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2008年1月31日 (木)

川戦:応仁乱編⑦土呂本宗寺

 応仁二年の蓮如の三河下向が上宮寺の佐々木如光のプロモートであったことは既に書きました。同じ事を何度も書くのも何なので、この稿では額田郡一揆に絡めたことを書いてゆこうと思います。

 松平信光は一揆討伐によって深溝周辺に進出するきっかけを得ました。その証左となるものが、松平信光の子供達が家祖となる、深溝松平氏、形原松平氏、竹谷松平氏、五井松平氏の諸家の誕生です。信光以前にはこれらの地に松平家の痕跡はありません。信光の代になってからの分家です。故に、額田郡一揆討伐において、信光の息子松平大炊介正則が大庭次郎左衛門を深溝に討ちとったことの意義は大きかったと評価できます。深溝は大庭一族の本拠地でした。
 大庭次郎左衛門とともに一揆方の将として戦った、丸山中務入道は岡崎から乙川を少し上ったところの大平郷というところで戸田宗光に討たれています。この大平郷からさらに少し川を上ると丸山という地があります。
丸山中務入道の本拠も丸山にありました。これらは何を意味するかを考えて見ます。岩津の松平氏と上野(現在の豊田市上郷町)の戸田氏が一揆鎮圧側に回ったことを知った一揆勢は自らの本拠に戻ったということでしょう。そして、そこで首謀者は狩り出されるように討たれました。その後に松平の一族が大庭氏の深溝に入ったということはある程度の武力を背景とした掃討があったと推察されます。

 蜷川親元の日記の記述の中に、一揆衆に加わった者として黒柳という名があります。黒柳の一族は土呂を根拠地としていたそうです。応仁二年に三河に下向した蓮如は如光、石川政康らとはかり、土呂に本宗寺という寺をたて、ここを三河国における根本道場に指定するに至ります。ここに第九代留守職の実如が入り、その後に実如の子の実円が初代住持になります。もっとも、この時点の実如の留守職就任はこの前年の比叡山延暦寺との抗争の手打ちにおいて、蓮如の隠居と兄順如の廃嫡が強要されたためで、この頃の実如はわずか九歳の子供でした。実権は引き続き蓮如が握っていたわけです。本宗寺建立以前の黒柳一族の信仰が浄土真宗だったのかどうかは確認は取れておりませんが、その後黒柳一族は門徒衆として記録に名を残しています。蜷川親元の日記に叛徒として名が残っている以上、黒柳氏の根拠地である土呂の地もまた掃討が行われたことは想像に難くありません。そして、実如は蓮如の第二夫人、蓮祐の子であり伊勢氏の出身でした。土呂の地に本願寺派が有力寺院を建てた背景として額田郡一揆があったことはかなり濃厚なセンだと考えます。
 本願寺派の土呂進出の具体的な経緯はわかりません。松平・戸田氏によって掃討された跡地を蓮如-蓮祐-伊勢貞房(蓮祐の実家)-伊勢貞親のルートでもらいうけたのかもしれません。土呂進出の前年である1467年(応仁元年)に本願寺が延暦寺に屈服して和議が結ばれた折、上宮寺如光は多額の賠償金を蓮如に代わって払いました。それに対する報酬として蓮如は伊勢貞親を動かし土呂の地を得た、というのはありそうです。
 伊勢貞親は松平信光らに一揆討伐を命じた書を送っておりますが、同様に如光や石川政康らにも同様の命令がされていた可能性は否定できないと思えます。少なくとも如光が住持を務めた上宮寺のある佐々木や石川政康のいた小川も一揆の周辺地であり、騒乱が波及しないように何らかの手が打たれていたのは間違いのないところでしょう。寛政重修諸家譜に蓮如(ではなくおそらくは如光)が石川政康に語った言葉として以下のものがあります。

 三河は我が郷党なり。武士の大将として一方を指揮すべきものなし。願わくば三河国に来たりて我が門徒を進退すべしとなり。

 本願寺教団が石川一族に期待したのは武辺働きであることはこの記述で伺えます。もし、石川政康がこの言葉の通り、門徒を率いて武力行使をしたとすれば、この時をおいてはないでしょう。黒柳氏がいる土呂の地に進駐し、この地における本願寺教団の影響力行使を既成事実として認めさせたと考えるのもそう無理はないように思います。本宗寺の建立においては、土地は石川氏よりの寄進によるものとされておりますから。少なくとも応仁二年までにはこの地に石川氏の勢力が入り込んでいたことは間違いのないところでしょう。
 後年、家康の代になって起こった三河国一向一揆中、上和田合戦において、石川一族の石川新九郎親綱率いる土呂本宗寺の一揆勢が松平家康と水野信元の連合軍に討ち取られました。この記述は三河物語で語られる三河一揆の顛末のフィナーレとなっています。そして、本宗寺に立てこもった者達は一揆勢の主力であり、その中に黒柳一族の名前も入っているのですね。傍証としてはやや心もとないものの、現状可能性としては大いにありとしたい所です。

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2008年1月29日 (火)

川戦:応仁乱編⑥伊勢貞親

 額田郡一揆は守護である細川成之が解決できなかった問題を、伊勢貞親が解決したという形で幕を下ろしました。そこで松平信光に一揆討伐を命じた伊勢貞親について考察してみます。

 室町将軍には二つの政治姿勢がありました。足利尊氏が幕府を作って以来、ずっと悩まされ続けていた問題でした。それは鎌倉の源氏三代や北条家滅亡の原因であり、徳川家康が中国から朱子学思想を輸入するという最終的な解決を図るまでずっとついて回った問題です。それは即ち、武士団の主従というのは一種の同盟関係であって、中国の皇帝のような絶対権力をふるえる環境では必ずしもないということです。武士団が小さなうちはそれで十分でしたが、これが全国規模になると必ずし上手くゆきません。命令が末端に行き届かなくなるのです。将軍は分割した職分を掌握する有力者の同意を取り付けないと何も出来なくなるわけです。
 それを解決するために、歴代将軍は二つの方針をとりました。一つは三代将軍足利義満や六代義教が指向した強い将軍権力を目指すというやり方です。有力な守護大名は挑発して反乱を起こさしめて、粛清する。これによって相対的な将軍権力の拡大を図るやり方です。義教はより過激な策にでます。将軍権力をもって、慣行となっていた嫡子相続を敢えて無視したのです。有力守護の一族の者を引き立て、自分に忠実な者を守護にすえたのです。もちろん元の当主は反発しますが、それを口実に討伐したり、時に暗殺を謀ったりしました。三河守護だった一色義貫もこの犠牲になったわけです。この策は非常に有効でした。守護大名家は家内で二派に分かれて対立し、競って将軍のご機嫌を取るようになりました。ただ、このやり方は将軍に非常の器量を要求されます。現に義教は最終的に失敗し、播磨の国守護の赤松満祐に暗殺されてしまったのです。
 もう一つのやり方は傀儡に甘んじて有力守護に全てを委ねるやり方です。四代足利義持など、多くの将軍がこのやり方を取りました。というより、当時の政局でそうならざるを得なかったというのが実相でしょう。内部牽制がきちんと働く間はなんとか上手く治められるようです。ただこのやり方を放置すると六分の一殿と呼ばれた山名氏清などの将軍を凌ぎかねない力を持った有力守護が現れたりして、室町幕府そのものの存続を揺るがすことにすらなりますので、運営は常に綱渡りでした。

 八代将軍義政も例に洩れず、後者のパターンです。伊勢貞親は将軍の養育係となり、そのまま側近として義政の政策スタッフとして、政所執事の職につきます。山名宗全や細川勝元などと渡り合い、綱渡り的な政治運営をこなしました。
 山名宗全や細川勝元は三管四職の名門家であり、分権指向でした。桓武平氏の出である伊勢貞親が彼らに伍して権力を振るうには将軍の後ろ盾を必要とします。その結果、彼の立場で指向したのは足利義満・義教的な将軍権力を強化する方向性でした。

 寛正の額田郡一揆の翌年、伊勢貞親は斯波氏の相続争いに介入します。斯波氏は尾張・越前・遠江の三ヶ国の守護で、時の当主は斯波義廉でした。そこに罪を得て周防に流されていた前当主の義敏を復権させようと伊勢貞親は工作しました。しかし、斯波義廉は山名宗全を頼って巻き返しを図り、管領の細川勝元の支持も得て伊勢貞親の排斥を訴えます。その結果、伊勢貞親は追放されるに至りました。これを文正の政変といいます。そして、今度は将軍家後継をめぐって山名宗全と細川勝元が対立して応仁の乱へと至るわけです。応仁の乱が始まると足利義政は伊勢貞親を京に呼び戻し、貞親は細川勝元の東軍派として行動をとっています。

 この流れをもって額田郡一揆を考察するなら、結構面白い結論が出るような気がします。この一揆を鎮圧したのは、戸田宗光と松平信光の二人でともに伊勢貞親の被官です。三河守護細川成之は一揆の討伐を試みましたが、単独では制圧に失敗したと言わざるを得ません。そして相談の結果、伊勢貞親の命令で戸田と松平が動き、実効的な解決が図られた。その功名は伊勢貞親にもたらされたといえるでしょう。その結果、松平信光は岩津の他に、深溝はじめ矢作川・広田川沿いの各所に進出し、戸田宗光は知多半島の河和・富貴を領するに至ります。つまり、伊勢貞親の命令でしか動かない被官が三河国において、大きく勢力を伸ばしたということですね。これは想像ですが、一揆勢が鎌倉公方足利成氏の命令を奉じたというのはこの二氏に褒賞を与えるための口実であったのかもしれません。三河を挟む二ヶ国、尾張と遠江の守護であった斯波氏に対する牽制として、ここに自らの勢力の扶植を図った。一揆をマッチポンプとは言いませんが、偶発的に起こった事件を自分の勢力拡大に利用したというのはありそうだと思います。

 最後に、牽強付会な説をぶち上げて本稿の締めといたします。
 色々な意味で伊勢貞親は面白いポジションにいる政治家でした。彼の一族に後に日本最初の戦国大名となる伊勢宗瑞(北条早雲)がいます。そして、蓮如とも関係を持っています。蓮如は生涯に五人の妻を持ちましたが、そのうちの第一夫人と第二夫人であった如了と蓮祐は伊勢氏の出身でした。松平益親を被官とした日野裏松家(おそらくは勝光)と同様、松平信光を被官とした伊勢貞親。彼らが蓮如と縁故のある人物であるということは、松平家と蓮如との間に何らかの関係があるということを示唆しているのかもしれません。そして、額田郡一揆から三年経った応仁二年に、蓮如が三河に下向するのです。

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2008年1月24日 (木)

川戦:応仁乱編⑤額田郡一揆Ⅱ

 一揆のあった1465年(寛正6年)には蓮如の大谷本願寺が比叡山延暦寺の僧たちによって破却され、近江国金森に落ち延びた蓮如を匿った一揆衆が延暦寺の僧兵と戦ったりしています。また、その4年前には江北の菅浦での擾乱によって、松平益親がその調停に手兵を送り込んだりしています。要するにこのあたりの時代はかなり乱れているのですね。事件が立て続けに起こってます。
 その背景としてあるものとして、長禄・寛正の飢饉を上げたいと思います。長禄・寛正の頃には異常気象が続き、食料を求めた難民が京の加茂川にあふれ出ます。時の将軍足利義政はこの頃には政治に倦んで、趣味に走った生活を営んでいましたが、そんな義政を天皇がいさめる場面もあったりしてかなり深刻な飢饉であったことが窺えます。

 ただ単に蜂起したいのなら、自分たちの地元で起こせばいいのに、わざわざ北方の井口に砦を築いたあたりも、食料を確保するためと考えればうなずけます。井口は乙川と矢作川に囲まれた土地で、東海道沿いにあります。荷物を渡すには難所で、河渡しのために、荷が集積されていたことでしょう。そこを襲った。確保した米は自分たちの住む村に直ぐに送ります。それは井口から彼らの在所までは矢作川支流の広田川や乙川ぞいですので船を使えば難しいことではなかったと思われます。
 井口の砦を落としたのは三河東三河の土豪の牧野出羽守と、岡崎近くに勢力を張る西郷六郎兵衛。ところが、砦を放棄した一揆衆は潜伏しながらも強盗狼藉を続けました。これは地元の土豪の中でこの行為を容認していたからです。
 時の三河守護、細川成之は潜伏した一揆勢の処置を政所執事の伊勢貞親に相談します。細川成之は名指しで伊勢貞親の被官である松平信光が一揆勢を黙認放置していることを批判し、討伐させるべく、書状を送ることを要求します。伊勢貞親はそれを容れて命令書を松平信光に下しました。
 守護の権力は三河全域に及ぶものではなく、一部は幕府の直轄で伊勢貞親にその管理が任されていたことが判ります。あと、渥美半島のある渥美郡も細川家ではなく、一色義直が分国守護として任されています。細川家が三河守護になる前は三河国守護は代々一色家が担っておりました。しかし義貫の代になって、六代将軍足利義教に粛清されています。一色氏は義教の死後に復権したものの、勢力を完全回復したわけではありませんでした。細川成之自信も、在京で元々は彼の家は阿波・讃岐の守護だったところを一色義貫の没落によって、三河守護を増やされたという事情がありました。在国の国人・土豪は所謂譜代ではなかったのです。こういう事情もあって、こと三河国においては、あまり守護の力は強くなかったようです。

 松平信光と戸田宗光は伊勢貞親の命令を受けて、一揆討伐の行動にでます。松平信光は一揆勢の大将格の一人、大庭次郎左衛門を深溝に追い詰め、息子の大炊助正則に討たせました。大炊助正則はそのまま深溝に土着し、深溝松平家の祖となります。戸田宗光も敵大将を討ち、残りの者達も駿河まで逃げた所を今川義忠に捕捉され首が京都に送られたとの事です。
 深溝は『ふこうぞ』と読み、当時そのあたりには菱池・岩堰と呼ばれる大きな湖沼があって、矢作川支流の広田川とつながり、蒲郡から三河湾に水を落としていました。松平一族はその沿岸である深溝、竹谷、形原、五井に進出します。その勢力拡張に、額田郡一揆における松平信光の活躍があったことはまず間違いのないところでしょう。

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川戦:応仁乱編⑤額田郡一揆Ⅰ

 1465年(寛正6年)、岡崎から少し北あたりの井口という在所に額田郡南部を地盤とする地侍・牢人たちが蜂起する事件が起きました。今川家の歴史を記した『今川記』に沿って経緯を説明します。彼らは砦を築き、東海道の物資輸送を寸断し、鎌倉公方足利成氏の命令と称して、年貢米を強奪しました。
これに対して三河国守護の細川成之は牧野出羽守と西郷六郎兵衛を差し向け、砦を攻略し、伊勢貞親の被官の戸田宗光と松平信光に一揆首謀者を討たせました。また、一揆勢の中には駿河まで逃げたところを今川義忠よって討たれた者もいたそうです。一連の事件は京都に報告され、叛徒たちの首は晒されたそうです。今川記に書かれているのは大体においてこんなところです。

 この事件は蜷川新右衛門尉親元という人物の日記にも記されています。親元は八代将軍足利義政の時代に政所執事を勤めた伊勢貞親に仕えておりました。執事代として、主人を補佐する立場にあり、日記を記しています。その文書を『親元日記』と言います。応仁の乱を前後して、当時の幕政のありさまを研究史料として歴史研究家に重宝されているそうです。このような幕閣中枢にいた人物の日録にあることから、この事件の存在は確かにあったものと思われます。ちなみに、ずっと昔のテレビアニメ一休さんで足利義満側近の『新右衛門さん』という若侍はこの人物の父親がモデルで、一休宗純との親交があったそうです。(もっともその親交はずっと後年のことであり、アニメは相当脚色された設定らしいのですけどね)
 親元日記には松平信光と戸田宗光が一揆鎮圧に参加した経緯についての記述があります。

 三河国守護の細川成之は牧野出羽守と西郷六郎兵衛を差し向け、砦を攻略したものの、今度は砦に拠らず、なお略奪と狼藉を繰り返しておりました。地元の土豪である松平信光の親族が匿っているらしく、埒が明かない状況になっていたようです。その近辺は将軍の直轄地であり、守護といえどもおいそれと手出しはできません。戸田と松平の背後には政所執事伊勢貞親がいました。戸田氏当主戸田宗光、松平氏当主松平信光は伊勢貞親の被官、平たく言うと主従関係の立場です。そこで守護の細川成之は伊勢貞親に相談し、松平信光と戸田宗光に命じて一揆首謀者を討たせる書状を書きました。

 その背景について考察してみます。
 今川記には、『地侍・牢人たちが鎌倉公方足利成氏の命令で蜂起した』と書かれているそうですが、親元日記にはそこまで踏み込んだ記述はありません。確かに京都の将軍と鎌倉公方は非常に仲が悪く、しばしば軍事衝突を起こしていました。ここで名前が出されている足利成氏は、永享の乱で足利将軍家に討たれた足利持氏の遺児です。成氏は一度潰された鎌倉公方の再興に生涯を捧げますが、関東管領や幕府が送り込んだ新たな鎌倉公方(堀越公方)との戦いにあけくれ、結局は決着がつかずじまいでした。
 この反乱が成氏の鎌倉公方再興活動の余波である可能性は捨てきれるものではありません。でも、三河国と足利成氏が拠点とした下総国古河はあまりにも離れ過ぎています。確かに蜂起した地侍・牢人たちは北関東の出自が多く、足利氏との関係もありますが、だからと言って主従関係があるとまでは認められません。関係性は希薄といっていいでしょう。事件の直ぐ後に応仁の乱が発生し、日本中が戦乱のカオスに叩き込まれますが、この事件そのものは幕府や守護が上手く処理して封じ込めたといっていいでしょう。逆に言うと、連動した動きはなく、この事件は単発な物にしか見えないということです。
 一揆側の行動にもあまり計画性が見られません。この一揆に参加した者達の名前として、丸山・大庭・高力・梁田・黒柳・片山・芦谷・尾尻などの名前が上がっています。彼らは額田郡南部、地図でいうところの額田郡幸田町周辺あたりを地盤とする地侍たちです。そのあたりには当時菱池(岩堰)と呼ばれる湖沼があり、彼らが川の民である可能性を探りました。でも、中には古くから土着している一族もいて地縁以外に彼らを結びつけるものを提示はできない状況です。
 反乱の発生から鎮圧まで、その経緯はあまりにも計画性がないと言わざるをえません。

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2008年1月22日 (火)

川戦:応仁乱編④流路の考察

 今回は少し余談をしてみたいと思います。本稿、『川の戦国史』は川の視点から戦国時代の歴史を眺めることをコンセプトにしています。また、歴史を語る上で血縁と同時に重要な要素は地縁です。だから、本館から地図にアクセスできるようにしてあるのですが、ここで見落としがちなことを指摘しておきましょう。

 ぶっちゃけて言うと、川は流路をしばしば変えるということです。現代は矢作川クラスの一級河川には両岸に堤防が築かれ、洪水も起きにくくなっています。でも、一度台風が襲えば堤防が決壊し、あたり一面床上浸水になるということも稀ではありますが、起き得ます。
 現代にしてそうなのです。500年も昔であれば、洪水はしょっちゅう起こっていたでしょうし、川の流路も頻繁に変わっていたに違いありません。また、時の為政者は治水のために運河を掘り、人為的に流路を変えるということもしておりました。湿地を埋め立て田畑にするとかとの取り組みは様々です。本稿で紹介してきた川の民もまた、ある程度の治水技術を持っていたに違いありません。でなければ、しばしば洪水を起こす川に生活基盤を置こうとする訳はないと思います。

①矢作古川(矢作川の流路)
 まず、矢作川の流路についてです。矢作川の現在の河口は碧南市と西尾市の南端ですが、戦国時代においては吉良町と一色町の境にありました。中流の志貴野町までは同じでしたが、そこから南に下っていたのです。吉良町と一色町及びその流域の人々は洪水に悩まされていました。そこで江戸時代になって、志貴野町から米津までの水路を掘割り、碧南市の方へ流路を分散することになったのです。それ以後、碧南市の河口に注ぐ方を矢作川と称するようになり、吉良・一色両町の方へ流れる流路は矢作古川と呼ばれるようになりました。

②油ヶ淵の地形
 その碧南市の地形ですが、海岸線はもっと手前でした。碧南市北側にある油ヶ淵の東岸が海と繋がった入江となっていたそうです。大体『つ』の字を左右反対にしたような形と想ってください。油ヶ淵というと、上宮寺如光の出身地で蓮如もここに滞在して、いくつか寺を建てた場所ですね。戦国時代は沼沿いの寺ではなく、海に面した寺だったということです。
 それが江戸時代に矢作川の流路を変えた影響によって、矢作川の膨大な水量が米津から碧南に落ちました。その結果、土砂も流れてきました。
 油ヶ淵には矢作川の他に北岸の川に繋がっているのですが、東岸が流量豊富な矢作川と接続したことによって、この川の水が海に落ちずに逆流するようになったわけです。そこで、入江の口を堤を築いて塞ぎ、油ヶ淵は入江ではなく沼になりました。但し、入江の口を塞いだからといって逆流が止まっただけで、沼の水が海に落ちるようになったわけではありません。そこで、西岸に運河を掘って西側に流れる緒川河口に落とすようになり、現在の地形となったそうです。

④妙覚池
 戦国時代、佐々木上宮寺のあるあたりには妙覚池と呼ばれる池があったそうです。位置的には矢作川の蛇行によって生まれた三日月湖のようですね。支流から矢作川に注ぐ水の調整池としても機能したそうですが、江戸時代の初めにはなくなったそうです。このことは上宮寺もまた、川の交通の一つの中継地として機能していたことの傍証となるように思えます。

⑤菱池・新堰
 矢作古川の流れよりも東側。現在の幸田町あたりに大きな池がありました。この池を貫通して広田川が三河湾沿いの蒲郡と矢作古川に注ぎ込み、支流は岡崎あたりからこの広田川に流れてきています。この菱池の南側から蒲郡にかけて、深溝、竹谷、形原という在所があるのですが、ここに信光の代になってから松平一族が進出することになります。ここも、明治になって干拓されて、池そのものはなくなりました。現在は地名にその痕跡を残すのみです。

 以上、現在の地図をみながら戦国時代を考察するに当たり、補正する必要のある情報を列挙しました。その地形の変動に今更ながらに驚かされます。

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2008年1月17日 (木)

川戦:応仁乱編③応仁の乱への道程:三河の視点

 前稿では京都を中心とした視点で室町幕府の成立から応仁の乱に至る流れを見てきました。本稿では、三河国の個別事情を追います。三河の国は多少事情を異にしています。ここは鎌倉時代から足利一族の根拠地だったということです。足利一族の本願地は下野国足利ですが、鎌倉幕府の北条政権は足利一族を源氏に連なる有力御家人の一つとして遇し、三河国を与えました。故に、三河の土豪・国人は下野国に本願地を持つ一族が多いのです。
 足利尊氏が京に幕府を開いて以降、一色氏が三河国守護に任じられます。一色氏は三管四職の一角、足利幕府の柱石をなす家格と位置づけられました。ちなみに、三管とは細川、斯波、畠山の管領を出した家柄で、四職は赤松、一色、山名、京極の四氏で、管領家に次ぐ家格とされました。

 この一色家も他聞に漏れず、三ヶ国の守護を兼ね、三河国はその一つに過ぎませんでした。そして、国の経営は守護代を務めた吉良氏や西郷氏に委ね、京で国家運営に注力していたわけです。
 足利義教が室町殿の権力確立のためにとった手段は、有力守護の弾圧であり、時の一色家当主の一色義貫は、室町殿の命令により、大和への出陣中、突如誅殺の憂き目にあったのです。室町殿と対立していた鎌倉公方足利持氏に与したという疑いからでした。そして、三河国守護を一色家から奪い、讃岐細川家の持常に与えました。ここで足利義教は三河国にある直轄地に何か工作をしたようです。(それが何七日については後述します)それは恐らく、日本という国を室町殿が完全に掌握するために義教が取った数多くの政策の一つでしかなかったでしょう。しかし、それが後の三河国の動向に大きく影響した節があるのです。いずれにせよ、足利義教はそれから間もなく横死し、その政策の多くは完遂を見ずに終わりました。
 その後、一色氏による復権運動が始まります。義教を継いだ義勝(継承後間もなく事故死)、義政は幼少でしたので有力御家人の後援なくしては政治ができませんでした。その有力御家人が義教の恐怖政治に積極的に関与していたわけではありません。むしろ、彼らの利権に介入してくる義教のやり口には内心反発していたことは想像に難くありません。それゆえ、一色家を継いだ一色義直の訴えに有力御家人達は耳を傾け、復権は果たされました。但し、三河国については管領家の分家筋の細川持常が守護になっていたこともあり、満額回答とはいきませんでした。復権運動によって一色義直が得ることができたのは三河国渥美郡のみでした。三河渥美分国守護という半端な肩書きです。一色義直にとっては納得のゆかない決着でした。
 そして、細川持常は元々讃岐国と阿波国守護であり、三河国を掌握していたわけではありません。彼と彼の後を継いだ細川成之は讃岐国と阿波国とを治めながら三河国守護職の任を在京して果たしていたわけです。
 当然、実質的な統治は旧主である一色家に服していた守護代、国人、土豪たちに委ねざるを得ません。細川氏の三河国における基盤は脆弱なものでした。
 そしてもう一つ、三河国には室町殿の直轄地がありました。ここは守護でもおいそれと手出しのできない場所です。そしてここを治めたのが室町殿の側近衆でした。彼らは三管四職を頂点とする有力御家人の家格の序列とは関係なく抜擢された人々です。豊臣政権における五大老(自力で勢力を築いた戦国大名)と五奉行(秀吉に抜擢された側近衆)に近いものだと思います。義政の代に政所執事を務めた伊勢貞親は源氏の一族ではなく、三管四職に連なるものではありません。平維衡を祖とする桓武平氏の末裔でした。
 彼は一色義貫が粛清された後の三河国の侵攻の土豪を被官化し、必要とあれば国外から呼び寄せました。前者は松平信光であり、後者は戸田宗光です。どうも彼には三河国に室町殿直属の軍団を作りたかったのではないかと思う節があるのですね。そして、その流れに本願寺教団が乗っていた可能性が高いと私は考えています。これが前稿で述べた仮説であるのですが、伊勢貞親は日野勝光と同じく、蓮如とのつながりを有していました。それについては別稿でのべます。
 応仁の乱を控えて三河国には三つの勢力が存在していました。一つは守護である細川成之の勢力。一つは復権を完遂すべく運動している一色義直。そして、室町殿の力を背景に新興の土豪勢力を纏め上げようとした伊勢貞親を代表する室町殿の側近団。三者のそれぞれの思惑が錯綜し、応仁乱で暴発した結果、新たな秩序が構築されました。本編ではその経緯について語りたいと思います。

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2008年1月15日 (火)

川戦:応仁乱編②応仁の乱への道程:京の視点Ⅱ

 南朝を降伏させ、山名氏清や鎌倉公方などの実力者を排した足利義満が最終的に目指したのは天皇位の簒奪だったと、今谷明氏以下歴史学者は説を立てられております。結果としては失敗に帰し、後を継いだ足利義持は有力御家人との協調路線をとりました。口の悪い研究者は『傀儡』と呼ぶこともありますが、実相はどちらも正しいということだと思います。有力御家人は評定衆を組織し、ここの決定には室町殿(足利家惣領を指し、将軍とほぼ同義。以下この用語を使います)といえども逆らえない状況でした。将軍と室町殿の違いを少し説明します。足利義持は嫡男義量を将軍位につけたものの早世したため、自ら将軍位に復位していました。義量が将軍であった間も、惣領である室町殿は義持です。義持が将軍であった時代も、義満が生きている間は義満が室町殿であり、決定権は将軍よりも室町殿にありました。これが、室町殿と将軍との違いです。権力の源泉がどこにあるかという視点でみるなら、将軍としてみるよりは室町殿に着目した方が妥当との歴史学者からの提唱で、現在では『室町殿』を中心に室町時代の歴史を見ることになっています。

 彼は死の床にあって自らの後継を定めませんでした。義持に子供はいませんが、何人かの弟がいました。いずれも、宗家を脅かさないように仏門に入れておりましたが、彼らのうちの誰かに義持の後を継いでもらわないと室町幕府が瓦解してしまいます。義持は生前に定めても評定衆の同意が無くては意味が無いという理由で後継を定めませんでした。定めて拒否されれば、もしくは後になって掌を返されれれば室町殿の権威は地に落ちます。そこまで室町殿の力は有力御家人に蚕食されていたということですね。消極的ではありますが、義持の判断は英慮と言えるでしょう。それに応えて室町殿の権威回復に立ち上がったのが、後を継いだ義教です。彼は有力御家人を次々と粛清し、自分の言うことを聞く当主に首をすげ替えてゆきました。これが完遂していれば、立派な中央集権国家が完成していたかもしれません。しかし、義教は志半ばにして赤松満祐の手によって横死してしまったのです。
 一応、足利義教を暗殺した赤松満祐は誅伐されたものの、体制は義持の時代の形に戻りました。、い室町殿と御家人の協調(傀儡)体制です。さりながら、義教が定めた相続のルールについては問題があまりにも微妙なため、大きく歪に歪んだままだったのです。
 この改革とその後始末の不徹底さは後にあまりにも大きな禍根を残しました。
 義教は有力御家人を潰した後に、その弟や分家を一族の惣領にすえました。そのままゆけば、前当主の嫡男は分家扱いという形でおさまるべきところにおさまるのですが、義教の横死でその決着がつかず仕舞いに成ってしまったのです。現代に例えるならば、小泉チルドレンと福田自民党執行部との対立に似ているかもしれません。
 後ろ盾を失った現当主と前当主の嫡男・旧本家筋との対立は修復不能に陥り、応仁・文明の乱にいたるわけです。
 尚、この一連の動きの全ては京で起こっていることであり、彼らが治めるべき領地の行方は京の動きで定められることでした。多くの有力御家人は複数の国の守護を兼ね、京都に在住していました。地元は自らの被官(多くは地元出身の国人)に治めさせていたのです。この状況が結局のところ、御家人達の首を絞めてゆくわけですね。
 京都を中心とした応仁の乱へといたる背景はこんなところです。次稿で三河国個別の事情について触れさせていただきます。

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2008年1月10日 (木)

川戦:応仁乱編②応仁の乱への道程:京の視点Ⅰ

 本稿では歴史の教科書に書いてあることからおさらいします。
 室町時代の最高権力者は室町将軍。室町殿と呼ばれる足利家の惣領でした。その配下で日本六十余州に守護と呼ばれる統治者を置きました。守護を最初に置いたのは鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝でした。かれは謀反を起こした弟、源義経を追い詰めるために、朝廷と掛け合って日本中に警察署長兼軍事司令官を置いたのです。鎌倉時代にあっては守護の財政基盤も弱かったのですね。それは日本の農地の大半が朝廷もしくは貴族の持つ荘園だったからです。鎌倉幕府の御家人の所領はもともとは荘園の管理者や武装開拓民が自立し、本来朝廷や貴族に治めるべき収穫を横領して、武家の棟梁の庇護を求めたところに始めます。武家の棟梁は源氏や平家の貴種の子孫が担当します。棟梁は横領した土地を守ってやること(これを本領安堵といいます)と引き替えに兵役を課しました。御家人の所領は基本的に在所単位だったので、できることも限られておりました。
 これが足利尊氏が半済の法という方針を出すに当たって様相が変わります。これはぶっちゃけて言うと、室町幕府が御家人に荘園収奪を公認したようなものでした。つまり荘園や国衙領から上がる税の半分を武家の取り分と決めたのです。当時の状況は天皇家が二つに割れた内乱時代でした。足利尊氏は南朝勢力と対立していましたから、南朝の皇族・貴族の荘園は切り取り放題。北朝の天皇も武家の支援無しには立ち行かない状況だったので黙認せざるを得ない状況でした。内乱は続き兵員は不足します。そこで、バラバラだった中小の御家人をそれぞれの国の守護の家臣とし、大規模動員を可能にしました。
 それだけなら支配権の強化でいいのですが、天皇家の分裂だけではなく、足利家も二つに割れて混乱を拍車がかかったから、守護の権力拡張に歯止めがかからなくなってしまったのです。
 観応の擾乱という事件なのですが、足利尊氏には直義というキレ者の弟がいました。自ら進んで汚れ役を買って出て、優柔不断な気がある兄の尻を叩いて将軍職につけ、初期の政務を取り仕切っていたのが彼でした。しかし、惜しむらくは彼は政治家としての資質はあったのですが、武人としてのそれにはあまり恵まれておりませんでした。その穴を埋めたのが足利尊氏の執事、高師直です。このあたりの歴史は実に面白く、語るときりがないのでばっさりはしょりますが、足利尊氏、直義、高師直の三者が壮絶な潰しあいをして、足利尊氏が最終的な勝利者になり、息子の義詮に将軍の座を譲りって死にました。この間も南朝との戦いは続いており、バトルロワイヤルの様相を呈した内乱時代でした。この内乱を収めたのが京都室町に自らの御所を拓いた三代将軍足利義満です。その間、山名氏清のような有力御家人は対立する勢力の間をたくみに泳ぎ抜き、結果として山名一族が十一カ国の守護を兼務することになっております。当時の日本国が六十六州からなっていることから、山名氏は六分の一殿という別称を得たそうです。ただし、それも足利宗家が強力な敵に対面している間のことした。『狡兎死して走狗煮らる』という諺にもあるとおり、南朝を降した返す刀で、足利義満は山名氏清を滅ぼしました。

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2008年1月 8日 (火)

川戦:応仁乱編①プロローグ

 前編で信光までやってしまうつもりだったのですが、後から知った興味深いエピソードも多く取り入れたため、予定をオーバーしてしまいました。
 本稿では信光の生涯を同時代を生きた蓮如・如光・石川政康の行動とからめて独立稿としてやる予定だったのですが、少し構想を広げて彼らの生涯の中で最も大きな事件であった応仁の乱に絡め、彼らにとっての応仁の乱とはどのようなものだったのかを記してゆきたいと思います。尚、本編ではかなり大胆な仮説を取り上げていますが、仮説の重要な部分で依拠している史料は少し弱いものであり、矛盾する史料、反証に足る史料も少なからず存在しています。その全てを徳川史観の隠蔽のせいにするつもりはありません。今後の精査・勉強で少しずつ補強してゆくつもりです。現段階ではある種の思考実験として見ていただければ幸いです。
 取り扱う事件は下記の通り少し幅が広いものですが、応仁の乱に繋がるように書いてゆきたいと思います。

1404年(応永十一年)松平信光生誕。
1440年(永享十二年)三河国守護、一色義貫が足利義教に謀殺される。
          細川持常、三河国守護になる。
          松平信光、萬松寺(臨済宗)創建。
1449年(宝徳 元年)三河国守護、細川持常没、養子の成之継承。
1451年(宝徳 三年)松平信光、信光明寺(浄土宗)創建。
1460年(寛正 元年)伊勢貞親、室町幕府政所執事になる。
1461年(寛正 二年)松平信光、妙心寺(浄土宗)創建。
1465年(寛正 六年)額田郡一揆。5月26日付で伊勢貞親から信光へ出陣要請が届く。
1466年(文正 元年)文正の政変。伊勢貞親、失脚して近江に追放される。
1467年(応仁 元年)1月、応仁の乱。
          西条吉良義真(東軍)、東条吉良義藤(西軍)三河下向。一色義直も?
          3月 延暦寺と和議、蓮如の隠居と長男・順如の廃嫡が盛り込まれる。
          応仁の井田野合戦?。
1468年(応仁 二年)蓮如、三河国土呂に本宗寺建立。上宮寺住持、如光没。
1471年(文明 三年)松平信光、安祥を奪取。その後、岡崎に入り、西郷氏を大草へ追いやる。
1476年(文明 八年)東軍方守護代東条吉良国氏、一色義直により自害に追い込まれる。
          西軍、一色某を守護に任ずる。東西で守護分立。
1478年(文明 十年)一色義直、三河を放棄。東条吉良義藤、出奔?
1479年(文明十一年)信光明寺、勅願所となる。
1481年(文明十三年)妙心寺、勅願所となる。松平信光、願文を妙心寺に奉納する。
1484年(文明十六年)如光の十七回忌。蓮如、如光弟子帳を作成する。
1486年(文明十八年)3月 石川政康死去。
          7月 松平信光、願文を信光明寺に奉納する。
1488年(長享 ニ年)信光没。

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