« 川戦:蓮如編⑧境目の街 | トップページ | 川戦:三河布教編①真宗分派概略 »

2007年10月11日 (木)

川戦:蓮如編⑨考察

 こうして、蓮如の生涯を振り返りつつ考察するに、彼が創建した寺院の多くが、川沿いに堀を巡らせたつくりになっていることに気づくでしょう。それは寛正の法難などであったような他宗派の弾圧から門徒を守るためにそのようなものになったのかもしれません。
 もっとも、城のような作りをもった寺院というのはさほど珍しくはありません。大谷本願寺を破却した比叡山延暦寺は比叡山という高地に立てられた一つの要塞に見立てられます。実際、南北朝動乱期においてはここに後醍醐天皇が立てこもって足利尊氏相手に篭城戦などを行いました。そういうものと比較して、蓮如の建てた諸寺院は一線を画していると思うのです。延暦寺を山城に例えるならば、蓮如の建てた寺院は水塞と呼ぶことはできないでしょうか。特に、吉崎御坊や石山御坊にその色彩が強いように思われます。

 ここでちょっと蓮如から視点を移してみたいのですが、どうして蓮如はそれを作ることができたのでしょうか。蓮如自身に城の縄張りを行う技術があったとは思えません。また、蓮如は生涯に大量の御文を門徒に下していますが、彼らの教化に専心していたので、寺社の設計をしている暇などなかったでしょう。しかるに、何ゆえかくも精力的に寺社造営に邁進できたのか。
 それは当然、蓮如の側近団の手になるものでしょう。それがどういう人々か。大谷本願寺留主職を継いだ蓮如を支えた人々は琵琶湖南岸の堅田・金森・大津の門徒でした。彼らが金森城造営で蓄えたノウハウを元に、それを吉崎、山科、鷺宮、石山へと展開したと考えられないでしょうか。蓮如が吉崎にいた期間は四年そこそこですが、造営の手間を考えるとその短期間で奥州から門徒が尋ねてくるほどの隆盛をもたらすには、そこに大きなネットワークがあったと考えた方がいい。そして、蓮如の教えそのものがそういう人々にアピールするものだったということでしょう。
 私はそのベースとなったものが、水上交通を生業とし、時に海賊ともなる堅田衆をその末端とする水運ネットワークであったのではないかと思われます。ただ、ネットワークはあったが城作りや戦い方を知らなかった人々にそれを教えて一向一揆を含む組織戦のパッケージを広めたのが、琵琶湖南岸において宗教戦争を経て戦いのノウハウを蓄えた、湖賊達であったのではないかと推測しています。

 とりあえず、蓮如をめぐる考察はここで一段落とさせていただきます。次は時代を変えて、別な人物にスポットをあてて、この水上ネットワークが戦国時代にあってどのように機能してきたのかを考察してゆきたいと思います。それが本稿における目的であり、歴史を捉える視座であります。
 ご一読頂きありがとうございました。

|

« 川戦:蓮如編⑧境目の街 | トップページ | 川戦:三河布教編①真宗分派概略 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/16607202

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:蓮如編⑨考察:

« 川戦:蓮如編⑧境目の街 | トップページ | 川戦:三河布教編①真宗分派概略 »