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2007年12月13日 (木)

川戦:源姓松平編⑧松平益親2

 おまけ的に、北近江に進出した松平益親のその後について書きます。菅浦・大浦荘の代官の松平益親は後に益親の主家である日野家が両荘を延暦寺に寄進したことによって、免職されます。この頃は益親は隠居していて、子の勝親が後を継いでいたそうです。
 菅浦・大浦荘は戦国期の惣村活動を詳細に記した文書が残っていたために、こうした活動が後世にのこされていたわけで、歴史家の研究対象になっていたようです。お陰でこういう活動の一端も我々の眼にふれることになるのですね。
 ただ、菅浦・大浦はしょっちゅう紛争をおこしていて、訴訟や暴力沙汰も絶えなかったようです。益親自身も命を狙われたことがあったそうです。日野家が菅浦荘を延暦寺に寄進したのも、惣村化した村の支配が難しくなったことも一つですが、あといくつか考えられます。
 日野家の寄進は1471年(文明3年)。1467年から11年続いた応仁・文明の乱の真っ只中で京都の街も兵乱の中で灰燼に帰しています。その混乱の中で湖北の小村を維持するのが難しくなったということがあるのでしょう。
 そしてもう一つは延暦寺の勢力伸張です。益親の活動と当時の延暦寺の動静を本願寺とのかかわりを中心に重ね合わせて見ます。

1461年(寛正 2年)菅浦荘騒乱。松平益親、菅浦征伐
1465年(寛正 6年)2月 8日 延暦寺、大谷本願寺を破却。
1466年(文正元年)金森合戦
1467年(応仁元年)3月      延暦寺と和議、蓮如の隠居と長男・順如の廃嫡が盛り込まれる。
1468年(応仁 2年)3月24日 堅田大責。
         蓮如、三河再訪。
1469年(応仁 3年)大津南別所に顕証寺を建立、長男・順如を住持として祖像を同寺に置く。
1470年(文明 2年)堅田衆、比叡山に賠償金を払い復興を許される。
1471年(文明 3年)日野氏、菅浦荘を比叡山に寄進。松平勝親(益親の息子)代官職を罷免される。

 菅浦荘騒乱の四年後に延暦寺は大谷本願寺を破却し、金森合戦と続いて、応仁元年に蓮如の隠居表明によって一応の手打ちになります。しかし、その翌年湖上水運を引き受けていた堅田衆が将軍の御用船の積荷を横領すると、比叡山はそれを名分に堅田を焼きます。その翌々年に堅田から賠償金を分捕って和議を結びました。そして、その翌年の菅浦荘の叡山への寄進です。
 この期間、延暦寺は強硬路線でつっぱしり、それで一定の成果を得ました。彼らの立場で見れば、ここで延暦寺が得たものは元々延暦寺のものであり、その回復運動に過ぎないということなのかもしれません。堅田衆を屈服させた延暦寺はさらに湖上の支配権の強化を目し、その一環として日野家から菅浦荘を得たとも考えられますね。

 松平益親・勝親の活動については、京都における貸金業が当時の裁判記録に残っているくらいです。その後、彼らがどうなったのかは不明です。

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2007年12月11日 (火)

川戦:源姓松平編⑦松平郷松平家

 松平家の惣領は親氏、泰親、信光と三代続いたとされています。但し、この三者の関係については色々異説があって決定的な確証のある説はありません。三人を祖父、父、息子と直系の三代につなぐ説もあれば、親氏と泰親は兄弟という説もあります。ただし、その場合に信光は親氏の息子ということになります。泰親の子供という説はありません。なぜなら泰親が松平の一代目ということになってしまうからです。このことは何を意味するでしょう。それは、徳阿弥という時宗僧が加茂氏松平の婿養子になって源氏の松平氏を拓いたという話が、三河松平家にとって、後の徳川将軍家極めて重要なエピソードであるという証拠なのだと思います。

 三者の関係を考察する時、さらに話をややこしくしているのが、松平郷松平家の存在です。二代目の泰親は松平郷を出て、矢作川沿いの岩津という土地に移住します。この時に、松平信広に松平郷を継がせているのですね。彼は親氏もしくは、泰親の息子とされています。三代目の信光にとっては兄もしくは叔父にあたるのですが、一応嫡子ではなく、庶子の扱いになってます。
 ただ、松平郷は松平一族の本貫地です。そして、親氏、泰親が名乗った太郎左衛門を継ぎました。そこに庶子が入るのは少し不自然ですし、もう一人の庶子説のある酒井広親が松平姓にならない理由もぼやけてゆくような気がします。

 松平太郎左衛門信重―――女
 (松平郷)            ∥
                   +―――松平信光(岩津)
                   ∥
 徳河有親―――――+――松平太郎左衛門親氏(松平郷)
              |   ∥
              |   +―――松平太郎左衛門信広(松平郷)
              |   ∥
              |   女
              |
              +――松平太郎左衛門泰親(岩津)

 この図は、信広が親氏の息子であり、泰親が親氏の弟という説に基づいて作ったものです。これだと、どう考えても信広と松平信重は赤の他人ですね。加茂松平氏の信重が名乗っていた太郎左衛門は信重⇒親氏⇒泰親⇒信広と継いだことになってますが、信広に名乗らせる理由が極めて希薄です。親氏は松平郷で死んだことになってますから、信広が松平郷を継ぎ、太郎左衛門を名乗るためには、その時までに信重と信光の母親は死んでいないと彼らは納得しないでしょう。そこに顕れるのは親氏による加茂流松平家横領というあまり愉快じゃない想像です。

 松平太郎左衛門信重―――女
 (松平郷)            ∥
                   +―――太郎左衛門泰親(岩津)―――信光(岩津)
                   ∥
 徳河有親――――――――太郎左衛門親氏(松平郷)
                   ∥
                   +―――太郎左衛門信広(松平郷)
                   ∥
                   女

 この図は、信広が親氏の息子であり、同時に親氏⇒泰親⇒信光が直系の血縁である場合の図です。信広は庶流という伝に従い、泰親の異母兄弟というケースです。
 この図だと、信重の娘が息子に従って岩津に移り住んだと想定したら、納得はできそうですね。でも、泰親が名乗った太郎左衛門を信広が名乗るロジックを説明するのは苦しいです。そもそも、泰親が親氏と兄弟説がでるのは、三代目の信光の名前に『親』の字がなく、なおかつ松平信重の『信』の字が入っているせいですね。親から息子へ名前の一字を譲るのを偏忌といいます。親だけじゃなく、目上の主君とかそういうケースもありうるのですが、今はその可能性を除外して考えます。その場合、松平信重と直接の関係のない娘と親氏との子供に信重の偏忌である『信』の文字を用いる理由と、そして、松平一族の惣領を継いだはずの泰親の名に『信』の字がない理由。さらに、信光の名前に『信』の字が使われている理由が皆目わからなくなってしまいます。彼らがそんなものには拘らない性格だったというのならわかるのですが、信光の子の親忠以降の代はわりと忠実に子のルールに従っているところを見るとそれを知らなかったとも考えにくいのです。実は。

 松平信重―――女    女
           ∥    ∥
           ∥    +―――信広(松平郷)
           ∥    ∥
           +―――泰親(岩津)
           ∥    ∥
 徳河有親―――親氏   +――信光(岩津)
          (松平郷) ∥
                 女

 この考え方もわりと納得はゆくのですが、やはり泰親に『信』の字がない理由と、彼の子の代になって『信』の字が使われる理由がよくわからないのがしっくりこないです。

 松平太郎左衛門信重―――女  +―松平太郎左衛門信広(松平郷)
 (松平郷)            ∥  |
                   +―+―松平信光(岩津)
                   ∥
 徳河有親―――――+――松平太郎左衛門親氏(松平郷)
              |
              +――松平太郎左衛門泰親(岩津)

 以上の論点を総合して、信広は信光と同腹の兄であるということ。つまり、信光は傍流という結論に至ります。このケースにおいて、偏諱というルールを適用してみることが正しいのかどうかはわかりません。さりながら、偏諱のルールにあう状況があればそこから事情を推察することができます。松平信広と信光この二人が異母兄弟で信広の方が庶子ならば、両方の名前に信重の偏諱が与えられる理由がわからなくなるのですが、信広が信光の同腹の兄であれば、親氏と泰親は跡継ぎのない加茂流松平家のショートリリーフであったという性格づけがはっきりします。信広が松平郷を継いだことによって、信光は叔父に従って岩津に出てゆきます。そこで大きな飛躍を遂げることになるのですが、それは別稿で語りたいと思います。

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2007年12月 6日 (木)

川戦:源姓松平編⑥偏諱のルール

 武士の名前には複雑なルールがあります。とりあえず、代表的な例を引き合いにして語って見ます。
 多少知ったかぶりな記述もあるので、話半分に聞いてくれると気が楽になります。

 織田信長の名前を『織田三郎平信長』と書くことがあります。これを分解すると①織田、②三郎、③平、④信長に分かれます。
 ①の織田は所謂『氏』です。現代の我々が名乗っている名字と同じものですね。ファミリーネームであり、父系の親戚を指し示すものです。
 ②の三郎は通名と呼びます。日常生活において、名を呼ぶときはこの通名を使うことになっています。これが大名や朝廷に仕えたりした場合、『弾正忠』とか、『上総介』などの官職名がつきます。これを官途名といいますが、使われ方は通名と同じです。もともとは呪詛を恐れた中国人が呪詛を逃れるために、普段は別の名前をつかった(これを字(あざな)といいます)ことに端を発するものです。
 ③の平は『姓』です。厳密に言うと氏と姓は異なるものであり、氏がファミリーネームであるなら、姓は同族集団を指し示す、より大きな概念です。氏が異なっていても、姓が同じならご先祖様は同じことになります。例えば、足利氏、吉良氏、一色氏はそれぞれ氏は異なっていますが、先祖をたどれば皆清和天皇に行き着きます。清和天皇の第六王子である貞純親王の子孫に与えられた姓が源であり、清和天皇系の源姓を持つ各種氏族の総称を清和源氏と呼ぶわけです。織田信長の姓は平です。これは桓武平氏を指す姓であり、桓武天皇の子孫であることを意味します。有力な武士は概ね源、平、藤原、橘の四つの姓のどれかを持ちます。無論、例外はありますが、有力な武士団を形成した四つの姓を総称して源平藤橘(げんぺいとうきつ)と呼びます。
 ④の信長は諱です。『いみな』と読み、その人物の本当の名前をさしますが、その読みどおり、忌まれた名前でした。すなわち、公の場でこの名で呼ばれることは憚られたのです。それは呪詛を恐れた名残といいます。すなわち、呪殺を行うためには呪術者はその人物の名前を術に組み込んだそうです。例えば人形にその人の名前を書いて門前に埋める、怨念を送ると呪いがかかる。これが呪殺のプロセスです。逆に言うと、呪詛を避けるために、普段は別の名前を名乗っていたわけです。それが通名や官途名であったりしました。逆に相手に自らの諱を教えることは、相手に対して絶対の信頼与えて、自らの命を委ねることと同義でした。だから、昔の中国人は手紙に自らの諱を記して、相手に託しました。故に中国人は手紙のことを『信』と呼びます。同時に、手紙を通わせることを『通信』と呼び、その言葉は現代日本語にもなっていますね。

 諱はその人物の真の名であるので、扱にはある一定のルールがあります。諱は通常二文字で表されますが、そのうちの一文字をやり取りすることによって親子や兄弟、主従の関係を定義するのです。諱の一文字のことを指して特に偏諱と呼びます。

第一ルール:直系の偏諱相続

 織田信秀――織田信長

 偏諱をもらえるような主君を持たないもしくは、偏諱を家臣に与えるだけで自分は貰う必要のないくらいに偉い人物の場合、諱の一文字目は氏と同じファミリー・コードの意味合いを持つことになります。例の場合は『信』の字ですね。足利将軍家の場合は『義』であり、徳川将軍家は『家』だったりします。

第二ルール:偏諱による嫡子、非嫡子の別

 徳川家光―+―徳川家綱
        |
        +―徳川綱吉
        |
        +―徳川綱重

 武家社会は長子相続が原則ですから、嫡子と非嫡子の別は厳格で、名前によってそれが成されていました。諱の二文字目は嫡子のアイデンティティ・コードと呼ぶべきものです。それは弟達に与えられて、彼らの諱の一文字目にかかげられました。上記例では家光から嫡子家綱へは『家』の字が譲られ、家綱の弟たちには、家綱の代を示す『綱』の字が諱の一文字目に掲げられます。

第三ルール:主筋による惣領への賜諱、非嫡子への賜諱

 (八代)      (十代)
 足利義政………足利義材(義植)

 大内政弘―――大内義興―――大内義隆

 毛利弘元―+―毛利興元
        |
        +―毛利元就―+―毛利隆元
                  |
                  +―小早川隆景
                  |
                  +―吉川元春
                  |
                  +―穂田元清

 非嫡子に自らの諱の二文字目を与えるのと同じ事を家臣に施します。これを賜諱といいます。毛利家とその主筋に当たる大内家に特徴が良く出ていますので例に引きます。大内政弘は『弘』の字を毛利弘元に、その子の大内義興は『興』の字を毛利興元に、さらに孫の大内義隆は『隆』の字を毛利隆元に賜諱しています。与えられた方は毛利家のファミリーコードである『元』の字を諱の二文字目に下げます。そして、そのファミリーコードは弟達の諱の一文字目に据えられる事になります。毛利元就、吉川元春、穂田元清がそうですね。小早川隆景は大内義隆から一字拝領できるだけの有力氏族へ養子に行ったのですね。もっとも小早川家は、一族の内紛に乗じて毛利家がお家乗っ取りをしたのですが、小早川一族の残党を抑えるために、大内家の威光を利用したというのが実相かと思われます。
 大内氏は代々足利将軍から偏諱を受け取っています。大内政弘の『政』の字は八代将軍足利義政の偏諱です。後に十代将軍足利義材が大内家の領地である周防に流れてきました。管領の細川政元との政争に破れた結果です。大内家は義材を保護し、大内政弘の子、義興は義材をかついで上洛します。織田信長の先行事例ですね。京都には十一代将軍足利義澄がいたのですが、義材派ということで偏諱をもらえなかった。変わりに足利将軍家のファミリーコードである『義』の字を頭につけています。これは将軍家の許しがなくてはできないことですが、許可したのは足利義材だと推測します。それゆえ、義興は義材を担いで上洛したのでしょう。

 ちょっと話が脇にそれました。偏諱のルールの話に戻します。ここまで書いたことは大体の傾向であって、あてはまらないケースもたくさんあります。ただ、こういうルールがあると考えて、系図をながめてみれば一見関係のないところに何らかの関係性を見出すことができるかもしれません。

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2007年12月 4日 (火)

川戦:源姓松平編⑤松平益親

 松平益親の名前は『寛永諸家系図伝』・『寛政重修諸家譜』の系図資料で泰親の子とされています。三河松平家の惣領ではありません。彼の活動拠点は京都と琵琶湖の湖北でありますが、紛争解決のために武力行使をし、その為の手勢を三河から呼び寄せたという記述もあるそうですから、松平親氏の一族であることはまず間違いのないところだと考えられます。

 その三河松平一族ゆかりの彼がどういう経緯でそうなったのかは不明ですが、彼の身分は日野裏松家の被官。つまり家人です。主家より琵琶湖の湖北にある菅浦・大浦の荘園の代官となって年貢を主家に運ぶことを担当としていたのですが、この二つの荘園が度々争いを起こしています。その訴訟記録にこの松平益親の名前が載っているそうです。彼は基本的に京都に屋敷をもってそこで主家に仕えていましたが、必要に応じて湖西にある坂本、そして湖北の大浦・菅浦を往復していました。彼は日野家をバックとしてた徴税請負人であり、日野家の意向を受けて騒乱の鎮圧をまかされる立場にありました。
 寛正二年、二つの荘園のうち、菅浦荘が騒乱をおこしました。地下人の殺害がきっかけとされていますが、その裏にこの前後に起こった飢饉との関わりがありそうです。その鎮圧のために益親が兵を率いて菅浦荘を囲んだそうです。

 ここで考えたいのは、松平益親がこういう場所の代官に選ばれたのかということです。この頃の松平家は三河の土豪でしかありません。一応のルートとして、この時までに松平家が政所執事伊勢貞親の被官となり、その伝で日野家に紹介されたと唱える研究者もいらっしゃいます。
 けど、私としては、武士化以前の本来の『徳河』の一族としてのあり方ではなかったのかという気がします。それは諸国を浪々し、必要に応じて貴族の要請を受けて権力を代執行するための、ノウハウの持ち主としての便利屋としての側面です。そして、彼が持っていたもの。それは石川一族と同じ、そして松平郷と岩津を拠点とした河川ネットワークを築き上げた川の一族としてのノウハウです。

 また、益親は三河から手勢を集めて菅浦荘を囲みました。数は知れているとは思われますが、三河から京都経由で菅浦、もしくは三河から直接菅浦に向かわせるにせよ、その全ての手配をするのはなかなか難しいことのではないかと思われます。特に、琵琶湖周辺には延暦寺や堅田衆などの土地の利権集団が犇いているのです。日野家のバックがあるとはいえ、ただの三河の土豪にそれらの調整をやりきれたかどうかはちょっと疑問です。
 また、松平益親が代官請した菅浦・大浦の年貢米一度比叡山の寺内町である坂本に運ばれ、そこから京都へ運搬されたそうです。坂本までの輸送は、延暦寺の委託を受けて湖上輸送を一手に握っていた堅田衆が引き受けていたことでしょう。そして、堅田衆には門徒が多かった。
 さらにもう一つ補助線を引いてみます。蓮如です。蓮如の先祖である親鸞は実は日野家の出身で、本願寺の留守職は代々日野一族の猶子になっています。五世留守職の綽如は日野時光、六世巧如は日野資康、七世存如は広橋兼宣、八世の蓮如は広橋兼郷の猶子という具合にです。広橋家も日野の一族です。そして、蓮如には1442年(嘉吉2年)に生まれた順如という長男がいました。彼もまた日野一族の有力者の猶子となりました。日野裏松家の日野勝光です。彼は八大将軍足利義政の妻となった日野富子の兄であり、押大臣(おしのおとど)の異名で幕府に大きな影響力をもった公卿です。

 平時においては年貢米を運び、非常事態においては、武装した郎党を菅浦に運んだ。そういうことができる人物を日野家は必要とし、そのニーズを聞き届け、こたえられる能力をもっていたことが松平益親が雇われた理由なのではないか。あくまで可能性に過ぎませんが、そう考えます。

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