« 川戦:三河布教編③蓮如とのかかわり | トップページ | 川戦:三河布教編⑤上宮寺如光Ⅱ »

2007年11月 6日 (火)

川戦:三河布教編④上宮寺如光Ⅰ

 如光は蓮如と同時代を生きた佐々木上宮寺の住持です。上宮寺というのは現在の愛知県安城市岡崎市にある古刹で、三河の国における浄土真宗本願寺派三ヶ寺の一つです。とは言っても如光が生まれた当時、上宮寺は本願寺派ではなく、高田専修寺派の寺でした。
 如光の生誕について、一つの説話が遺されています。三河湾に注ぐ矢作川河口に西端という土地があります。そこに浮き藻に乗った少年が流されてきました。この少年を杉浦某という侍が拾い、上宮寺に預けました。上宮寺の住持は少年に如光という名を与え、少年は上宮寺の僧として成長します。後に如光はその才を認められ、上宮寺の住持の娘を娶って住持を継ぎました。
 要するに、如光は出自の不明な男です。どこかの系図に載っているわけでもなく、忽然と歴史の上に現れたわけですね。わざわざ浮き藻に乗って登場するあたりは、川の民との因縁を感じさせます。

 1447年(文安四年)に蓮如が関東に下向した折には、彼は数えで三十二歳です。この頃までには住持を継いでいたことでしょう。如光が出自不明にもかかわらず、上宮寺の住持を継げたのは彼の出自が実は西端の水上交易を仕切るボス的存在の人物の私生児と考える人もいますが、正確なところは判りません。
 この頃には蓮如に出会い、感化されて本願寺派としての活動をしていたようです。但し、上宮寺はこの時点で高田専修寺派を宗旨としていました。これは蓮如が留守職を継いだ時点で大谷本願寺は天台宗の看板を掲げていたねじれと同じ形と思えばよいのではと思います。
 大谷本願寺の蓮如もしくはその父存如は蓮如の関東下向にあたり、三河国への教線拡大を策していました。その蓮如の意向受け、蓮如の文安四年の関東下向に先立って三河に移住したのが石川政康です。このあたりの事情を江戸時代の系図資料の寛政重修諸家譜は次のように述べています。

 文安年中、本願寺蓮如は法を広めんがために下野国に来る時、政康に語りて曰く。
『三河は我が郷党なり。武士の大将をして一方を指揮すべき者なし。願わくば、三河国に来たりて、我が門徒を進退すべし』これにより、蓮如とともにかの国に赴き、小川城に住す。

 子孫が作った系図史料なんで、ご先祖様に対する美化や粉飾が少々入ってることを加味する必要はあると思います。
 例えば、政康が三河に移住したのは、蓮如の関東下向の前年です。故に、下野国で蓮如が石川政康に『三河の国に来い』などというのはおかしいですよね。もう引越し済なのですから。さらに蓮如が三河は我が故郷のようなことを言ってますが、蓮如はバリバリの京都人です。母親も西国出身で、三河国との縁はあまりないはずです。この台詞は蓮如よりもむしろ、佐々木如光の物と考えた方がいいと思います。政康は蓮如の関東下向の前年に三河国の小川に居を構え、その近隣に蓮泉寺という真宗道場を建てていました。小川の地は三河国の真宗道場で最大の勢力を持った野寺本証寺の近隣にあります。その近くに一族郎党引き連れて城と寺と川の港、即ち津を開いたわけですね。これがもし、如光の差し金であるならば、蓮泉寺という本願寺派真宗道場は高田専修寺派の野寺本証寺を落とすための付け城のようなものといえるかもしれません。

|

« 川戦:三河布教編③蓮如とのかかわり | トップページ | 川戦:三河布教編⑤上宮寺如光Ⅱ »

コメント

佐々木の上宮寺は安城市ではなく、旧碧海郡矢作町内で、現在は岡崎岡崎市です。

投稿: A | 2016年2月24日 (水) 19時53分

A様。ご指摘ありがとうございました。ブログに反映させていただきます。

投稿: 巴々 | 2016年2月24日 (水) 23時53分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/16823569

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:三河布教編④上宮寺如光Ⅰ:

« 川戦:三河布教編③蓮如とのかかわり | トップページ | 川戦:三河布教編⑤上宮寺如光Ⅱ »