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2008年1月10日 (木)

川戦:応仁乱編②応仁の乱への道程:京の視点Ⅰ

 本稿では歴史の教科書に書いてあることからおさらいします。
 室町時代の最高権力者は室町将軍。室町殿と呼ばれる足利家の惣領でした。その配下で日本六十余州に守護と呼ばれる統治者を置きました。守護を最初に置いたのは鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝でした。かれは謀反を起こした弟、源義経を追い詰めるために、朝廷と掛け合って日本中に警察署長兼軍事司令官を置いたのです。鎌倉時代にあっては守護の財政基盤も弱かったのですね。それは日本の農地の大半が朝廷もしくは貴族の持つ荘園だったからです。鎌倉幕府の御家人の所領はもともとは荘園の管理者や武装開拓民が自立し、本来朝廷や貴族に治めるべき収穫を横領して、武家の棟梁の庇護を求めたところに始めます。武家の棟梁は源氏や平家の貴種の子孫が担当します。棟梁は横領した土地を守ってやること(これを本領安堵といいます)と引き替えに兵役を課しました。御家人の所領は基本的に在所単位だったので、できることも限られておりました。
 これが足利尊氏が半済の法という方針を出すに当たって様相が変わります。これはぶっちゃけて言うと、室町幕府が御家人に荘園収奪を公認したようなものでした。つまり荘園や国衙領から上がる税の半分を武家の取り分と決めたのです。当時の状況は天皇家が二つに割れた内乱時代でした。足利尊氏は南朝勢力と対立していましたから、南朝の皇族・貴族の荘園は切り取り放題。北朝の天皇も武家の支援無しには立ち行かない状況だったので黙認せざるを得ない状況でした。内乱は続き兵員は不足します。そこで、バラバラだった中小の御家人をそれぞれの国の守護の家臣とし、大規模動員を可能にしました。
 それだけなら支配権の強化でいいのですが、天皇家の分裂だけではなく、足利家も二つに割れて混乱を拍車がかかったから、守護の権力拡張に歯止めがかからなくなってしまったのです。
 観応の擾乱という事件なのですが、足利尊氏には直義というキレ者の弟がいました。自ら進んで汚れ役を買って出て、優柔不断な気がある兄の尻を叩いて将軍職につけ、初期の政務を取り仕切っていたのが彼でした。しかし、惜しむらくは彼は政治家としての資質はあったのですが、武人としてのそれにはあまり恵まれておりませんでした。その穴を埋めたのが足利尊氏の執事、高師直です。このあたりの歴史は実に面白く、語るときりがないのでばっさりはしょりますが、足利尊氏、直義、高師直の三者が壮絶な潰しあいをして、足利尊氏が最終的な勝利者になり、息子の義詮に将軍の座を譲りって死にました。この間も南朝との戦いは続いており、バトルロワイヤルの様相を呈した内乱時代でした。この内乱を収めたのが京都室町に自らの御所を拓いた三代将軍足利義満です。その間、山名氏清のような有力御家人は対立する勢力の間をたくみに泳ぎ抜き、結果として山名一族が十一カ国の守護を兼務することになっております。当時の日本国が六十六州からなっていることから、山名氏は六分の一殿という別称を得たそうです。ただし、それも足利宗家が強力な敵に対面している間のことした。『狡兎死して走狗煮らる』という諺にもあるとおり、南朝を降した返す刀で、足利義満は山名氏清を滅ぼしました。

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