« 川戦:三河布教編⑦石川政康Ⅱ | トップページ | 川戦:源姓松平編②一向宗そして時宗 »

2007年11月20日 (火)

川戦:源姓松平編①プロローグ

 戦国時代の三河の歴史を語る上で、どうしても外せないのが松平一族の歴史です。しかも、それを追いかけるのは結構厄介なんですよね。というのは、史料そのものは凄く豊富にあるんですが、その子孫が徳川将軍家であるために物の見方を固定するような史料が多いのです。これはこれで勉強になるのですが、自分みたいな歴史を別の視点で見たい不届きな輩にはそれを除去するプロセスが必要になってこれが結構うざったい。
 それは、例えば松平一族は無条件に三河の主! みたいな。彼らに敵対するものは悪のような。偉くてあたりまえみたいな。そんな見方です。だから、石川政康や佐々木如光を語る上で松平一族については出来るだけ言及を避けてきました。
 それももう限界です。ここからの話は松平一族を絡めてゆかなければ進められなくなってきました。さりながら、本稿は川の戦国史をテーマにしております。川の視点から松平一族を描写すると同時に、前編で紹介した上宮寺如光と石川政康が作り上げたものをあぶりだしてゆこうというのが、本稿の趣旨です。

 松平一族の出自を考えるということは、徳川将軍家のルーツを探ることと同義です。江戸時代においては、徳川家は清和源氏の一族で、清和源氏こそが将軍になれるという考え方があります。これを源氏将軍観といいます。源氏の将軍というと鎌倉の源氏三代と足利将軍家がそうですね。源氏出身でない実力者というと、平清盛、北条時政から高時までの北条一族、織田信長、豊臣秀吉などがいましたが彼らはいずれも征夷大将軍にはなりませんでした。そこを逆手にとって、清和源氏こそが征夷大将軍になる資格があり他の血統にはその資格がないのだ、という考え方がでてきました。
 このことを指して源氏将軍観と歴史研究者は呼びます。研究者達はこの考え方に迎合しているわけではありません。よく考えてみると、この考え方ってアラがありますので。源氏以外の征夷大将軍というと例えば坂上田村麻呂なんかがいますよね。鎌倉幕府滅亡後の建武期に護良親王が就任したこともあります。坂上氏は帰化人の系統ですし、護良親王は後醍醐天皇の皇子です。いずれも清和天皇の子孫である清和源氏の血統とは縁がありません。本来、征夷大将軍という官職にはべつに源氏である必要はなく、律令や朝廷の有職故実にもそれを規定したものはありません。どうやら将軍家が足利から徳川へと移ったところから、江戸時代に派生した俗説らしいのです。

 この時代を扱った史料。とりわけ徳川一族に言及したものを扱う場合、この辺を十分に注意して取り扱う必要があります。平たく言うと、徳川家康が天下を取った時に、自らの家系を『作った』形跡があるのですよね。一番大きなミッシングリンクは、新田義重から松平家初代の松平親氏までの流れで、ここの事跡が今ひとつあきらかではないことです。系図資料はあるものの、彼らの事跡は今一つあきらかではありません。
 新田義重の子孫が松平郷に土着した時の松平親氏には色々興味深いエピソードがあります。その松平親氏の生きた時代は子孫の活躍から推測できる妥当な線で、十四世紀末から十五世紀前半です。それを定点として、源姓松平一族の伝説と実相を考察してみたいと思います。

|

« 川戦:三河布教編⑦石川政康Ⅱ | トップページ | 川戦:源姓松平編②一向宗そして時宗 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/17104429

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:源姓松平編①プロローグ:

« 川戦:三河布教編⑦石川政康Ⅱ | トップページ | 川戦:源姓松平編②一向宗そして時宗 »