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2008年1月22日 (火)

川戦:応仁乱編④流路の考察

 今回は少し余談をしてみたいと思います。本稿、『川の戦国史』は川の視点から戦国時代の歴史を眺めることをコンセプトにしています。また、歴史を語る上で血縁と同時に重要な要素は地縁です。だから、本館から地図にアクセスできるようにしてあるのですが、ここで見落としがちなことを指摘しておきましょう。

 ぶっちゃけて言うと、川は流路をしばしば変えるということです。現代は矢作川クラスの一級河川には両岸に堤防が築かれ、洪水も起きにくくなっています。でも、一度台風が襲えば堤防が決壊し、あたり一面床上浸水になるということも稀ではありますが、起き得ます。
 現代にしてそうなのです。500年も昔であれば、洪水はしょっちゅう起こっていたでしょうし、川の流路も頻繁に変わっていたに違いありません。また、時の為政者は治水のために運河を掘り、人為的に流路を変えるということもしておりました。湿地を埋め立て田畑にするとかとの取り組みは様々です。本稿で紹介してきた川の民もまた、ある程度の治水技術を持っていたに違いありません。でなければ、しばしば洪水を起こす川に生活基盤を置こうとする訳はないと思います。

①矢作古川(矢作川の流路)
 まず、矢作川の流路についてです。矢作川の現在の河口は碧南市と西尾市の南端ですが、戦国時代においては吉良町と一色町の境にありました。中流の志貴野町までは同じでしたが、そこから南に下っていたのです。吉良町と一色町及びその流域の人々は洪水に悩まされていました。そこで江戸時代になって、志貴野町から米津までの水路を掘割り、碧南市の方へ流路を分散することになったのです。それ以後、碧南市の河口に注ぐ方を矢作川と称するようになり、吉良・一色両町の方へ流れる流路は矢作古川と呼ばれるようになりました。

②油ヶ淵の地形
 その碧南市の地形ですが、海岸線はもっと手前でした。碧南市北側にある油ヶ淵の東岸が海と繋がった入江となっていたそうです。大体『つ』の字を左右反対にしたような形と想ってください。油ヶ淵というと、上宮寺如光の出身地で蓮如もここに滞在して、いくつか寺を建てた場所ですね。戦国時代は沼沿いの寺ではなく、海に面した寺だったということです。
 それが江戸時代に矢作川の流路を変えた影響によって、矢作川の膨大な水量が米津から碧南に落ちました。その結果、土砂も流れてきました。
 油ヶ淵には矢作川の他に北岸の川に繋がっているのですが、東岸が流量豊富な矢作川と接続したことによって、この川の水が海に落ちずに逆流するようになったわけです。そこで、入江の口を堤を築いて塞ぎ、油ヶ淵は入江ではなく沼になりました。但し、入江の口を塞いだからといって逆流が止まっただけで、沼の水が海に落ちるようになったわけではありません。そこで、西岸に運河を掘って西側に流れる緒川河口に落とすようになり、現在の地形となったそうです。

④妙覚池
 戦国時代、佐々木上宮寺のあるあたりには妙覚池と呼ばれる池があったそうです。位置的には矢作川の蛇行によって生まれた三日月湖のようですね。支流から矢作川に注ぐ水の調整池としても機能したそうですが、江戸時代の初めにはなくなったそうです。このことは上宮寺もまた、川の交通の一つの中継地として機能していたことの傍証となるように思えます。

⑤菱池・新堰
 矢作古川の流れよりも東側。現在の幸田町あたりに大きな池がありました。この池を貫通して広田川が三河湾沿いの蒲郡と矢作古川に注ぎ込み、支流は岡崎あたりからこの広田川に流れてきています。この菱池の南側から蒲郡にかけて、深溝、竹谷、形原という在所があるのですが、ここに信光の代になってから松平一族が進出することになります。ここも、明治になって干拓されて、池そのものはなくなりました。現在は地名にその痕跡を残すのみです。

 以上、現在の地図をみながら戦国時代を考察するに当たり、補正する必要のある情報を列挙しました。その地形の変動に今更ながらに驚かされます。

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