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2008年1月29日 (火)

川戦:応仁乱編⑥伊勢貞親

 額田郡一揆は守護である細川成之が解決できなかった問題を、伊勢貞親が解決したという形で幕を下ろしました。そこで松平信光に一揆討伐を命じた伊勢貞親について考察してみます。

 室町将軍には二つの政治姿勢がありました。足利尊氏が幕府を作って以来、ずっと悩まされ続けていた問題でした。それは鎌倉の源氏三代や北条家滅亡の原因であり、徳川家康が中国から朱子学思想を輸入するという最終的な解決を図るまでずっとついて回った問題です。それは即ち、武士団の主従というのは一種の同盟関係であって、中国の皇帝のような絶対権力をふるえる環境では必ずしもないということです。武士団が小さなうちはそれで十分でしたが、これが全国規模になると必ずし上手くゆきません。命令が末端に行き届かなくなるのです。将軍は分割した職分を掌握する有力者の同意を取り付けないと何も出来なくなるわけです。
 それを解決するために、歴代将軍は二つの方針をとりました。一つは三代将軍足利義満や六代義教が指向した強い将軍権力を目指すというやり方です。有力な守護大名は挑発して反乱を起こさしめて、粛清する。これによって相対的な将軍権力の拡大を図るやり方です。義教はより過激な策にでます。将軍権力をもって、慣行となっていた嫡子相続を敢えて無視したのです。有力守護の一族の者を引き立て、自分に忠実な者を守護にすえたのです。もちろん元の当主は反発しますが、それを口実に討伐したり、時に暗殺を謀ったりしました。三河守護だった一色義貫もこの犠牲になったわけです。この策は非常に有効でした。守護大名家は家内で二派に分かれて対立し、競って将軍のご機嫌を取るようになりました。ただ、このやり方は将軍に非常の器量を要求されます。現に義教は最終的に失敗し、播磨の国守護の赤松満祐に暗殺されてしまったのです。
 もう一つのやり方は傀儡に甘んじて有力守護に全てを委ねるやり方です。四代足利義持など、多くの将軍がこのやり方を取りました。というより、当時の政局でそうならざるを得なかったというのが実相でしょう。内部牽制がきちんと働く間はなんとか上手く治められるようです。ただこのやり方を放置すると六分の一殿と呼ばれた山名氏清などの将軍を凌ぎかねない力を持った有力守護が現れたりして、室町幕府そのものの存続を揺るがすことにすらなりますので、運営は常に綱渡りでした。

 八代将軍義政も例に洩れず、後者のパターンです。伊勢貞親は将軍の養育係となり、そのまま側近として義政の政策スタッフとして、政所執事の職につきます。山名宗全や細川勝元などと渡り合い、綱渡り的な政治運営をこなしました。
 山名宗全や細川勝元は三管四職の名門家であり、分権指向でした。桓武平氏の出である伊勢貞親が彼らに伍して権力を振るうには将軍の後ろ盾を必要とします。その結果、彼の立場で指向したのは足利義満・義教的な将軍権力を強化する方向性でした。

 寛正の額田郡一揆の翌年、伊勢貞親は斯波氏の相続争いに介入します。斯波氏は尾張・越前・遠江の三ヶ国の守護で、時の当主は斯波義廉でした。そこに罪を得て周防に流されていた前当主の義敏を復権させようと伊勢貞親は工作しました。しかし、斯波義廉は山名宗全を頼って巻き返しを図り、管領の細川勝元の支持も得て伊勢貞親の排斥を訴えます。その結果、伊勢貞親は追放されるに至りました。これを文正の政変といいます。そして、今度は将軍家後継をめぐって山名宗全と細川勝元が対立して応仁の乱へと至るわけです。応仁の乱が始まると足利義政は伊勢貞親を京に呼び戻し、貞親は細川勝元の東軍派として行動をとっています。

 この流れをもって額田郡一揆を考察するなら、結構面白い結論が出るような気がします。この一揆を鎮圧したのは、戸田宗光と松平信光の二人でともに伊勢貞親の被官です。三河守護細川成之は一揆の討伐を試みましたが、単独では制圧に失敗したと言わざるを得ません。そして相談の結果、伊勢貞親の命令で戸田と松平が動き、実効的な解決が図られた。その功名は伊勢貞親にもたらされたといえるでしょう。その結果、松平信光は岩津の他に、深溝はじめ矢作川・広田川沿いの各所に進出し、戸田宗光は知多半島の河和・富貴を領するに至ります。つまり、伊勢貞親の命令でしか動かない被官が三河国において、大きく勢力を伸ばしたということですね。これは想像ですが、一揆勢が鎌倉公方足利成氏の命令を奉じたというのはこの二氏に褒賞を与えるための口実であったのかもしれません。三河を挟む二ヶ国、尾張と遠江の守護であった斯波氏に対する牽制として、ここに自らの勢力の扶植を図った。一揆をマッチポンプとは言いませんが、偶発的に起こった事件を自分の勢力拡大に利用したというのはありそうだと思います。

 最後に、牽強付会な説をぶち上げて本稿の締めといたします。
 色々な意味で伊勢貞親は面白いポジションにいる政治家でした。彼の一族に後に日本最初の戦国大名となる伊勢宗瑞(北条早雲)がいます。そして、蓮如とも関係を持っています。蓮如は生涯に五人の妻を持ちましたが、そのうちの第一夫人と第二夫人であった如了と蓮祐は伊勢氏の出身でした。松平益親を被官とした日野裏松家(おそらくは勝光)と同様、松平信光を被官とした伊勢貞親。彼らが蓮如と縁故のある人物であるということは、松平家と蓮如との間に何らかの関係があるということを示唆しているのかもしれません。そして、額田郡一揆から三年経った応仁二年に、蓮如が三河に下向するのです。

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