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2007年10月 9日 (火)

川戦:蓮如編⑧境目の街

 石山御坊についての付記です。その後、調べて面白いことがわかったので追記させていただきます。
 本稿では、『川の戦国史』と称して蓮如とその周囲、特に川、即ち水運を生業とする人々にスポットライトを当てております。その実体は何なのかと、問われても私自身勉強中で答えることが出来ないところです。漠然としたイメージに過ぎませんが、歴史家の網野善彦氏が言った士農工商から外れた公界の民。農本位制の枠組みに囚われない所にいる人々とその周囲にいる人々を想定しています。その中には土着して土地をもった人々も含まれます。そういった川の民の特徴として、武士や朝廷が定めた公的な枠組みとは異なるネットワークが存在する。そんな仮説を立てながら本稿を書いています。それは、ブログのタイトルである『創作のネタ』元でしかないのですが、その視点で見ると今まで見えていなかったものが見えるのではないか、見えたらいいなぁなどと考えています。

 さて、川の民が公的な枠組みとは異なるネットワークを持っていると書きましたが、それは川が地域と地域を隔てる境界をなしているからです。今は川なんかあれば、橋を架ければ済む話ですが、戦国時代において橋は殆どありませんでした。その多くが船を使うか、人力で渡りました。僅かにかかっていた橋も、一度戦争ともなれば、敵が渡れぬように破壊するのが常でした。そこに川の民が存在する余地があると考えています。川の民は陸(おか)の領主達の干渉を受けぬだけの力を得ることができたのではないかな、と思います。
 例えば、川を挟んでA国とB国が国境を接していたとします。川の民はA国に帰属していますが、A国が川の民に受け入れられない要求をした場合にB国につくようなこともできたのではないでしょうか。A国が弱体化した折には川に船橋をかけてB国の軍勢を入れるなんてこともできたかもしれません。また、逆もしかりです。それ故、川の民は陸の領主にあまり忠誠心や帰属意識が薄い。
 それを陸の領主が攻めるなんて話は本稿でも触れた堅田大責めにもありました。ここでは湖の民ですが、彼らは沖ノ島に避難し、全滅を免れています。
 こういう境界線上の人々を境目の民とも呼ぶことができるでしょう。そして、境には色々な漢字を当てることが出来ます。それが、堺であり、坂井であり、酒井だったりする。
 このあたりは、『信長公記』を読んだ時に、家康の代の徳川家の家老、酒井忠次のことを坂井忠次と表記しているところから思いついています。そこには信長は家康の使者として接見した酒井忠次に対し、家康を通さず直接に贈り物を贈ったりした(引き抜き工作をした?)とか書いてありますから、もし本能寺の変がなくて信長が天下を取ったなら酒井家ではなく、坂井家として歴史に残ったかもしれません。
 酒井家は松平郷あたりの土豪で家康の先祖を入り婿として迎えた一族です。同様に尾張国にも織田守護代家の家臣として坂井一族が勢力をもっていました。信長の父信秀が活躍していた時代には守護代の代理、又代として尾張下四群の差配を任されていた一族です。三河の酒井家と尾張の坂井家が同族なのか、はたまた彼らが川の民だったのかどうかは勉強不足でよく判りません。ただ、歴史文書を読むに当たって、表記だけではなく、音もまた大事なのだな、と思わされた事例です。

 さて、もう一つの堺ですが、戦国時代においては商人の町として会合衆が治める自治がなされた町として知られていますね。和泉・河内・摂津三国の国境にある港町でやはり戦国時代には領主の支配から脱して自治を手にしたという点で注目しています。
 さらにプラスアルファの『サカイ』が、本稿のメイン・イベントです。現存する文書において、大阪の地を最初にオオサカと呼んだのは石山御坊を開いた蓮如ということになっています。彼が明応5年(1496年)に書いた御文に『摂州東成郡生玉乃庄内大坂』という記述があるそうです。まぁ、宛名書きの住所みたいな記述なので、蓮如が名づけたという訳ではなくそれ以前に大坂という地名はあったということだと思います。頃合も丁度この地に石山御坊を拓いた時にあたります。では、蓮如は何に着目してこの地を大坂と呼び、道場をひらいたのでしょうか。

 大阪に行った人なら誰でも思うことは、『ここのどこに大きな坂があるねん?』ってことかと推察しますw。大阪は大阪平野のど真ん中にあって坂らしい坂はありません。
 代わりにあるのは川です。石山御坊は、現在天満川・大川と呼ばれている旧淀川の海に注ぐ河口に建てられておりました。その水塞寺院としての堅牢さは石山合戦において織田信長との戦いの中で遺憾なく発揮されました。石山本願寺は織田信長が10年以上の歳月をかけてようやく攻め落としたほどです。

 以下、私見です。川は土地と土地を隔てるものですが、そこに人が入り、生業を得た。土地に立脚したものではありませんから、農業とか収穫ではありません。そういう人々が土地を治める領主達の境目にあって自立を志向したのではないでしょうか。即ち、大和川の河口に堺の町が拓けたように、淀川の河口にももう一つのサカイがあった。古来の大阪の発音は大きい坂を意味する『おほさか』ではないそうです。別表記で『小坂』と書かれている文書もあったそうで、小田、小原、小山の等の地名にあるような『小さい方』という意味での『おさか』という読みであるらしいです。その近隣に流れる大和川の河口にあった堺の街は、戦国の混乱の中、足利一族の義維が公方を自称した時の根拠地となりました。それを支えるだけの財力・基盤があったということでしょう。そしてその後自治を獲得するに至ります。蓮如が石山御坊を建てる以前の大阪はそんな堺と区別する意味で『小さな堺=小坂』と呼ばれていた可能性はなきにしもあらずですよね。蓮如はこれから自分が坊を建てる地を『小さい堺』と呼びたくなかったのかもしれません。今後の発展を見越した上であえて『大きい境・堺=大坂』と呼んだのではないでしょうか。

 蓮如の生き様を見るにつけ思うことがあります。比叡山の天台宗や真宗高田専修寺派等の勢いが盛んな中で本願寺派の教勢を拡張するためには、既存の教団が勢力を伸ばしていない境目に目をつけるしかなかった。その視線で見てまず目に入ったのが琵琶湖の湖上の民、すなわち境目の民だったのでしょう。大聖寺川河口の吉崎は国ごと百姓の持ちたる国となり、その結果を受けて(と思います)紀ノ川河口の鷺森御坊と淀川河口の石山御坊を蓮如は拓きました。その慧眼は雑賀鉄砲衆と石山本願寺、そして現在にまで残る大阪の地名の中に生きているのだと思います。

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