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2007年12月 6日 (木)

川戦:源姓松平編⑥偏諱のルール

 武士の名前には複雑なルールがあります。とりあえず、代表的な例を引き合いにして語って見ます。
 多少知ったかぶりな記述もあるので、話半分に聞いてくれると気が楽になります。

 織田信長の名前を『織田三郎平信長』と書くことがあります。これを分解すると①織田、②三郎、③平、④信長に分かれます。
 ①の織田は所謂『氏』です。現代の我々が名乗っている名字と同じものですね。ファミリーネームであり、父系の親戚を指し示すものです。
 ②の三郎は通名と呼びます。日常生活において、名を呼ぶときはこの通名を使うことになっています。これが大名や朝廷に仕えたりした場合、『弾正忠』とか、『上総介』などの官職名がつきます。これを官途名といいますが、使われ方は通名と同じです。もともとは呪詛を恐れた中国人が呪詛を逃れるために、普段は別の名前をつかった(これを字(あざな)といいます)ことに端を発するものです。
 ③の平は『姓』です。厳密に言うと氏と姓は異なるものであり、氏がファミリーネームであるなら、姓は同族集団を指し示す、より大きな概念です。氏が異なっていても、姓が同じならご先祖様は同じことになります。例えば、足利氏、吉良氏、一色氏はそれぞれ氏は異なっていますが、先祖をたどれば皆清和天皇に行き着きます。清和天皇の第六王子である貞純親王の子孫に与えられた姓が源であり、清和天皇系の源姓を持つ各種氏族の総称を清和源氏と呼ぶわけです。織田信長の姓は平です。これは桓武平氏を指す姓であり、桓武天皇の子孫であることを意味します。有力な武士は概ね源、平、藤原、橘の四つの姓のどれかを持ちます。無論、例外はありますが、有力な武士団を形成した四つの姓を総称して源平藤橘(げんぺいとうきつ)と呼びます。
 ④の信長は諱です。『いみな』と読み、その人物の本当の名前をさしますが、その読みどおり、忌まれた名前でした。すなわち、公の場でこの名で呼ばれることは憚られたのです。それは呪詛を恐れた名残といいます。すなわち、呪殺を行うためには呪術者はその人物の名前を術に組み込んだそうです。例えば人形にその人の名前を書いて門前に埋める、怨念を送ると呪いがかかる。これが呪殺のプロセスです。逆に言うと、呪詛を避けるために、普段は別の名前を名乗っていたわけです。それが通名や官途名であったりしました。逆に相手に自らの諱を教えることは、相手に対して絶対の信頼与えて、自らの命を委ねることと同義でした。だから、昔の中国人は手紙に自らの諱を記して、相手に託しました。故に中国人は手紙のことを『信』と呼びます。同時に、手紙を通わせることを『通信』と呼び、その言葉は現代日本語にもなっていますね。

 諱はその人物の真の名であるので、扱にはある一定のルールがあります。諱は通常二文字で表されますが、そのうちの一文字をやり取りすることによって親子や兄弟、主従の関係を定義するのです。諱の一文字のことを指して特に偏諱と呼びます。

第一ルール:直系の偏諱相続

 織田信秀――織田信長

 偏諱をもらえるような主君を持たないもしくは、偏諱を家臣に与えるだけで自分は貰う必要のないくらいに偉い人物の場合、諱の一文字目は氏と同じファミリー・コードの意味合いを持つことになります。例の場合は『信』の字ですね。足利将軍家の場合は『義』であり、徳川将軍家は『家』だったりします。

第二ルール:偏諱による嫡子、非嫡子の別

 徳川家光―+―徳川家綱
        |
        +―徳川綱吉
        |
        +―徳川綱重

 武家社会は長子相続が原則ですから、嫡子と非嫡子の別は厳格で、名前によってそれが成されていました。諱の二文字目は嫡子のアイデンティティ・コードと呼ぶべきものです。それは弟達に与えられて、彼らの諱の一文字目にかかげられました。上記例では家光から嫡子家綱へは『家』の字が譲られ、家綱の弟たちには、家綱の代を示す『綱』の字が諱の一文字目に掲げられます。

第三ルール:主筋による惣領への賜諱、非嫡子への賜諱

 (八代)      (十代)
 足利義政………足利義材(義植)

 大内政弘―――大内義興―――大内義隆

 毛利弘元―+―毛利興元
        |
        +―毛利元就―+―毛利隆元
                  |
                  +―小早川隆景
                  |
                  +―吉川元春
                  |
                  +―穂田元清

 非嫡子に自らの諱の二文字目を与えるのと同じ事を家臣に施します。これを賜諱といいます。毛利家とその主筋に当たる大内家に特徴が良く出ていますので例に引きます。大内政弘は『弘』の字を毛利弘元に、その子の大内義興は『興』の字を毛利興元に、さらに孫の大内義隆は『隆』の字を毛利隆元に賜諱しています。与えられた方は毛利家のファミリーコードである『元』の字を諱の二文字目に下げます。そして、そのファミリーコードは弟達の諱の一文字目に据えられる事になります。毛利元就、吉川元春、穂田元清がそうですね。小早川隆景は大内義隆から一字拝領できるだけの有力氏族へ養子に行ったのですね。もっとも小早川家は、一族の内紛に乗じて毛利家がお家乗っ取りをしたのですが、小早川一族の残党を抑えるために、大内家の威光を利用したというのが実相かと思われます。
 大内氏は代々足利将軍から偏諱を受け取っています。大内政弘の『政』の字は八代将軍足利義政の偏諱です。後に十代将軍足利義材が大内家の領地である周防に流れてきました。管領の細川政元との政争に破れた結果です。大内家は義材を保護し、大内政弘の子、義興は義材をかついで上洛します。織田信長の先行事例ですね。京都には十一代将軍足利義澄がいたのですが、義材派ということで偏諱をもらえなかった。変わりに足利将軍家のファミリーコードである『義』の字を頭につけています。これは将軍家の許しがなくてはできないことですが、許可したのは足利義材だと推測します。それゆえ、義興は義材を担いで上洛したのでしょう。

 ちょっと話が脇にそれました。偏諱のルールの話に戻します。ここまで書いたことは大体の傾向であって、あてはまらないケースもたくさんあります。ただ、こういうルールがあると考えて、系図をながめてみれば一見関係のないところに何らかの関係性を見出すことができるかもしれません。

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