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2008年1月24日 (木)

川戦:応仁乱編⑤額田郡一揆Ⅱ

 一揆のあった1465年(寛正6年)には蓮如の大谷本願寺が比叡山延暦寺の僧たちによって破却され、近江国金森に落ち延びた蓮如を匿った一揆衆が延暦寺の僧兵と戦ったりしています。また、その4年前には江北の菅浦での擾乱によって、松平益親がその調停に手兵を送り込んだりしています。要するにこのあたりの時代はかなり乱れているのですね。事件が立て続けに起こってます。
 その背景としてあるものとして、長禄・寛正の飢饉を上げたいと思います。長禄・寛正の頃には異常気象が続き、食料を求めた難民が京の加茂川にあふれ出ます。時の将軍足利義政はこの頃には政治に倦んで、趣味に走った生活を営んでいましたが、そんな義政を天皇がいさめる場面もあったりしてかなり深刻な飢饉であったことが窺えます。

 ただ単に蜂起したいのなら、自分たちの地元で起こせばいいのに、わざわざ北方の井口に砦を築いたあたりも、食料を確保するためと考えればうなずけます。井口は乙川と矢作川に囲まれた土地で、東海道沿いにあります。荷物を渡すには難所で、河渡しのために、荷が集積されていたことでしょう。そこを襲った。確保した米は自分たちの住む村に直ぐに送ります。それは井口から彼らの在所までは矢作川支流の広田川や乙川ぞいですので船を使えば難しいことではなかったと思われます。
 井口の砦を落としたのは三河東三河の土豪の牧野出羽守と、岡崎近くに勢力を張る西郷六郎兵衛。ところが、砦を放棄した一揆衆は潜伏しながらも強盗狼藉を続けました。これは地元の土豪の中でこの行為を容認していたからです。
 時の三河守護、細川成之は潜伏した一揆勢の処置を政所執事の伊勢貞親に相談します。細川成之は名指しで伊勢貞親の被官である松平信光が一揆勢を黙認放置していることを批判し、討伐させるべく、書状を送ることを要求します。伊勢貞親はそれを容れて命令書を松平信光に下しました。
 守護の権力は三河全域に及ぶものではなく、一部は幕府の直轄で伊勢貞親にその管理が任されていたことが判ります。あと、渥美半島のある渥美郡も細川家ではなく、一色義直が分国守護として任されています。細川家が三河守護になる前は三河国守護は代々一色家が担っておりました。しかし義貫の代になって、六代将軍足利義教に粛清されています。一色氏は義教の死後に復権したものの、勢力を完全回復したわけではありませんでした。細川成之自信も、在京で元々は彼の家は阿波・讃岐の守護だったところを一色義貫の没落によって、三河守護を増やされたという事情がありました。在国の国人・土豪は所謂譜代ではなかったのです。こういう事情もあって、こと三河国においては、あまり守護の力は強くなかったようです。

 松平信光と戸田宗光は伊勢貞親の命令を受けて、一揆討伐の行動にでます。松平信光は一揆勢の大将格の一人、大庭次郎左衛門を深溝に追い詰め、息子の大炊助正則に討たせました。大炊助正則はそのまま深溝に土着し、深溝松平家の祖となります。戸田宗光も敵大将を討ち、残りの者達も駿河まで逃げた所を今川義忠に捕捉され首が京都に送られたとの事です。
 深溝は『ふこうぞ』と読み、当時そのあたりには菱池・岩堰と呼ばれる大きな湖沼があって、矢作川支流の広田川とつながり、蒲郡から三河湾に水を落としていました。松平一族はその沿岸である深溝、竹谷、形原、五井に進出します。その勢力拡張に、額田郡一揆における松平信光の活躍があったことはまず間違いのないところでしょう。

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