川戦:応仁乱編①プロローグ
前編で信光までやってしまうつもりだったのですが、後から知った興味深いエピソードも多く取り入れたため、予定をオーバーしてしまいました。
本稿では信光の生涯を同時代を生きた蓮如・如光・石川政康の行動とからめて独立稿としてやる予定だったのですが、少し構想を広げて彼らの生涯の中で最も大きな事件であった応仁の乱に絡め、彼らにとっての応仁の乱とはどのようなものだったのかを記してゆきたいと思います。尚、本編ではかなり大胆な仮説を取り上げていますが、仮説の重要な部分で依拠している史料は少し弱いものであり、矛盾する史料、反証に足る史料も少なからず存在しています。その全てを徳川史観の隠蔽のせいにするつもりはありません。今後の精査・勉強で少しずつ補強してゆくつもりです。現段階ではある種の思考実験として見ていただければ幸いです。
取り扱う事件は下記の通り少し幅が広いものですが、応仁の乱に繋がるように書いてゆきたいと思います。
1404年(応永十一年)松平信光生誕。
1440年(永享十二年)三河国守護、一色義貫が足利義教に謀殺される。
細川持常、三河国守護になる。
松平信光、萬松寺(臨済宗)創建。
1449年(宝徳 元年)三河国守護、細川持常没、養子の成之継承。
1451年(宝徳 三年)松平信光、信光明寺(浄土宗)創建。
1460年(寛正 元年)伊勢貞親、室町幕府政所執事になる。
1461年(寛正 二年)松平信光、妙心寺(浄土宗)創建。
1465年(寛正 六年)額田郡一揆。5月26日付で伊勢貞親から信光へ出陣要請が届く。
1466年(文正 元年)文正の政変。伊勢貞親、失脚して近江に追放される。
1467年(応仁 元年)1月、応仁の乱。
西条吉良義真(東軍)、東条吉良義藤(西軍)三河下向。一色義直も?
3月 延暦寺と和議、蓮如の隠居と長男・順如の廃嫡が盛り込まれる。
応仁の井田野合戦?。
1468年(応仁 二年)蓮如、三河国土呂に本宗寺建立。上宮寺住持、如光没。
1471年(文明 三年)松平信光、安祥を奪取。その後、岡崎に入り、西郷氏を大草へ追いやる。
1476年(文明 八年)東軍方守護代東条吉良国氏、一色義直により自害に追い込まれる。
西軍、一色某を守護に任ずる。東西で守護分立。
1478年(文明 十年)一色義直、三河を放棄。東条吉良義藤、出奔?
1479年(文明十一年)信光明寺、勅願所となる。
1481年(文明十三年)妙心寺、勅願所となる。松平信光、願文を妙心寺に奉納する。
1484年(文明十六年)如光の十七回忌。蓮如、如光弟子帳を作成する。
1486年(文明十八年)3月 石川政康死去。
7月 松平信光、願文を信光明寺に奉納する。
1488年(長享 ニ年)信光没。
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