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2007年11月15日 (木)

川戦:三河布教編⑦石川政康Ⅱ

 松平家というのは、徳川家康の先祖であって清康の代には三河統一を果たす戦国大名にまで成長するのですが、応仁の乱期の時点では、矢作川上流の松平郷からその近隣の岩津あたりを勢力下に治める土豪に過ぎませんでした。
 それが、信光の代になって足利幕府の政所執事、伊勢貞親の被官になるや、武力を持って近隣に勢力の拡張を始めました。これは応仁の乱で各地の守護や国人達が東軍・西軍に分かれて争い始めてしまったことに大いに関係あるのですが、信光は伊勢貞親が与する東軍方として、西軍方の領地を奪い始めました。伊勢貞親はその後、失脚したのですがその頃には自立するだけの武力を蓄え三河国に独立勢力が出来てしまったということです。
 対するに石川政康は強いて言うなら蓮如党であり、東軍・西軍どちらに与するものではありませんでした。小川に城を構えてはいるものの、言うならば独立勢力のポジションです。それの勢力が、上宮寺近隣にある安祥まで迫ってきたわけです。
 信光は占領した安祥城に息子の親忠を入れました。この時点での松平親忠と石川政康との関係を寛政重修書家譜は以下のように述べています。

 後、親忠君は政康の男子一人を召されて家老となされる旨、仰ありしより、三男源三郎某を参らす。

 つまり、三男坊を新安祥城主の家老にするべく招かれたということです。松平家が石川家に家老を求めたのか、そうでないのかは要注意ですね。政康には三人の男子がおり、長男を康長、三男を親康といいます。次男は早世したのか消息はよくわかりません。政康は自らの後継として康長を指名し、勢力を伸張してきた松平氏に対しては三男を仕えさせることによってリスクヘッジをしたわけですね。
 この時代の石川氏と松平氏の力関係というのはとても興味深いものがあります。政康の孫、親康の子に忠輔という人物がいるのですが、彼の家譜にはこんな記述があります。

 父が命を受け、しばしば小川に赴き、伯父康長と相計り、野寺その他の地侍を御麾下となし、親忠君を安城の城に入れ奉る。

 要するに、政康と嫡子康長は松平家に仕えなかったし、惣領権は松平家に仕えた三男親康ではなく、長男
康長が持っていた。これは、非松平の独立勢力として存在していた証です。あまつさえ、自分の兵力を松平親忠に仕えた親康に分け与えております。後に、石川親康とその子孫を含む松平党はその勢力を三河国全域に伸ばし、それにつれて石川一族の惣領権も親康系へと移行してゆくことになります。

 石川政康は蓮如の意向を受けて三河に移住し、金融・水運に従事する川の一族をまとめ上げ財を蓄えることに成功しました。そして、佐々木如光と相計って矢作川筋の諸寺を本願寺派に転向させ、同時に新たに道場を建てました。間もなく如光は死に、後に残った人と物と金の流れを握ったのが石川一族です。
 そして、勢力を伸張してきた松平信光と接触し、自らの三男を信光三男の親忠の家老としました。これにより三河国の勢力図は大きく塗り変わることになるのです。
 以後、松平信光~広忠の累代に仕えて要職を務めることになります。興味深いことに、寛政重修諸家譜で松平家に仕えた石川一族に合戦の記録が入ってくるのは徳川家康の代の石川数正や家成になってからなんですね。松平家累代は勢力拡張のための合戦は厭いませんでしたし、本多忠勝の系図なんて合戦に先頭して死すなんて記録が累代に渡って続きます。これは系図を提供した者の考えかもしれません。そういう意味で、武辺というよりは組織維持につとめた一族だったのではなのかなぁと考えます。
 ただ、ここで如光と石川政康が作り上げた門徒組織は家康の代になって大きな騒擾を引き起こします。これが川の戦国史で描きたい本題だったするのです。

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