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2007年11月 8日 (木)

川戦:三河布教編⑤上宮寺如光Ⅱ

 寛正元年(1460年)蓮如が留守職を継いで大谷本願寺から天台色を一掃している合間を縫って、蓮如は三河国に訪れたようです。ようです、と曖昧な言い方をしているのは、十分な確認を取れていないからですが、その時に道案内を努めたのが如光らしい。蓮如は何と言っても浄土真宗の開祖である親鸞の子孫です。本願寺派の触れ込みではそれ故に正統な教えの伝承者ということになります。浄土真宗門徒の中ではスター扱いされるべきポジションでしょう。現に蓮如はそれを自覚し、そのように振舞いました。当時、三河国は真宗が繁盛していたと言ってもそれは高田専修寺派の教勢でしたが、蓮如はそこに殴りこみをかけたのです。彼は今回の三河訪問をプロモートした如光に『十文字名号』を与え、彼の話を聞きに来た信者には『御文』を与えました。いずれも直筆の書であり、持っているだけで格式の上がるような宝物です。ただし、それは本願寺派門徒にとってであって、高田専修寺派には彼らなりの序列がありました。蓮如の書をもらった人々は考えます。折角の名号や御文を活かすならば、高田専修寺派の看板を掲げるのは不都合になってきくる、と。そこを如光が上手くうながし、三河の高田専修寺派から本願寺派へと鞍替えすることになりました。無論、本願寺留守職が通ったくらいで寺院が宗旨を易々と変えるとは思えません。その伏線として政康ら石川党の水運にかかる活躍があったと思われるのです。

 蓮如による三河国の本願寺派への教化活動は大成功を収めました。その結果、三河の拠点を奪われた高田専修寺派の怒りを買うことになりました。寛正五年(1466年)に蓮如が比叡山の弾圧を受けたときに、時の高田専修寺派法主をして、本願寺派の切り捨てに走らしめます。時の高田専修寺派の真慧は蓮如のことを『無碍光の愚類』と罵ります。無碍光というのは阿弥陀如来のこと。愚類というのは『愚か者の類』と『狂い』を引っ掛けているのですね。流石にライバル教団の法主は言うことが辛辣です。孤立無援に陥った蓮如はやむを得ず、比叡山延暦寺に対して和解を申し出ます。この時に和解金を立て替えたのが如光です。この時点で和解金を立て替えられるほど如光と本願寺教団は潤っていたということだと思います。

 そして、その後応仁二年に蓮如が三河に訪れました。京都が応仁の乱によって戦場と化した頃です。蓮如は如光の生まれ故郷である西端に滞在し、堂を設けました。応仁の乱を避けての避難ととれなくもありませんが、これは和解金を立て替えてくれた如光への礼という意味もあるのでしょう。でなければ、滞在の地にわざわざ西端の地を選ぶ理由があるとも思えません。
 如光が死んだのはそれから間もなくです。一説では、上宮寺にいた如光に生まれ故郷である西端の寺に入って欲しいとの地元の人々に要請を受けたのですが、『私はこれから自分の生まれ故郷に帰る』との書置きを遺して寺を出たのですが、西端にも来ておらず、失踪したという話があります。彼の生まれ故郷とは、浮き藻が茂る海の向こうということなのでしょう。説話のパターンとして、貴種流離というものがあります。辺地に流された貴人が地元に土着してその地の領主になるものですが、如光の場合はその地元に大きな貢献をした後に去ってゆくというちょっと珍しいパターンです。西端の寺は後に建立時の年号が当てられ、応仁寺とよばれるようになったとのことです。出自不明にして、蓮如の為に身を粉にして働き、最後は失踪するという結末。彼は別の地で別の名前で蓮如の側近として働いた可能性もありますし、何らかの事故や事件に巻き込まれてしまったという可能性もまたありますね。

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