田専修寺派以上の教勢を天下に示しました。後に、織田信長の台頭とともに信長と戦うことになり、石山合戦を繰り広げることになります。本願寺教団はこれに敗北。信長の後継者である豊臣秀吉の時代を経て徳川家康は政治的策謀によって、本願寺教団を東本願寺と西本願寺に割ります。
 鎌倉から戦国まで、仏教教団は派閥抗争を繰り広げてきたのですが、この本願寺教団を本願寺派と大谷派に分割させたことを含む家康の宗教統制によって宗派間の対立は完全におさまりました。

 要点は、浄土真宗には三つの有力な派閥があるということ。一つは仏光寺派、一つは高田専修寺派、最後の一つが本願寺教団。以後の論考に進む前にまず、ここを抑えておいていただければ幸いです。

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2007年10月11日 (木)

川戦:蓮如編⑨考察

 こうして、蓮如の生涯を振り返りつつ考察するに、彼が創建した寺院の多くが、川沿いに堀を巡らせたつくりになっていることに気づくでしょう。それは寛正の法難などであったような他宗派の弾圧から門徒を守るためにそのようなものになったのかもしれません。
 もっとも、城のような作りをもった寺院というのはさほど珍しくはありません。大谷本願寺を破却した比叡山延暦寺は比叡山という高地に立てられた一つの要塞に見立てられます。実際、南北朝動乱期においてはここに後醍醐天皇が立てこもって足利尊氏相手に篭城戦などを行いました。そういうものと比較して、蓮如の建てた諸寺院は一線を画していると思うのです。延暦寺を山城に例えるならば、蓮如の建てた寺院は水塞と呼ぶことはできないでしょうか。特に、吉崎御坊や石山御坊にその色彩が強いように思われます。

 ここでちょっと蓮如から視点を移してみたいのですが、どうして蓮如はそれを作ることができたのでしょうか。蓮如自身に城の縄張りを行う技術があったとは思えません。また、蓮如は生涯に大量の御文を門徒に下していますが、彼らの教化に専心していたので、寺社の設計をしている暇などなかったでしょう。しかるに、何ゆえかくも精力的に寺社造営に邁進できたのか。
 それは当然、蓮如の側近団の手になるものでしょう。それがどういう人々か。大谷本願寺留主職を継いだ蓮如を支えた人々は琵琶湖南岸の堅田・金森・大津の門徒でした。彼らが金森城造営で蓄えたノウハウを元に、それを吉崎、山科、鷺宮、石山へと展開したと考えられないでしょうか。蓮如が吉崎にいた期間は四年そこそこですが、造営の手間を考えるとその短期間で奥州から門徒が尋ねてくるほどの隆盛をもたらすには、そこに大きなネットワークがあったと考えた方がいい。そして、蓮如の教えそのものがそういう人々にアピールするものだったということでしょう。
 私はそのベースとなったものが、水上交通を生業とし、時に海賊ともなる堅田衆をその末端とする水運ネットワークであったのではないかと思われます。ただ、ネットワークはあったが城作りや戦い方を知らなかった人々にそれを教えて一向一揆を含む組織戦のパッケージを広めたのが、琵琶湖南岸において宗教戦争を経て戦いのノウハウを蓄えた、湖賊達であったのではないかと推測しています。

 とりあえず、蓮如をめぐる考察はここで一段落とさせていただきます。次は時代を変えて、別な人物にスポットをあてて、この水上ネットワークが戦国時代にあってどのように機能してきたのかを考察してゆきたいと思います。それが本稿における目的であり、歴史を捉える視座であります。
 ご一読頂きありがとうございました。

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2007年10月 9日 (火)

川戦:蓮如編⑧境目の街

 石山御坊についての付記です。その後、調べて面白いことがわかったので追記させていただきます。
 本稿では、『川の戦国史』と称して蓮如とその周囲、特に川、即ち水運を生業とする人々にスポットライトを当てております。その実体は何なのかと、問われても私自身勉強中で答えることが出来ないところです。漠然としたイメージに過ぎませんが、歴史家の網野善彦氏が言った士農工商から外れた公界の民。農本位制の枠組みに囚われない所にいる人々とその周囲にいる人々を想定しています。その中には土着して土地をもった人々も含まれます。そういった川の民の特徴として、武士や朝廷が定めた公的な枠組みとは異なるネットワークが存在する。そんな仮説を立てながら本稿を書いています。それは、ブログのタイトルである『創作のネタ』元でしかないのですが、その視点で見ると今まで見えていなかったものが見えるのではないか、見えたらいいなぁなどと考えています。

 さて、川の民が公的な枠組みとは異なるネットワークを持っていると書きましたが、それは川が地域と地域を隔てる境界をなしているからです。今は川なんかあれば、橋を架ければ済む話ですが、戦国時代において橋は殆どありませんでした。その多くが船を使うか、人力で渡りました。僅かにかかっていた橋も、一度戦争ともなれば、敵が渡れぬように破壊するのが常でした。そこに川の民が存在する余地があると考えています。川の民は陸(おか)の領主達の干渉を受けぬだけの力を得ることができたのではないかな、と思います。
 例えば、川を挟んでA国とB国が国境を接していたとします。川の民はA国に帰属していますが、A国が川の民に受け入れられない要求をした場合にB国につくようなこともできたのではないでしょうか。A国が弱体化した折には川に船橋をかけてB国の軍勢を入れるなんてこともできたかもしれません。また、逆もしかりです。それ故、川の民は陸の領主にあまり忠誠心や帰属意識が薄い。
 それを陸の領主が攻めるなんて話は本稿でも触れた堅田大責めにもありました。ここでは湖の民ですが、彼らは沖ノ島に避難し、全滅を免れています。
 こういう境界線上の人々を境目の民とも呼ぶことができるでしょう。そして、境には色々な漢字を当てることが出来ます。それが、堺であり、坂井であり、酒井だったりする。
 このあたりは、『信長公記』を読んだ時に、家康の代の徳川家の家老、酒井忠次のことを坂井忠次と表記しているところから思いついています。そこには信長は家康の使者として接見した酒井忠次に対し、家康を通さず直接に贈り物を贈ったりした(引き抜き工作をした?)とか書いてありますから、もし本能寺の変がなくて信長が天下を取ったなら酒井家ではなく、坂井家として歴史に残ったかもしれません。
 酒井家は松平郷あたりの土豪で家康の先祖を入り婿として迎えた一族です。同様に尾張国にも織田守護代家の家臣として坂井一族が勢力をもっていました。信長の父信秀が活躍していた時代には守護代の代理、又代として尾張下四群の差配を任されていた一族です。三河の酒井家と尾張の坂井家が同族なのか、はたまた彼らが川の民だったのかどうかは勉強不足でよく判りません。ただ、歴史文書を読むに当たって、表記だけではなく、音もまた大事なのだな、と思わされた事例です。

 さて、もう一つの堺ですが、戦国時代においては商人の町として会合衆が治める自治がなされた町として知られていますね。和泉・河内・摂津三国の国境にある港町でやはり戦国時代には領主の支配から脱して自治を手にしたという点で注目しています。
 さらにプラスアルファの『サカイ』が、本稿のメイン・イベントです。現存する文書において、大阪の地を最初にオオサカと呼んだのは石山御坊を開いた蓮如ということになっています。彼が明応5年(1496年)に書いた御文に『摂州東成郡生玉乃庄内大坂』という記述があるそうです。まぁ、宛名書きの住所みたいな記述なので、蓮如が名づけたという訳ではなくそれ以前に大坂という地名はあったということだと思います。頃合も丁度この地に石山御坊を拓いた時にあたります。では、蓮如は何に着目してこの地を大坂と呼び、道場をひらいたのでしょうか。

 大阪に行った人なら誰でも思うことは、『ここのどこに大きな坂があるねん?』ってことかと推察しますw。大阪は大阪平野のど真ん中にあって坂らしい坂はありません。
 代わりにあるのは川です。石山御坊は、現在天満川・大川と呼ばれている旧淀川の海に注ぐ河口に建てられておりました。その水塞寺院としての堅牢さは石山合戦において織田信長との戦いの中で遺憾なく発揮されました。石山本願寺は織田信長が10年以上の歳月をかけてようやく攻め落としたほどです。

 以下、私見です。川は土地と土地を隔てるものですが、そこに人が入り、生業を得た。土地に立脚したものではありませんから、農業とか収穫ではありません。そういう人々が土地を治める領主達の境目にあって自立を志向したのではないでしょうか。即ち、大和川の河口に堺の町が拓けたように、淀川の河口にももう一つのサカイがあった。古来の大阪の発音は大きい坂を意味する『おほさか』ではないそうです。別表記で『小坂』と書かれている文書もあったそうで、小田、小原、小山の等の地名にあるような『小さい方』という意味での『おさか』という読みであるらしいです。その近隣に流れる大和川の河口にあった堺の街は、戦国の混乱の中、足利一族の義維が公方を自称した時の根拠地となりました。それを支えるだけの財力・基盤があったということでしょう。そしてその後自治を獲得するに至ります。蓮如が石山御坊を建てる以前の大阪はそんな堺と区別する意味で『小さな堺=小坂』と呼ばれていた可能性はなきにしもあらずですよね。蓮如はこれから自分が坊を建てる地を『小さい堺』と呼びたくなかったのかもしれません。今後の発展を見越した上であえて『大きい境・堺=大坂』と呼んだのではないでしょうか。

 蓮如の生き様を見るにつけ思うことがあります。比叡山の天台宗や真宗高田専修寺派等の勢いが盛んな中で本願寺派の教勢を拡張するためには、既存の教団が勢力を伸ばしていない境目に目をつけるしかなかった。その視線で見てまず目に入ったのが琵琶湖の湖上の民、すなわち境目の民だったのでしょう。大聖寺川河口の吉崎は国ごと百姓の持ちたる国となり、その結果を受けて(と思います)紀ノ川河口の鷺森御坊と淀川河口の石山御坊を蓮如は拓きました。その慧眼は雑賀鉄砲衆と石山本願寺、そして現在にまで残る大阪の地名の中に生きているのだと思います。

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2007年10月 4日 (木)

川戦:蓮如編⑦石山本願寺

 いよいよ、蓮如がらみの寺院紹介の最後になります。後に織田信長との抗争の舞台になる石山本願寺ですここの紹介の前に、書き漏らした関連寺院を紹介します。
 鷺宮別院は紀伊国の紀ノ川河口にある寺院で後の一向一揆の雑賀党の根拠地ですね。ここを拠点に雑賀孫一が活躍したとおもうと、なんとなくちょっと感慨深いですね。
 あと、京都と大阪の間に富田という所があるのですが、蓮如はここにもしっかり道場を作っています。ここで親鸞の教行信証を書写したことから教行寺と呼ばれている寺ですが、この町も蓮如によって開かれた寺内町です。この辺は自分の地元であったのでよく知ってる場所ですが、そんなに大きな川はありません。しかしながら、市史を見るに酒造が盛んな地であったことを考えるとそれなりの水郷であったことは想像できます。

 さて、石山本願寺ですがこれは蓮如が隠居後に作った寺院なのです。作った当時は石山御坊であり、本願寺ではありませんが。吉崎御坊、鷺宮別院と同じく河口に作った水上城砦寺院です。そうであることは石山合戦が如実にしめしています。そして、後にこの場所に豊臣秀吉が大坂城をつくったことでもその戦略的価値は明らかでしょう。蓮如は石山御坊を作った後、山科に戻りそこで入滅します。すでに時代は戦国になっているものの、大名や他宗の物に妨害できない拠点を作り上げたという充実感はあったかもしれません。
 石山御坊は本願寺教団の本拠地である山科本願寺よりも繁盛し、それがために蓮如の後継者によって弾圧されることもありましたが、順調な発展をみせました。天文元年(1532年)山科本願寺が近江守護の六角氏と法華宗徒の襲撃により焼き討ちされると、法主は石山御坊にうつり、そこを本願寺としました。

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2007年10月 2日 (火)

川戦:蓮如編⑥山科本願寺

 蓮如が吉崎を退去した頃、応仁の乱は一応の収束に向かっていました。逆に言うと京都の主な建物は灰燼に帰するか廃墟と化してしまったため、戦略上のメリットは大きく喪われていたということです。騒動の大本である山名宗全と細川勝元はともに死に、将軍家は足利義尚を後継とすることでまとまり、残りの連中は自らの領国で雌雄を決することになりました。加賀国における富樫氏の内紛もその一つでしょう。もしかしたら蓮如は門徒達からもたらされる情報を分析して次は地方がきな臭くなると判断したのかもしれません。
 蓮如は京に戻ってきました。そして、新たな拠点を求めます。選んだ地は山科。私自身はこの選択自体に蓮如自信の戦闘的な性格を感じます。山科は琵琶湖の南端大津と京都の中間点にあって、その距離は極めて短い。やはり山科川のほとりに立地させ、北西には洛中への入口の一つである粟田口、山科川を下ると宇治川に合流し、同じく洛中の入口である宇治川口に至ります。こういう場所に堀をめぐらせ土塁を積み上げた、吉崎御坊や金森城のような城砦寺院を作ったわけです。後背である琵琶湖には本願寺教団の熱心党である堅田・金森・大津の門徒達が控えています。
 言うならば、洛外にあって、洛中を落とすための付け城のようなものですね。蓮如がというよりも、本願寺教団がなんでこんな城をこんな場所に作ったのか。蓮如の立場からすれば、父祖の地である東山大谷への回帰があったのかもしれません。しかしながら、その場所はすでに比叡山延暦寺によって差し抑えられています。次善の策としての山科だったのだろうと思います。だからこの寺に本願寺の名を冠したのでしょう。それも、次に比叡山の襲撃にあっても耐えられるような強固なつくりの城のような寺院が望まれたのではないかと推察します。
 さらに、もっと切実だったのが蓮如の支持基盤である湖上運送業者の都合だったのではないでしょうか。応仁の乱の前後に室町幕府はその徴税機能に大きな齟齬をきたし、私的な関所が作られ流通が妨害されていました。ちなみに、蓮如が山科に寺院造成を始めた文明10年(1478年)に将軍足利義政の妻である日野富子が通行税を取るために設けた京都七口関に対して不満をもった町衆・国人・土豪達が土一揆を起こします。関に対する不満はここにあるように顕れているわけで、琵琶湖湖南の湖上交通業に従事している人々がこの動きと連動して蓮如に山科本願寺造営を勧めたというのは考え方としてありではないかな、と思います。粟田口と宇治川口は船で物資を運ぶ人々にとっては確保すべき入口です。そこで無体な徴税があったとしても、城のような本願寺がすぐそばにあれば、すぐに逃げ帰り、応援を呼ぶことができます。蓮如が山科本願寺に何を望んだのか、想像するしかありませんが、そのような役割を期待されたのが実情だったのではないか。そんな気がします。

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