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2007年11月 1日 (木)

川戦:三河布教編③蓮如とのかかわり

 親鸞は京都を拠点に活躍しましたが、佐渡島に流されました。許された後は常陸国(今の茨城県)稲田郷に草庵を開いて以来、二十年間関東の地で布教に努めました。親鸞の死後、浄土真宗は本願寺派、高田専修寺派、仏光寺派などがしのぎを削ることになります。本願寺は京都にありとはいえ、そうした親鸞の事跡の残る関東の地には関心が高かったようです。蓮如本人も何度か関東に下り布教活動を行っています。
 そんな蓮如が本願寺の留守職をつぐ十年ほど前に東下りをしています。その往復の間、関東の下野国(今の栃木県)から土豪を呼び寄せ、その往復路の途中にある三河国(愛知県東半分)小川に住まわせました。

 下野国と三河国は結構深いつながりがあります。下野国に足利という地があります。そこは、鎌倉時代において、北条氏に継ぐ有力御家人であり、室町時代に幕府を開いた足利氏の本貫地です。足利氏は鎌倉~室町時代を通してこの地の守護を輩したり、一族の者を土着させたりしておりましたので、人的交流はとても深いものがあったようです。三河の土豪は同郷の徳川家康が江戸幕府を開いた関係で、多くの大名を配しておりますが、その系図を調べるとその多くが下野国にルーツを持っております。徳川家康にしろ、先祖は下野国の豪族、新田氏ということになっていますからその例にもれることはありません。

 石川政康が三河に移った頃から三河国の動向に大きな変化が現れます。
 まず、第一に三河国にあった三つの寺が浄土真宗高田専修寺派から本願寺派に宗旨を変えます。野寺本證寺、佐々木上宮司、針崎勝鬘寺。これらの寺は三河三ヶ寺と呼ばれ、三河国の本願寺派門徒の活動の重要拠点となりました。三河三ヶ寺が宗旨替えしたのは上宮寺の如光が蓮如に感化された所が大きいのですが、彼の出自や、本願寺教団に対する貢献についてはとても興味深い点があります。詳しくは後述します。
 第二に、松平家の三代目松平信光の勢力が伸張してきました。松平家はもともとは松平郷という小村を開拓した有徳人、自らの財産を地域に投資して開発を行う一族だったのですが、室町幕府政所執事、伊勢貞親に伝を頼って仕えた縁で武力を通じで近隣の村々に進出してきました。石川政康と彼の子孫は自らの家人達を松平家に伺候させました。これはちょっと奇異に映ります。政康本人が松平家に仕えた形跡はないのですが、それでも三河国に土着し、一族郎党を形成した上で郎党を松平家に差し出したわけです。
 ここで着目したいのは、三河国における本願寺派及び松平家の勢力伸張が期を一にしているということです。勢力を拡充するに当たり、松平家も三河の真宗寺も人手を入用としました。その要請にこたえたのが石川政康です。

そして、政康の子孫は松平家の家老として三河国に大きな影響力を持つに至ります。

1416年(応永23年)如光、西端に生まれる。
1446年(文安 3年)石川政康、三河国碧海郡志貴荘村に移住。小川城を築く。
1447年(文安 4年)蓮如、関東下向
1455年(康正元年)石川政康、河内国に赴く。数年も経ずして再び三河へ戻る。
1457年(長禄元年)蓮如、本願寺の留守職を相続。
1460年(寛正元年)岩瀬善四郎(下野国小山・石川政康家臣). 蓮如三河布教時に瓦焼く。
1460年(寛正元年)蓮如、三河国佐々木上宮寺如光に十字名号を下付す
1461年(寛正 2年)上宮寺、蓮如の教化によって本願寺派に転じる。
1465年(寛正 6年)蓮如、比叡山と和解。如光、蓮如に代わって和解金を支払う。
1468年(応仁 2年)蓮如、三河国西端に一宇建立。上宮寺住持、如光没。
1471年(文明 3年)岩津松平信光、安祥城を奪取。三男親忠を置く。
1486年(文明18年)石川政康死去。

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