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2007年12月 4日 (火)

川戦:源姓松平編⑤松平益親

 松平益親の名前は『寛永諸家系図伝』・『寛政重修諸家譜』の系図資料で泰親の子とされています。三河松平家の惣領ではありません。彼の活動拠点は京都と琵琶湖の湖北でありますが、紛争解決のために武力行使をし、その為の手勢を三河から呼び寄せたという記述もあるそうですから、松平親氏の一族であることはまず間違いのないところだと考えられます。

 その三河松平一族ゆかりの彼がどういう経緯でそうなったのかは不明ですが、彼の身分は日野裏松家の被官。つまり家人です。主家より琵琶湖の湖北にある菅浦・大浦の荘園の代官となって年貢を主家に運ぶことを担当としていたのですが、この二つの荘園が度々争いを起こしています。その訴訟記録にこの松平益親の名前が載っているそうです。彼は基本的に京都に屋敷をもってそこで主家に仕えていましたが、必要に応じて湖西にある坂本、そして湖北の大浦・菅浦を往復していました。彼は日野家をバックとしてた徴税請負人であり、日野家の意向を受けて騒乱の鎮圧をまかされる立場にありました。
 寛正二年、二つの荘園のうち、菅浦荘が騒乱をおこしました。地下人の殺害がきっかけとされていますが、その裏にこの前後に起こった飢饉との関わりがありそうです。その鎮圧のために益親が兵を率いて菅浦荘を囲んだそうです。

 ここで考えたいのは、松平益親がこういう場所の代官に選ばれたのかということです。この頃の松平家は三河の土豪でしかありません。一応のルートとして、この時までに松平家が政所執事伊勢貞親の被官となり、その伝で日野家に紹介されたと唱える研究者もいらっしゃいます。
 けど、私としては、武士化以前の本来の『徳河』の一族としてのあり方ではなかったのかという気がします。それは諸国を浪々し、必要に応じて貴族の要請を受けて権力を代執行するための、ノウハウの持ち主としての便利屋としての側面です。そして、彼が持っていたもの。それは石川一族と同じ、そして松平郷と岩津を拠点とした河川ネットワークを築き上げた川の一族としてのノウハウです。

 また、益親は三河から手勢を集めて菅浦荘を囲みました。数は知れているとは思われますが、三河から京都経由で菅浦、もしくは三河から直接菅浦に向かわせるにせよ、その全ての手配をするのはなかなか難しいことのではないかと思われます。特に、琵琶湖周辺には延暦寺や堅田衆などの土地の利権集団が犇いているのです。日野家のバックがあるとはいえ、ただの三河の土豪にそれらの調整をやりきれたかどうかはちょっと疑問です。
 また、松平益親が代官請した菅浦・大浦の年貢米一度比叡山の寺内町である坂本に運ばれ、そこから京都へ運搬されたそうです。坂本までの輸送は、延暦寺の委託を受けて湖上輸送を一手に握っていた堅田衆が引き受けていたことでしょう。そして、堅田衆には門徒が多かった。
 さらにもう一つ補助線を引いてみます。蓮如です。蓮如の先祖である親鸞は実は日野家の出身で、本願寺の留守職は代々日野一族の猶子になっています。五世留守職の綽如は日野時光、六世巧如は日野資康、七世存如は広橋兼宣、八世の蓮如は広橋兼郷の猶子という具合にです。広橋家も日野の一族です。そして、蓮如には1442年(嘉吉2年)に生まれた順如という長男がいました。彼もまた日野一族の有力者の猶子となりました。日野裏松家の日野勝光です。彼は八大将軍足利義政の妻となった日野富子の兄であり、押大臣(おしのおとど)の異名で幕府に大きな影響力をもった公卿です。

 平時においては年貢米を運び、非常事態においては、武装した郎党を菅浦に運んだ。そういうことができる人物を日野家は必要とし、そのニーズを聞き届け、こたえられる能力をもっていたことが松平益親が雇われた理由なのではないか。あくまで可能性に過ぎませんが、そう考えます。

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