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2007年11月29日 (木)

川戦:源姓松平編④松平泰親

 松平親氏は松平家初代として各書に言及されているものの、同時代史料と目せるものが残っていません。そのため、生没年を含め、活動時期を確定できない部分があります。松平泰親は親氏の息子とも弟ともされています。親子として扱っている文書もあれば兄弟として扱っている書物もあり、今ひとつ決め手がありません。どちらを取るかによって、親氏の活動年代が左右されるのですが、決定的な根拠はありません。
 ただ、泰親については、同時代史料に存在証明があるのですね。三河国額田郡岩津に若一神社というのがあるのですが、そこの社殿と神体の建立趣意書が残っています。そこには応永33年(1426年)に松平太郎左衛門入道用金が施主となっていることが記されているそうです。太郎左衛門と用金の名は三河物語を始め、松平家の歴史を綴った諸書に残っているためこれを松平第二代泰親に比定することができます。
 三河物語などには岩津や岡崎の城を攻め取ったなどと華々しい記述がされているものの、そこは中山郷に攻め込んだ親氏にちなんだ記述と同じく脚色の可能性があるようです。
 松平家の家伝では、松平郷に土着した親氏は彼とは別に漂泊していた泰親をよびよせ、息子が幼少なゆえ三年半名代とさせたことになってます。そして、その泰親は岩津に進出します。岩津は矢作川流域の在所で、松平郷を開拓し、産物を川沿いに流通に乗せようとすれば行き当たる場所ですね。地理的には松平郷よりよほど拓けている場所だと考えられます。(グーグル・マップでそれをみれば一目瞭然でしょう)
 親氏が『攻め取った』と言われる中山十七名は矢作川の支流にある在所であり、泰親が『攻め取った』といわれる岩津、岡崎は矢作川沿いの在所です。すなわち、彼らに関わる土地は全て川で繋がっているということです。これは、松平家もまた、川のネットワークに関わる一族である証拠のような気がします。

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2007年11月27日 (火)

川戦:源姓松平編③松平親氏

 親氏が三河国に流れてきた時、徳阿弥と号する時宗僧だったと先に書きました。それをいつだったのか、比定する同時代史料は皆無です。その全ては後世に書かれた史料に頼らざるを得ず、史料によって記述にバラツキを生じています。親氏の没年にいたっては百年に渡る誤差があります。一応信用できる史料が現れるのは、彼の後を継ぐとされる泰親の代になってからです。それを基準に常識的なセンを割り出すと、十四世紀後半から十五世紀前半あたりを活動時期と見なせるのではないかと思います。その根拠については後述したいとおもいます。

 徳阿弥・親氏が三河国松平郷に流れてきた時に彼の人柄を見込んだ人物がいました。松平太郎左衛門信重という地元の富豪でした。信重には後継ぎがおらず、娘を徳阿弥に娶らせ養子としました。還俗して親氏と名を改め、松平信重の婿におさまった訳です。本来であれば、信重の系統も松平家の代として数えられるべきなのですが、それでは源氏の系譜に繋がらないので、あまり省みられません。信重は藤原流加茂氏の一族といわれています。
 徳阿弥に隠し子がいたことが松平家に婿入りする後に発覚したという話があります。基本的に親鸞の浄土真宗以外は妻帯は論外ですので、徳阿弥のこの行いは破戒と言えるのかもしれません。親氏はこの子を認知し、松平家の家人としました。これが後に大名化して松平家の家老筋となる酒井家の起こりと言われております。

 義父である信重が農業を営んでいたのか、それとも何かを商っていたのか、そのあたりはわかりません。ただ、義父の財産を使って親氏が始めたのは松平郷の開拓でした。開拓民を組織して交通の邪魔になる岩をどけたり、木を切り倒したりして道を作ったり。そういう地元貢献をして人々の信頼を掴んだという話が三河物語に書かれています。あと、中山十七名と呼ばれる近隣の村々に攻め込んでこれを支配したりという話も書かれているのですが、この頃って室町幕府の最盛期です。戦国時代じゃありません。だから、こんな目立つことはできたはずはない。とか、何らかの流通や開拓に関わった村ではないかといわれています。
 要するに親氏は加茂氏の一族に入り込んだ身元不明のまろうどです。そういう意味では前に述べた如光と似ている所があります。

 さて、ここで親氏に関する興味深い史料があります。三河国大浜に称名寺という時宗寺があります。ここに遺されていた文書に親氏に関わる伝承があるのですね。ここには、徳阿弥がなぜ三河国に来たのか、が書かれているのですね。
 内容は大浜に称名寺に親氏とその父有親が、石川孫三郎を従えて来訪した。それは石川孫三郎は称名寺住持の兄に当たるからその縁をたよったものだと思われる。親氏は松平郷に移住して松平家を継ぎ、父の有親は称名寺に留まってそこで死んだと書かれているそうです。

 ここで私が着目したいのは石川孫三郎なる人物です。文安年中に三河に移住した石川政康に縁ある人物である可能性は低くないと思います。おそらくは石川政康は松平親氏より後の時代に活躍すると考えられます。とするならば、石川一族は石川政康以前に三河国と縁があり、一族に時宗寺の住持を出す、時宗宗徒の一族であったのかもしれません。また、石川政康が三河国小川に移住した時、小川に建てた氏寺の名を蓮華寺といいます。これと同じ名の寺が近江国番場にありこれが一向宗を開いた一行俊聖の終焉の地として、一向宗伝播の拠点となっています。時宗と一向宗はともに踊念仏を取り入れており、宗旨はしばしば混同されております。そして、浄土真宗本願寺派は時宗や一向宗徒をターゲットに教勢を広げてゆきました。石川政康や彼の属する石川一族もまた、蓮如や如光に教化されるまでは元一向宗もしくは時宗の宗徒だったのかもしれません。

※付記
 称名寺の寺伝は有親・親氏の来訪を1441年(嘉吉元年)としています。これを事実と仮定するなら、後で記載する泰親や信光の事跡と年代が合いません。よって取り扱いは要注意です。寺伝そのものに誤謬があるか、あるいは発想そのものの転換を行うかのどちらかが必要になると考えます。

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2007年11月22日 (木)

川戦:源姓松平編②一向宗そして時宗

 松平家初代の松平親氏が三河国に流れてきた頃、彼は徳阿弥と号する時宗僧だったといいます。 時宗も大きな括りでいえば、蓮如が奉じた浄土真宗と同じ阿弥陀信仰の一派です。

 とは言うものの、言葉の使い方は非常に難しいのです。時宗もしくは、浄土真宗本願寺教団を指すときに『一向宗』という言葉が使われることがあるのですが。本来の一向宗というのは、時宗でも、浄土真宗本願寺教団でもない、『一向宗』という一派があるそうなのです。時宗僧である徳阿弥の行いを語る前に、この一向宗という言葉の定義をきちんとして置きたいと思います。

この用語の使い方については、色々物議がかもされました。それも蓮如が活躍していた時代から、江戸時代、そして明治から戦後にかけて連綿とした歴史です。その経緯は非常にややこしいのですけど、ここでは戦国時代における用法のエッセンスだけ、触れて置きます。

 鎌倉末期に一向という浄土宗の僧がいました。彼は新たな宗派、一向宗を開きました。一向宗は基本的には浄土宗の分派ということになりますが、踊念仏を取り入れた為、一遍の時宗と混同されますが、別物だそうです。教えの流れからいえば、一遍の時宗も一向の一向宗も浄土宗の影響をうけつつも、別個に発生したもので、念仏に重きをおいた時宗と必ずしもそうではなかった一向宗という傾向の違いはあったようです。一向宗の教義色は浄土宗や、一遍の時宗よりは弱かった。結果として、一遍の時宗や親鸞の浄土真宗の教義を取り入れながら、教勢を東北・北関東・尾張・近江に伸ばしていたそうです。頃は鎌倉・室町。新仏教が布教範囲を貴族・武士から一般庶民へとターゲットを広げ、鎬を削っている時代です。
 うかうかしていると、他の宗派に教団ごとひっさらわれかねません。その最右翼が蓮如率いる浄土真宗本願寺教団でした。蓮如は近江の一向宗宗徒をターゲットに布教活動を繰り広げました。一向宗も半端に親鸞の教えを取り入れたところが災いしたのかもしれません。なぜなら、蓮如は親鸞の血脈の正統後継者とされていたのですから。本願寺教団は高田専修寺派だけではなく、一向宗の諸寺も転向させ、傘下にいれたわけです。
 蓮如は良くも悪くもパワフルに教勢を拡大してきました。そのリアクションも大きかったのです。それが、金森合戦であり、加賀の一揆でした。その都度門徒衆は団結し、弾圧者と戦ったわけですが、この戦いに参加した門徒達の多くが元一向宗の宗徒だったりしたわけです。教団外の人々は過去の経緯から、この団結した人々の事を一向衆と呼ぶようになりました。本願寺教団が参加した兵乱を一向一揆とよばれるのはこのためです。

 また、そう呼ばれる門徒達にも問題がありました。一向宗と浄土真宗本願寺教団の教義の違いを理解していなかったのです。これは、本来の一向宗の教義がこの頃にはまだ体系化していなかったせいもあるのかもしれません。けど、最も大きいのは一向宗が取り入れた親鸞の教えをきっかけとして自分の宗派に信者を導いた蓮如の自業自得というものもあったように思います。
 蓮如は本願寺教団の教主として門徒の教化に勤めました。御文と呼ばれる平易な文章で自らの教義を噛み砕いて教え説き、道場でそれを繰り返し読み上げさせることによって徹底をはかりましたが、なお不十分だったみたいです。門徒達は時に蓮如の思惑を超えて事態を悪い方向にもってゆくこともままありました。
 蓮如は御文の中で絶叫します。「一向宗はもともと一遍・一向の教えであり、本願寺の教義とは無関係である。それ故以後、自分たちの教団を一向宗と呼ぶ奴は破門する!」と。蓮如自身、時宗と一向宗の違いを理解してないくらい、このころは教義が混乱していたということでしょう。
 しかしながら、この蓮如の努力は身を結びませんでした。自らの教団のことを『浄土真宗』と呼ばせること自体、法然の教えを継ぐ浄土宗徒には我慢のならないことだったからです。そりゃそうですよね。真なる宗派と認めてしまっては、自分の宗派は偽物ということになってしまうのですから。
 蓮如でさえ間違えてしまうくらいなのですから、旧仏教や法華宗にとっては言わずもがなです。時宗にせよ、浄土真宗にせよ、一向宗にせよ仏陀ではない、阿弥陀如来を拝む信仰ですから一緒くたに一向宗と呼んでしまうのはやむを得ざる所なのでしょう。
 高田専修寺派の真慧も、蓮如と同類扱いされることが我慢できなくて、あんな『無碍光愚類(狂い)』と一緒にしないでくれと延暦寺に文句をつけたくらいですから、この誤解は根深いものであり、教義の違いをはっきりさせることは当時の彼らには困難極まる課題だったことは想像に難くありません。

 さて、教主クラスですらそうだったのですから、末端に至っては違いを把握するのは不可能にちかかったのかもしれません。本稿ではこういう観点で話を進めてみても、よいのではないかなと思ってます。松平一族の初代、親氏は徳阿弥と号する時宗僧でした。その徳阿弥に時宗の定義を尋ねてみるのも面白いかもしれません。

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2007年11月20日 (火)

川戦:源姓松平編①プロローグ

 戦国時代の三河の歴史を語る上で、どうしても外せないのが松平一族の歴史です。しかも、それを追いかけるのは結構厄介なんですよね。というのは、史料そのものは凄く豊富にあるんですが、その子孫が徳川将軍家であるために物の見方を固定するような史料が多いのです。これはこれで勉強になるのですが、自分みたいな歴史を別の視点で見たい不届きな輩にはそれを除去するプロセスが必要になってこれが結構うざったい。
 それは、例えば松平一族は無条件に三河の主! みたいな。彼らに敵対するものは悪のような。偉くてあたりまえみたいな。そんな見方です。だから、石川政康や佐々木如光を語る上で松平一族については出来るだけ言及を避けてきました。
 それももう限界です。ここからの話は松平一族を絡めてゆかなければ進められなくなってきました。さりながら、本稿は川の戦国史をテーマにしております。川の視点から松平一族を描写すると同時に、前編で紹介した上宮寺如光と石川政康が作り上げたものをあぶりだしてゆこうというのが、本稿の趣旨です。

 松平一族の出自を考えるということは、徳川将軍家のルーツを探ることと同義です。江戸時代においては、徳川家は清和源氏の一族で、清和源氏こそが将軍になれるという考え方があります。これを源氏将軍観といいます。源氏の将軍というと鎌倉の源氏三代と足利将軍家がそうですね。源氏出身でない実力者というと、平清盛、北条時政から高時までの北条一族、織田信長、豊臣秀吉などがいましたが彼らはいずれも征夷大将軍にはなりませんでした。そこを逆手にとって、清和源氏こそが征夷大将軍になる資格があり他の血統にはその資格がないのだ、という考え方がでてきました。
 このことを指して源氏将軍観と歴史研究者は呼びます。研究者達はこの考え方に迎合しているわけではありません。よく考えてみると、この考え方ってアラがありますので。源氏以外の征夷大将軍というと例えば坂上田村麻呂なんかがいますよね。鎌倉幕府滅亡後の建武期に護良親王が就任したこともあります。坂上氏は帰化人の系統ですし、護良親王は後醍醐天皇の皇子です。いずれも清和天皇の子孫である清和源氏の血統とは縁がありません。本来、征夷大将軍という官職にはべつに源氏である必要はなく、律令や朝廷の有職故実にもそれを規定したものはありません。どうやら将軍家が足利から徳川へと移ったところから、江戸時代に派生した俗説らしいのです。

 この時代を扱った史料。とりわけ徳川一族に言及したものを扱う場合、この辺を十分に注意して取り扱う必要があります。平たく言うと、徳川家康が天下を取った時に、自らの家系を『作った』形跡があるのですよね。一番大きなミッシングリンクは、新田義重から松平家初代の松平親氏までの流れで、ここの事跡が今ひとつあきらかではないことです。系図資料はあるものの、彼らの事跡は今一つあきらかではありません。
 新田義重の子孫が松平郷に土着した時の松平親氏には色々興味深いエピソードがあります。その松平親氏の生きた時代は子孫の活躍から推測できる妥当な線で、十四世紀末から十五世紀前半です。それを定点として、源姓松平一族の伝説と実相を考察してみたいと思います。

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2007年11月15日 (木)

川戦:三河布教編⑦石川政康Ⅱ

 松平家というのは、徳川家康の先祖であって清康の代には三河統一を果たす戦国大名にまで成長するのですが、応仁の乱期の時点では、矢作川上流の松平郷からその近隣の岩津あたりを勢力下に治める土豪に過ぎませんでした。
 それが、信光の代になって足利幕府の政所執事、伊勢貞親の被官になるや、武力を持って近隣に勢力の拡張を始めました。これは応仁の乱で各地の守護や国人達が東軍・西軍に分かれて争い始めてしまったことに大いに関係あるのですが、信光は伊勢貞親が与する東軍方として、西軍方の領地を奪い始めました。伊勢貞親はその後、失脚したのですがその頃には自立するだけの武力を蓄え三河国に独立勢力が出来てしまったということです。
 対するに石川政康は強いて言うなら蓮如党であり、東軍・西軍どちらに与するものではありませんでした。小川に城を構えてはいるものの、言うならば独立勢力のポジションです。それの勢力が、上宮寺近隣にある安祥まで迫ってきたわけです。
 信光は占領した安祥城に息子の親忠を入れました。この時点での松平親忠と石川政康との関係を寛政重修書家譜は以下のように述べています。

 後、親忠君は政康の男子一人を召されて家老となされる旨、仰ありしより、三男源三郎某を参らす。

 つまり、三男坊を新安祥城主の家老にするべく招かれたということです。松平家が石川家に家老を求めたのか、そうでないのかは要注意ですね。政康には三人の男子がおり、長男を康長、三男を親康といいます。次男は早世したのか消息はよくわかりません。政康は自らの後継として康長を指名し、勢力を伸張してきた松平氏に対しては三男を仕えさせることによってリスクヘッジをしたわけですね。
 この時代の石川氏と松平氏の力関係というのはとても興味深いものがあります。政康の孫、親康の子に忠輔という人物がいるのですが、彼の家譜にはこんな記述があります。

 父が命を受け、しばしば小川に赴き、伯父康長と相計り、野寺その他の地侍を御麾下となし、親忠君を安城の城に入れ奉る。

 要するに、政康と嫡子康長は松平家に仕えなかったし、惣領権は松平家に仕えた三男親康ではなく、長男
康長が持っていた。これは、非松平の独立勢力として存在していた証です。あまつさえ、自分の兵力を松平親忠に仕えた親康に分け与えております。後に、石川親康とその子孫を含む松平党はその勢力を三河国全域に伸ばし、それにつれて石川一族の惣領権も親康系へと移行してゆくことになります。

 石川政康は蓮如の意向を受けて三河に移住し、金融・水運に従事する川の一族をまとめ上げ財を蓄えることに成功しました。そして、佐々木如光と相計って矢作川筋の諸寺を本願寺派に転向させ、同時に新たに道場を建てました。間もなく如光は死に、後に残った人と物と金の流れを握ったのが石川一族です。
 そして、勢力を伸張してきた松平信光と接触し、自らの三男を信光三男の親忠の家老としました。これにより三河国の勢力図は大きく塗り変わることになるのです。
 以後、松平信光~広忠の累代に仕えて要職を務めることになります。興味深いことに、寛政重修諸家譜で松平家に仕えた石川一族に合戦の記録が入ってくるのは徳川家康の代の石川数正や家成になってからなんですね。松平家累代は勢力拡張のための合戦は厭いませんでしたし、本多忠勝の系図なんて合戦に先頭して死すなんて記録が累代に渡って続きます。これは系図を提供した者の考えかもしれません。そういう意味で、武辺というよりは組織維持につとめた一族だったのではなのかなぁと考えます。
 ただ、ここで如光と石川政康が作り上げた門徒組織は家康の代になって大きな騒擾を引き起こします。これが川の戦国史で描きたい本題だったするのです。

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2007年11月13日 (火)

川戦:三河布教編⑥石川政康Ⅰ

 石川一族の先祖をたどると、大阪府の生駒山系に流れる小さな川に行き当たります。ここに大化の改新で滅ぼされた蘇我一族の生き残りが土着します。その名を蘇我倉山田石川麻呂と言いました。彼は天智天皇に仕えた重臣ではありましたが、大化の改新後の動乱の中で会えなく命を落とします。その倉山田石川麻呂のゆかりの地として石川の名前がついたようです。
 そして、この地に源氏の子孫が流れ着き、石川の氏を名乗るようになりました。これが石川政康の先祖です。後に石川政康の子孫が江戸時代に大名になった時、幕府に差し出した家譜に書かれていることです。
 この石川氏の一族は後に関東の下野国、今の栃木県に移住して小山氏を名乗ります。その頃の下野国には、石川=小山氏とは別に藤原秀郷流の名族小山氏がいました。源頼朝の挙兵に応じ、南北朝期には幾度か下野守護の大役を担った一族です。おそらく、石川政康もこの秀郷流小山氏の一人だと思われます。彼の子孫の大名は徳川親藩でした。徳川将軍は源氏長者。清和源氏で一番偉い一族です。だから、その親藩も源氏とし、源平藤橘の序列が作られました。その序列で考えると、秀郷流の小山氏では都合が悪かったのだろうと愚考します。

 ともかく、石川政康は矢作川中流の小川に居を構え、蓮花寺という真宗本願寺派の道場をたてます。近隣には野寺本証寺がありましたが、これが本願寺派に転向するのはもう少し先の話。
 彼はここに根を下ろし、おそらくは十数年くらいの短期間で成功を治めたようです。彼が何をやって成功したのかについては、後に石川一族が三河国の一向門徒衆筆頭となったことと、その一向門徒衆達が何をやっていたのかで判断するしかないのですが、おそらくは石川氏は武士の大将ではなく、金融業と水運業そして、人貸しであったのではないかと推測しています。

寛正元年(1460年)に蓮如は『十文字名号』を如光に下しました。このことが三河における如光の立場を強化した事は確かでしょう。名号受領の翌年如光は上宮寺を高田専修寺派から本願寺派へと鞍替えさせることに成功しました。蓮如はこの時、石川政康の下へも身を寄せていたという話があり、この時に石川政康の家臣である岩瀬善四郎という者が蓮如一行から教えられた瓦の製法で三州瓦の製造を始めたという伝承が残っているそうです。話のスジとしはちょっと弱いのですが、この話がもし事実なら、蓮如一行は純粋な宗教団体ではなく、職能集団の側面も持っている所作となるのかもしれません。

 さて、三河矢作川流域は本願寺派になびくことになったのですが、その5年後の寛正六年、その当の蓮如が苦境に陥ります。自らの宗門から天台宗色を一掃し、上納金の支払いを拒否した結果、怒った比叡山延暦寺の僧兵達によって大谷本願寺が破却されてしまうのです。このときに蓮如本人も危機一髪でなんとか金森城に逃げ込むことで難をのがれました。そこで調停にたったのが、如光です。このときの如光は完全に表の立場に立つことができましたので、蓮如に自らが比叡山延暦寺に和解金を支払う旨の提案をします。彼が蓮如に語った言葉は『足の踏み場もないほどの礼銭を積み上げてご覧に入れましょう』。自分の財布から出るのであればこんな台詞は多分でないでしょう。スポンサーは例によって石川政康なんだと思います。
 その礼の意味合いもあるのかもしれません。その三年後の応仁二年に蓮如は再び三河に訪れます。そして、土呂という矢作川に注ぐ乙川沿いにある在所に本宗寺、如光の出身地である西端に応仁寺、矢作河口の鷲塚に真宗寺を建てます。蓮如はこの三年後に越前の吉崎に御坊を建てているのですから、すごい建築ラッシュと言えるでしょう。同じ応仁二年に如光は死にます。一説によると失踪したという話も残っていて、それはそれでミステリアスなんですが、ここでは置きます。如光が遺した諸寺は大きな繁栄を迎えることになります。
 その様子を表したものとして『信長公記』を引用します。
『家康公、いまだ壮年にも及ばざる以前に、三河国端に土呂・佐々木・大浜・鷲塚とて、海手へついて然るべき要害。富貴にして人多き港なり。大坂より代坊主入り置き、門徒繁盛候て、すでに国中過半門家になるなり』

 如光亡き後、石川政康と彼の一族はは三河門徒衆の在家信者筆頭の立場を保ち続けることになりました。その為にその基盤となる港湾整備を行ったと思われます。石川政康は本願寺を支え、その影に徹することによって一族の勢いを急激に伸ばしました。それは、守護や守護代を務めた吉良氏や一色氏の衰微と、戦国の混乱期に現れた戦闘的な新興武士団である松平一族の勃興の狭間にあって、新天地の移住後、平和裏に一族の影響力を高めてゆきました。ただ、勢力が大きくなって無視できなくなった時、武力を有し、陸を支配する勢力との衝突は避けがたい。それが起ったのは如光が死んで、三年後のことです。文明三年(1471年)、上宮寺に程近い安祥にあった城が松平信光によって攻略されます。


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2007年11月 8日 (木)

川戦:三河布教編⑤上宮寺如光Ⅱ

 寛正元年(1460年)蓮如が留守職を継いで大谷本願寺から天台色を一掃している合間を縫って、蓮如は三河国に訪れたようです。ようです、と曖昧な言い方をしているのは、十分な確認を取れていないからですが、その時に道案内を努めたのが如光らしい。蓮如は何と言っても浄土真宗の開祖である親鸞の子孫です。本願寺派の触れ込みではそれ故に正統な教えの伝承者ということになります。浄土真宗門徒の中ではスター扱いされるべきポジションでしょう。現に蓮如はそれを自覚し、そのように振舞いました。当時、三河国は真宗が繁盛していたと言ってもそれは高田専修寺派の教勢でしたが、蓮如はそこに殴りこみをかけたのです。彼は今回の三河訪問をプロモートした如光に『十文字名号』を与え、彼の話を聞きに来た信者には『御文』を与えました。いずれも直筆の書であり、持っているだけで格式の上がるような宝物です。ただし、それは本願寺派門徒にとってであって、高田専修寺派には彼らなりの序列がありました。蓮如の書をもらった人々は考えます。折角の名号や御文を活かすならば、高田専修寺派の看板を掲げるのは不都合になってきくる、と。そこを如光が上手くうながし、三河の高田専修寺派から本願寺派へと鞍替えすることになりました。無論、本願寺留守職が通ったくらいで寺院が宗旨を易々と変えるとは思えません。その伏線として政康ら石川党の水運にかかる活躍があったと思われるのです。

 蓮如による三河国の本願寺派への教化活動は大成功を収めました。その結果、三河の拠点を奪われた高田専修寺派の怒りを買うことになりました。寛正五年(1466年)に蓮如が比叡山の弾圧を受けたときに、時の高田専修寺派法主をして、本願寺派の切り捨てに走らしめます。時の高田専修寺派の真慧は蓮如のことを『無碍光の愚類』と罵ります。無碍光というのは阿弥陀如来のこと。愚類というのは『愚か者の類』と『狂い』を引っ掛けているのですね。流石にライバル教団の法主は言うことが辛辣です。孤立無援に陥った蓮如はやむを得ず、比叡山延暦寺に対して和解を申し出ます。この時に和解金を立て替えたのが如光です。この時点で和解金を立て替えられるほど如光と本願寺教団は潤っていたということだと思います。

 そして、その後応仁二年に蓮如が三河に訪れました。京都が応仁の乱によって戦場と化した頃です。蓮如は如光の生まれ故郷である西端に滞在し、堂を設けました。応仁の乱を避けての避難ととれなくもありませんが、これは和解金を立て替えてくれた如光への礼という意味もあるのでしょう。でなければ、滞在の地にわざわざ西端の地を選ぶ理由があるとも思えません。
 如光が死んだのはそれから間もなくです。一説では、上宮寺にいた如光に生まれ故郷である西端の寺に入って欲しいとの地元の人々に要請を受けたのですが、『私はこれから自分の生まれ故郷に帰る』との書置きを遺して寺を出たのですが、西端にも来ておらず、失踪したという話があります。彼の生まれ故郷とは、浮き藻が茂る海の向こうということなのでしょう。説話のパターンとして、貴種流離というものがあります。辺地に流された貴人が地元に土着してその地の領主になるものですが、如光の場合はその地元に大きな貢献をした後に去ってゆくというちょっと珍しいパターンです。西端の寺は後に建立時の年号が当てられ、応仁寺とよばれるようになったとのことです。出自不明にして、蓮如の為に身を粉にして働き、最後は失踪するという結末。彼は別の地で別の名前で蓮如の側近として働いた可能性もありますし、何らかの事故や事件に巻き込まれてしまったという可能性もまたありますね。

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2007年11月 6日 (火)

川戦:三河布教編④上宮寺如光Ⅰ

 如光は蓮如と同時代を生きた佐々木上宮寺の住持です。上宮寺というのは現在の愛知県安城市岡崎市にある古刹で、三河の国における浄土真宗本願寺派三ヶ寺の一つです。とは言っても如光が生まれた当時、上宮寺は本願寺派ではなく、高田専修寺派の寺でした。
 如光の生誕について、一つの説話が遺されています。三河湾に注ぐ矢作川河口に西端という土地があります。そこに浮き藻に乗った少年が流されてきました。この少年を杉浦某という侍が拾い、上宮寺に預けました。上宮寺の住持は少年に如光という名を与え、少年は上宮寺の僧として成長します。後に如光はその才を認められ、上宮寺の住持の娘を娶って住持を継ぎました。
 要するに、如光は出自の不明な男です。どこかの系図に載っているわけでもなく、忽然と歴史の上に現れたわけですね。わざわざ浮き藻に乗って登場するあたりは、川の民との因縁を感じさせます。

 1447年(文安四年)に蓮如が関東に下向した折には、彼は数えで三十二歳です。この頃までには住持を継いでいたことでしょう。如光が出自不明にもかかわらず、上宮寺の住持を継げたのは彼の出自が実は西端の水上交易を仕切るボス的存在の人物の私生児と考える人もいますが、正確なところは判りません。
 この頃には蓮如に出会い、感化されて本願寺派としての活動をしていたようです。但し、上宮寺はこの時点で高田専修寺派を宗旨としていました。これは蓮如が留守職を継いだ時点で大谷本願寺は天台宗の看板を掲げていたねじれと同じ形と思えばよいのではと思います。
 大谷本願寺の蓮如もしくはその父存如は蓮如の関東下向にあたり、三河国への教線拡大を策していました。その蓮如の意向受け、蓮如の文安四年の関東下向に先立って三河に移住したのが石川政康です。このあたりの事情を江戸時代の系図資料の寛政重修諸家譜は次のように述べています。

 文安年中、本願寺蓮如は法を広めんがために下野国に来る時、政康に語りて曰く。
『三河は我が郷党なり。武士の大将をして一方を指揮すべき者なし。願わくば、三河国に来たりて、我が門徒を進退すべし』これにより、蓮如とともにかの国に赴き、小川城に住す。

 子孫が作った系図史料なんで、ご先祖様に対する美化や粉飾が少々入ってることを加味する必要はあると思います。
 例えば、政康が三河に移住したのは、蓮如の関東下向の前年です。故に、下野国で蓮如が石川政康に『三河の国に来い』などというのはおかしいですよね。もう引越し済なのですから。さらに蓮如が三河は我が故郷のようなことを言ってますが、蓮如はバリバリの京都人です。母親も西国出身で、三河国との縁はあまりないはずです。この台詞は蓮如よりもむしろ、佐々木如光の物と考えた方がいいと思います。政康は蓮如の関東下向の前年に三河国の小川に居を構え、その近隣に蓮泉寺という真宗道場を建てていました。小川の地は三河国の真宗道場で最大の勢力を持った野寺本証寺の近隣にあります。その近くに一族郎党引き連れて城と寺と川の港、即ち津を開いたわけですね。これがもし、如光の差し金であるならば、蓮泉寺という本願寺派真宗道場は高田専修寺派の野寺本証寺を落とすための付け城のようなものといえるかもしれません。

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2007年11月 1日 (木)

川戦:三河布教編③蓮如とのかかわり

 親鸞は京都を拠点に活躍しましたが、佐渡島に流されました。許された後は常陸国(今の茨城県)稲田郷に草庵を開いて以来、二十年間関東の地で布教に努めました。親鸞の死後、浄土真宗は本願寺派、高田専修寺派、仏光寺派などがしのぎを削ることになります。本願寺は京都にありとはいえ、そうした親鸞の事跡の残る関東の地には関心が高かったようです。蓮如本人も何度か関東に下り布教活動を行っています。
 そんな蓮如が本願寺の留守職をつぐ十年ほど前に東下りをしています。その往復の間、関東の下野国(今の栃木県)から土豪を呼び寄せ、その往復路の途中にある三河国(愛知県東半分)小川に住まわせました。

 下野国と三河国は結構深いつながりがあります。下野国に足利という地があります。そこは、鎌倉時代において、北条氏に継ぐ有力御家人であり、室町時代に幕府を開いた足利氏の本貫地です。足利氏は鎌倉~室町時代を通してこの地の守護を輩したり、一族の者を土着させたりしておりましたので、人的交流はとても深いものがあったようです。三河の土豪は同郷の徳川家康が江戸幕府を開いた関係で、多くの大名を配しておりますが、その系図を調べるとその多くが下野国にルーツを持っております。徳川家康にしろ、先祖は下野国の豪族、新田氏ということになっていますからその例にもれることはありません。

 石川政康が三河に移った頃から三河国の動向に大きな変化が現れます。
 まず、第一に三河国にあった三つの寺が浄土真宗高田専修寺派から本願寺派に宗旨を変えます。野寺本證寺、佐々木上宮司、針崎勝鬘寺。これらの寺は三河三ヶ寺と呼ばれ、三河国の本願寺派門徒の活動の重要拠点となりました。三河三ヶ寺が宗旨替えしたのは上宮寺の如光が蓮如に感化された所が大きいのですが、彼の出自や、本願寺教団に対する貢献についてはとても興味深い点があります。詳しくは後述します。
 第二に、松平家の三代目松平信光の勢力が伸張してきました。松平家はもともとは松平郷という小村を開拓した有徳人、自らの財産を地域に投資して開発を行う一族だったのですが、室町幕府政所執事、伊勢貞親に伝を頼って仕えた縁で武力を通じで近隣の村々に進出してきました。石川政康と彼の子孫は自らの家人達を松平家に伺候させました。これはちょっと奇異に映ります。政康本人が松平家に仕えた形跡はないのですが、それでも三河国に土着し、一族郎党を形成した上で郎党を松平家に差し出したわけです。
 ここで着目したいのは、三河国における本願寺派及び松平家の勢力伸張が期を一にしているということです。勢力を拡充するに当たり、松平家も三河の真宗寺も人手を入用としました。その要請にこたえたのが石川政康です。

そして、政康の子孫は松平家の家老として三河国に大きな影響力を持つに至ります。

1416年(応永23年)如光、西端に生まれる。
1446年(文安 3年)石川政康、三河国碧海郡志貴荘村に移住。小川城を築く。
1447年(文安 4年)蓮如、関東下向
1455年(康正元年)石川政康、河内国に赴く。数年も経ずして再び三河へ戻る。
1457年(長禄元年)蓮如、本願寺の留守職を相続。
1460年(寛正元年)岩瀬善四郎(下野国小山・石川政康家臣). 蓮如三河布教時に瓦焼く。
1460年(寛正元年)蓮如、三河国佐々木上宮寺如光に十字名号を下付す
1461年(寛正 2年)上宮寺、蓮如の教化によって本願寺派に転じる。
1465年(寛正 6年)蓮如、比叡山と和解。如光、蓮如に代わって和解金を支払う。
1468年(応仁 2年)蓮如、三河国西端に一宇建立。上宮寺住持、如光没。
1471年(文明 3年)岩津松平信光、安祥城を奪取。三男親忠を置く。
1486年(文明18年)石川政康死去。

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