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2007年11月13日 (火)

川戦:三河布教編⑥石川政康Ⅰ

 石川一族の先祖をたどると、大阪府の生駒山系に流れる小さな川に行き当たります。ここに大化の改新で滅ぼされた蘇我一族の生き残りが土着します。その名を蘇我倉山田石川麻呂と言いました。彼は天智天皇に仕えた重臣ではありましたが、大化の改新後の動乱の中で会えなく命を落とします。その倉山田石川麻呂のゆかりの地として石川の名前がついたようです。
 そして、この地に源氏の子孫が流れ着き、石川の氏を名乗るようになりました。これが石川政康の先祖です。後に石川政康の子孫が江戸時代に大名になった時、幕府に差し出した家譜に書かれていることです。
 この石川氏の一族は後に関東の下野国、今の栃木県に移住して小山氏を名乗ります。その頃の下野国には、石川=小山氏とは別に藤原秀郷流の名族小山氏がいました。源頼朝の挙兵に応じ、南北朝期には幾度か下野守護の大役を担った一族です。おそらく、石川政康もこの秀郷流小山氏の一人だと思われます。彼の子孫の大名は徳川親藩でした。徳川将軍は源氏長者。清和源氏で一番偉い一族です。だから、その親藩も源氏とし、源平藤橘の序列が作られました。その序列で考えると、秀郷流の小山氏では都合が悪かったのだろうと愚考します。

 ともかく、石川政康は矢作川中流の小川に居を構え、蓮花寺という真宗本願寺派の道場をたてます。近隣には野寺本証寺がありましたが、これが本願寺派に転向するのはもう少し先の話。
 彼はここに根を下ろし、おそらくは十数年くらいの短期間で成功を治めたようです。彼が何をやって成功したのかについては、後に石川一族が三河国の一向門徒衆筆頭となったことと、その一向門徒衆達が何をやっていたのかで判断するしかないのですが、おそらくは石川氏は武士の大将ではなく、金融業と水運業そして、人貸しであったのではないかと推測しています。

寛正元年(1460年)に蓮如は『十文字名号』を如光に下しました。このことが三河における如光の立場を強化した事は確かでしょう。名号受領の翌年如光は上宮寺を高田専修寺派から本願寺派へと鞍替えさせることに成功しました。蓮如はこの時、石川政康の下へも身を寄せていたという話があり、この時に石川政康の家臣である岩瀬善四郎という者が蓮如一行から教えられた瓦の製法で三州瓦の製造を始めたという伝承が残っているそうです。話のスジとしはちょっと弱いのですが、この話がもし事実なら、蓮如一行は純粋な宗教団体ではなく、職能集団の側面も持っている所作となるのかもしれません。

 さて、三河矢作川流域は本願寺派になびくことになったのですが、その5年後の寛正六年、その当の蓮如が苦境に陥ります。自らの宗門から天台宗色を一掃し、上納金の支払いを拒否した結果、怒った比叡山延暦寺の僧兵達によって大谷本願寺が破却されてしまうのです。このときに蓮如本人も危機一髪でなんとか金森城に逃げ込むことで難をのがれました。そこで調停にたったのが、如光です。このときの如光は完全に表の立場に立つことができましたので、蓮如に自らが比叡山延暦寺に和解金を支払う旨の提案をします。彼が蓮如に語った言葉は『足の踏み場もないほどの礼銭を積み上げてご覧に入れましょう』。自分の財布から出るのであればこんな台詞は多分でないでしょう。スポンサーは例によって石川政康なんだと思います。
 その礼の意味合いもあるのかもしれません。その三年後の応仁二年に蓮如は再び三河に訪れます。そして、土呂という矢作川に注ぐ乙川沿いにある在所に本宗寺、如光の出身地である西端に応仁寺、矢作河口の鷲塚に真宗寺を建てます。蓮如はこの三年後に越前の吉崎に御坊を建てているのですから、すごい建築ラッシュと言えるでしょう。同じ応仁二年に如光は死にます。一説によると失踪したという話も残っていて、それはそれでミステリアスなんですが、ここでは置きます。如光が遺した諸寺は大きな繁栄を迎えることになります。
 その様子を表したものとして『信長公記』を引用します。
『家康公、いまだ壮年にも及ばざる以前に、三河国端に土呂・佐々木・大浜・鷲塚とて、海手へついて然るべき要害。富貴にして人多き港なり。大坂より代坊主入り置き、門徒繁盛候て、すでに国中過半門家になるなり』

 如光亡き後、石川政康と彼の一族はは三河門徒衆の在家信者筆頭の立場を保ち続けることになりました。その為にその基盤となる港湾整備を行ったと思われます。石川政康は本願寺を支え、その影に徹することによって一族の勢いを急激に伸ばしました。それは、守護や守護代を務めた吉良氏や一色氏の衰微と、戦国の混乱期に現れた戦闘的な新興武士団である松平一族の勃興の狭間にあって、新天地の移住後、平和裏に一族の影響力を高めてゆきました。ただ、勢力が大きくなって無視できなくなった時、武力を有し、陸を支配する勢力との衝突は避けがたい。それが起ったのは如光が死んで、三年後のことです。文明三年(1471年)、上宮寺に程近い安祥にあった城が松平信光によって攻略されます。


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