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2008年1月15日 (火)

川戦:応仁乱編②応仁の乱への道程:京の視点Ⅱ

 南朝を降伏させ、山名氏清や鎌倉公方などの実力者を排した足利義満が最終的に目指したのは天皇位の簒奪だったと、今谷明氏以下歴史学者は説を立てられております。結果としては失敗に帰し、後を継いだ足利義持は有力御家人との協調路線をとりました。口の悪い研究者は『傀儡』と呼ぶこともありますが、実相はどちらも正しいということだと思います。有力御家人は評定衆を組織し、ここの決定には室町殿(足利家惣領を指し、将軍とほぼ同義。以下この用語を使います)といえども逆らえない状況でした。将軍と室町殿の違いを少し説明します。足利義持は嫡男義量を将軍位につけたものの早世したため、自ら将軍位に復位していました。義量が将軍であった間も、惣領である室町殿は義持です。義持が将軍であった時代も、義満が生きている間は義満が室町殿であり、決定権は将軍よりも室町殿にありました。これが、室町殿と将軍との違いです。権力の源泉がどこにあるかという視点でみるなら、将軍としてみるよりは室町殿に着目した方が妥当との歴史学者からの提唱で、現在では『室町殿』を中心に室町時代の歴史を見ることになっています。

 彼は死の床にあって自らの後継を定めませんでした。義持に子供はいませんが、何人かの弟がいました。いずれも、宗家を脅かさないように仏門に入れておりましたが、彼らのうちの誰かに義持の後を継いでもらわないと室町幕府が瓦解してしまいます。義持は生前に定めても評定衆の同意が無くては意味が無いという理由で後継を定めませんでした。定めて拒否されれば、もしくは後になって掌を返されれれば室町殿の権威は地に落ちます。そこまで室町殿の力は有力御家人に蚕食されていたということですね。消極的ではありますが、義持の判断は英慮と言えるでしょう。それに応えて室町殿の権威回復に立ち上がったのが、後を継いだ義教です。彼は有力御家人を次々と粛清し、自分の言うことを聞く当主に首をすげ替えてゆきました。これが完遂していれば、立派な中央集権国家が完成していたかもしれません。しかし、義教は志半ばにして赤松満祐の手によって横死してしまったのです。
 一応、足利義教を暗殺した赤松満祐は誅伐されたものの、体制は義持の時代の形に戻りました。、い室町殿と御家人の協調(傀儡)体制です。さりながら、義教が定めた相続のルールについては問題があまりにも微妙なため、大きく歪に歪んだままだったのです。
 この改革とその後始末の不徹底さは後にあまりにも大きな禍根を残しました。
 義教は有力御家人を潰した後に、その弟や分家を一族の惣領にすえました。そのままゆけば、前当主の嫡男は分家扱いという形でおさまるべきところにおさまるのですが、義教の横死でその決着がつかず仕舞いに成ってしまったのです。現代に例えるならば、小泉チルドレンと福田自民党執行部との対立に似ているかもしれません。
 後ろ盾を失った現当主と前当主の嫡男・旧本家筋との対立は修復不能に陥り、応仁・文明の乱にいたるわけです。
 尚、この一連の動きの全ては京で起こっていることであり、彼らが治めるべき領地の行方は京の動きで定められることでした。多くの有力御家人は複数の国の守護を兼ね、京都に在住していました。地元は自らの被官(多くは地元出身の国人)に治めさせていたのです。この状況が結局のところ、御家人達の首を絞めてゆくわけですね。
 京都を中心とした応仁の乱へといたる背景はこんなところです。次稿で三河国個別の事情について触れさせていただきます。

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