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2007年10月 2日 (火)

川戦:蓮如編⑥山科本願寺

 蓮如が吉崎を退去した頃、応仁の乱は一応の収束に向かっていました。逆に言うと京都の主な建物は灰燼に帰するか廃墟と化してしまったため、戦略上のメリットは大きく喪われていたということです。騒動の大本である山名宗全と細川勝元はともに死に、将軍家は足利義尚を後継とすることでまとまり、残りの連中は自らの領国で雌雄を決することになりました。加賀国における富樫氏の内紛もその一つでしょう。もしかしたら蓮如は門徒達からもたらされる情報を分析して次は地方がきな臭くなると判断したのかもしれません。
 蓮如は京に戻ってきました。そして、新たな拠点を求めます。選んだ地は山科。私自身はこの選択自体に蓮如自信の戦闘的な性格を感じます。山科は琵琶湖の南端大津と京都の中間点にあって、その距離は極めて短い。やはり山科川のほとりに立地させ、北西には洛中への入口の一つである粟田口、山科川を下ると宇治川に合流し、同じく洛中の入口である宇治川口に至ります。こういう場所に堀をめぐらせ土塁を積み上げた、吉崎御坊や金森城のような城砦寺院を作ったわけです。後背である琵琶湖には本願寺教団の熱心党である堅田・金森・大津の門徒達が控えています。
 言うならば、洛外にあって、洛中を落とすための付け城のようなものですね。蓮如がというよりも、本願寺教団がなんでこんな城をこんな場所に作ったのか。蓮如の立場からすれば、父祖の地である東山大谷への回帰があったのかもしれません。しかしながら、その場所はすでに比叡山延暦寺によって差し抑えられています。次善の策としての山科だったのだろうと思います。だからこの寺に本願寺の名を冠したのでしょう。それも、次に比叡山の襲撃にあっても耐えられるような強固なつくりの城のような寺院が望まれたのではないかと推察します。
 さらに、もっと切実だったのが蓮如の支持基盤である湖上運送業者の都合だったのではないでしょうか。応仁の乱の前後に室町幕府はその徴税機能に大きな齟齬をきたし、私的な関所が作られ流通が妨害されていました。ちなみに、蓮如が山科に寺院造成を始めた文明10年(1478年)に将軍足利義政の妻である日野富子が通行税を取るために設けた京都七口関に対して不満をもった町衆・国人・土豪達が土一揆を起こします。関に対する不満はここにあるように顕れているわけで、琵琶湖湖南の湖上交通業に従事している人々がこの動きと連動して蓮如に山科本願寺造営を勧めたというのは考え方としてありではないかな、と思います。粟田口と宇治川口は船で物資を運ぶ人々にとっては確保すべき入口です。そこで無体な徴税があったとしても、城のような本願寺がすぐそばにあれば、すぐに逃げ帰り、応援を呼ぶことができます。蓮如が山科本願寺に何を望んだのか、想像するしかありませんが、そのような役割を期待されたのが実情だったのではないか。そんな気がします。

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