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2008年2月28日 (木)

川戦:『将軍』寺編②法然の法統

 法然が浄土教を浄土宗としてまとめ上げる以前ににも踊念仏の創始者の空也や往生要集を書いた源信などの浄土教に基づく先行事績がありました。源氏物語が語る『もののあはれ』や平家物語で謳われる『諸行無常』も末法思想を背景とした無常観をベースにしたものです。
 それに対して明確な回答を打ち出した第一人者として、法然がいるのだと思います。親鸞は自らが浄土真宗を起こしたという自覚はなく、生涯を通して法然の弟子として行動したといわれています。一遍が空也に倣って遊行を始める以前には、浄土宗の教えを受けていたそうです。
 日本における阿弥陀信仰は数多くの分派を形成しました。それは他力本願の具体的な方法――どうやったら効果的に阿弥陀仏に帰依出来て救済が保証されるのかという方法論――に絶対正しいものがないからに尽きると思います。阿弥陀信仰には浄土宗、浄土真宗、時宗、一向宗その他数多くの宗派があります。浄土真宗の中でも数多くの分派があるように、浄土宗もまた幾つかの分派に分かれています。親鸞を始め、有能な弟子に恵まれたということもあるのですが、法然の教えの何を拠り所にするかによって、弟子たちが分立するのは避けられない所でした。法然の晩年は弾圧にあい、教団そのものを機能的に統制することも難しかったということもあったかもしれません。弟子達は全国に散らばって布教をし(東国に下った親鸞もその一人)、その地で教団を形成してゆきました。
 浄土真宗の開祖となった親鸞の他に、高名な弟子を列記します。
 流罪となった法然の留守中に京で法然の教団を守っていたのが信空という弟子でした。彼は京の黒谷の法然の草庵(金戒光明寺)を師から受け継ぎ教団を維持しました。
 次に九州に布教活動を行った弁長、鎌倉で布教を行った弁長の弟子の良忠。彼らの法統は鎮西派と呼ばれています。証空は法然が流罪中、連座を免れ在京して独自活動をしていたそうです。証空の法統は西山派と呼ばれています。その他、隆寛の多念義派、幸西の一念義派などあってそれぞれが独立した活動をしていたそうです。

 法然が死んだのは1212年(建暦二年)。京都東山の大谷禅坊でした。親鸞の墓が近くにあるのは親鸞は法然の弟子として死に、親鸞の弟子達も師の墓の傍に葬られるべきだと考えたからでしょう。ただ、比叡山延暦寺は墓所を荒らすことも厭わなかったそうです。1227年(安貞元年)には法然の墓所並びにその周辺施設が延暦寺の攻撃をうけています。その翌年、信空は法然の遺骨を抱きながら死んだという逸話が残っています。
 法然の墓所は、当初は信空系の法統が、その後証空系(西山派)の法統が管理をしておりました。その墓所を支配していたのが知恩院です。知恩院はもともとは宇治の平等院を勧請したものであり、寺域は近隣にある長楽寺が管理していたらしい。そこの住持は法然の弟子隆寛(多念義)系でしたが、1227年(安貞元年)に隆寛本人も弾圧を喰らったております。隆寛は同時に天台僧であり、こうした両義的な存在によって、曲がりなりにも法然の墓所は守られていたらしい。

 鎮西派の弁長は九州で布教活動を行い、その弟子の良忠は関東に拠点を作りました。京で諸宗派が勢力争いで消耗戦を戦っている間に、鎮西派は地方の地盤をしっかり固めております。その後で京に進出。その結果、十四世紀の前半に知恩院の住持の座を鎮西派が占めることになりました。その背景として、法然の弟子の一人、源智系の流れが京都に残っており、それが鎮西派と協力関係を無すん田ということがあるそうです。それ故、浄土宗鎮西派の第二祖は弁長と並んで源智の名が連ねられております。
 知恩院の住持には当初は鎮西派木幡流が、後に鎮西派白旗流に引き継がれたとます。東山にある知恩院もまた応仁の乱による戦火にさらされ幾度も焼亡しましたが、その都度再建したと伝えられています。
 信空系の金戒光明寺も知恩院と相前後して鎮西派となり、江戸時代までには鎮西派七大本山の一つになっております。

 1523年(大永三年)に浄土宗総本山をどこの寺にするかで、幕府と朝廷が論争したといいます。朝廷は鎮西派白旗流の知恩院、そして幕府は同じく鎮西派藤田流の知恩寺を推しました。幕府の姿勢に憤慨した青蓮院の尊鎮親王が高野山に出奔するという騒ぎにまで発展しております。少なくともこの時点までは知恩院は浄土宗の総本山ではなかったと言えそうですね。このあたりは他の鎌倉仏教系諸宗派と異なり、どこを中心寺院にするかを朝廷や幕府に委ねているところが浄土宗の特徴的なところだと思います。ちなみにこの時の知恩院の住持は二十五世超誉存牛といい、大樹寺を建てた松平親忠の息子にあたります。これもまた、奇縁と言えると思います。

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2008年2月26日 (火)

川戦:『将軍』寺編①プロローグ

 本編では、松平信光の子、親忠の事跡を今までと同様な視点で扱う予定です。その中心として彼が建てたと言われている寺院、大樹寺を中心に据えて見ていこうという趣旨です。『大樹』はそのままの解釈すれば大きな木という意味です。ただ、別の意味合いもあります。この頃の貴人は自らの官職をそのままで呼ばずに、中国の朝廷での官職になぞらえて呼ぶことが流行っていました。例えば、『右京太夫』を『京兆』、『中納言』を『黄門』、『内大臣』を『内府』等、等。これを唐名といいます。その伝で言えば、唐名『大樹』に相当する日本の官職は『将軍』にあたります。室町時代の公家の日記などを読みますと、室町殿=足利将軍のことを大樹とモロに記載しております。松平親忠はいわば『将軍』寺という名前の寺社を建てた訳です。その子孫の徳川家康が征夷大将軍となり、十五代の将軍を輩出する名家となったわけですが、これは凄い偶然・奇縁だなと思っております。
 松平親忠の『親』の字は伊勢貞親の偏諱とされており、主持ちでした。その彼が『大樹』が『将軍』の唐名であることを知らないとは思えません。さらに三河物語にも語られているように、親忠には兄が二人おり、後にそれぞれ岩津と大給を与えられております。つまり親忠は分家筋です。親忠が立てる以前にもともと大寿寺という草庵があったという説もあります。でも、これをわざわざ『将軍』寺という寺号にしてしまうことに、憚りがないとは思えないのが正直な所です。そういう疑問点を含めて、大樹寺がらみのエピソードを書き連ねてゆきたいと思います。

1438年(永享 十年)松平親忠生誕
1465年(寛正 六年)額田郡一揆。
1467年(応仁 元年)8月、応仁の井田野合戦。
1468年(応仁 二年)知恩院、戦火で被災。第二十二世周誉珠琳、近江国伊香立に避難。
1471年(文明 三年)松平信光、安祥を奪取。
1475年(文明 七年)井田野に怪異発生。松平親忠、念仏堂を建てる。後、勢誉と大樹寺を創建。
1479年(文明十一年)信光明寺、勅願所となる。
1481年(文明十三年)妙心寺、勅願所となる。超誉、信光明寺で得度する。
1488年(長享 ニ年)松平信光没。
1493年(明応 二年)10月、明応の井田野合戦。
1501年(文亀 元年)松平親忠没
1503年(永正 元年)勢誉、知恩院第二十三世住持になる。
1506年(永正 三年) 伊勢宗瑞、三河侵攻(~1510年 永正三河乱)
1511年(永正 八年)信光明寺の肇誉、知恩院に転昇。超誉、信光明寺の住持になる。
1521年(永正十八年)超誉、知恩院二十五世の住持になる。
1523年(大永 三年)浄土宗総本山論争。知恩院と知恩寺で決着はつかず。
1526年(大永 七年)超誉、後柏原天皇崩御の折に臨終の善知識を勤める。
1527年(大永 七年)超誉、知恩院を辞山。信光明寺の住持に復帰。
1545年(天文十四年)超誉、高月院に隠棲。
1549年(天文十四年)超誉、逝去。

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2008年2月21日 (木)

川戦:応仁乱編⑪西三河新秩序

 1486年(文明十八年)信光明寺への願文にはもう一つ重要なことが書かれています。『安祥と岡崎が平和裡に手に入ったのは仏の加護の賜物』であると。安祥については大久保忠教の三河物語に書かれたあらましを書かせていただいております。踊りの一団が本当に本願寺教団の手になる者であるなら、この仏の加護もかなり生々しい描写になりますね。岡崎を守っていたのは西郷頼嗣という人物ですが、岩津や安祥から土呂、深溝に向かうならば、岡崎は押さえておかなければならない重要拠点に違いありません。
 そこを平和裡にとることができたとするのはどういうことでしょうか。思い浮かぶのは、戸田宗光の田原城奪取です。一色政照は応仁の乱中には京にも出陣していて渥美郡は留守にしていました。そこを同じ西軍の武将の戸田宗光が固めてしまって、帰ってきた一色政照には居場所がなくなっていたのですね。そして帰ってきた一色政照を渥美郡大草に隠居させて自らはその養子分となりました。
 松平信光は西郷頼嗣に対して同じことをしたとすれば、『平和裡』という言葉の意味が見えてくるのではないかと思います。西郷頼嗣もまた京に在陣しており、その留守をついて松平一族が乗っ取ったと思います。西郷頼嗣の岡崎が東軍方、西軍方だったのか、安祥の城主が誰でどちら方についていたのかは不明ですが、そのいずれであっても上手く留守をついて占領したということなのでしょう。

 無論、平時に会ってそういうことをすれば、討伐を受けることは間違いがありません。しかし、この時三河国には守護は不在でした。文明十年に一色義直が三河放棄を宣言した頃、細川成之もまた三河守護を辞しております。後任の守護は不明です。おそらくはこれ以後、三河は守護不在の国となったと思われます。

 戸田宗光は応仁乱時には西軍についたと言われていますが、乱後には主筋の一色家から渥美郡を奪い、二連木に城を建て、東三河の牧野氏と拮抗対立したといいます。勉強が足りず、応仁乱中の三河国の動向は一色家と吉良家の動き以外はあまり詳しくわかっておりません。
 松平信光は1488年(長享 ニ年)に没します。その時までに領した拠点に自らの子息を置き、分家としました。信光の妻が多産だったのか、数多くの子供たちがいます。

 子息のほかに、一族ではないものに松平を名乗らせた者もいたそうで、松平一族は信光の一代で幅広い拠点を持つに至ります。興味深いのは本願寺教団の拠点である大浜、鷲塚、小川、野寺、佐々木、針崎、土呂が入っていないことですね。これらの地は南北に伸びた松平の拠点を東西に分断するように伸びております。松平一族と本願寺教団との間に約束が取り交わされたということでしょう。後になって、野寺、佐々木、針崎、土呂については、不輸不入の権が設けられ、領主の権利の及ばない場所とされました。後年、日蓮宗徒である大久保氏の一族も織田方に追われてここに匿われて無事を得たというエピソードもあります。
 そして、松平信光の婿である戸田宗光は知多・渥美両半島を押さえました。三河国は西尾城から現矢作古川沿いに勢力を持つ吉良氏を戸田、松平、本願寺の三派勢力が囲む形になります。吉良一族が弱体化してゆくのも、止むを得ざるところでしょう。東には牧野氏が台頭し、さらに東には今川氏が控えています。三河の国の様相は応仁の乱開始以前とはおよそ異なる物になってしまいました。それはある意味、足利義教が一色義貫を誅殺した時に、構想した有力御家人の息のかからない国人衆の台頭です。しかしながら、応仁・文明の乱、そしてこの後に起こる明応の政変によって室町殿の権威は失墜します。室町殿がその後のアクションとして企図したと思われる新勢力の掌握を果たすことができず、各勢力は自立の道を進むことになります。

 戦国の濁流の中、三河の各勢力は離合集散を続け、徳川家康の代になってやっと最終的な統一の時代を迎えます。但し、それまでの過程はめまぐるしく、家康にしても容易に三河の諸勢力を御することが出来たわけではありませんでした。その経過を次稿以降に書き進めてゆきたいと思います。

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2008年2月19日 (火)

川戦:応仁乱編⑩松平信光の願文

 寺伝は寺の成り立ちを書いたもので、大抵の名刹と呼ばれる寺にあるものですが、史料としての精度は決して高いものではなく、そのまま信じると他の史料との間に色々矛盾を抱えることになることもしばしばです。とは言うものの、色々と興味深く、示唆に富んだ史料もあったりして扱いにはいつも悩まされるところです。

 松平信光が松平一族の活動として、先代の泰親に引き続いて行ったのは寺社の創建でした。親氏は時宗僧だったし、泰親も用金という僧号を持つ入道でした(但し、宗旨はよくわかりません)。
 信光が建てたのは三つの寺院です。1440年(永享十二年)に建てた萬松寺(臨済宗)、1451年(宝徳 三年)の信光明寺(浄土宗)、1461年(寛正 二年)妙心寺(浄土宗)創建。
 萬松寺が禅宗という所が気になりますが、おそらくはこの頃に松平信光は被官化したのではないかと推測しています。永享十二年は一色義貫が足利義教に謀殺された年です。謀殺に絡む室町殿の青写真として、三河を自分の息のかかった勢力で固めたいという意向があったとしたら、頷けなくはありません。松平信光としても家格が上がったことを示す手段として禅寺を建てたと考えることができると思います。そもそも禅寺というのは武家の、それも身分のある大身が建てるものが相場です。但し、松平信光が浄土宗に宗旨替えしているところ、そして信光明寺と妙心寺には勅願寺にしたことに対して、萬松寺に対しては奏しているところを見るに、ある時期を境に禅宗との縁が離れたということなのかもしれません。

 信光明寺は信光が浄土宗の釈誉存冏に帰依して建てた寺で、三河における浄土宗鎮西派白旗流弘経寺系進出の端緒となったと言われています。
 妙心寺も同じ浄土宗の寺ではありますが、系統の異なる西山深草派の円覚寺で学んだ教然良頓(信光の息子)を開山とした寺です。浄土宗の諸派については別項で詳しく述べますが、松平信光は仏心はあるものの宗旨や教義の差異にあまりこだわらない人物であったように思われます。

 松平信光は自ら創建した浄土宗寺の信光明寺と妙心寺にそれぞれ願文を出しています。内容は平和祈願と子孫繁栄という常識的なものでした。その文言の中に源氏の繁栄を願ったものがあり、事実なら徳川家源氏発祥説の根拠になるはずのものでした。その点は論争の種になったりしてます。どうも、この史料そのものの信憑性に疑いありということにはなっております。
 そういう史料ではありますが、記述に気になる点があります。
 一つは1481年(文明十三年)に妙心寺に奉納された願文です。安置された仏像の胎内に保管されていたものですが、この願文の文面に『子孫代々浄土の真宗に帰依させます。』という文言があるのです。妙心寺は浄土宗の寺で、信光はここを勅願寺にまでしているのですが、胎蔵させた願文に異なる宗派の名前を書くだろうかと思うと少し不思議な感じがします。
 むろん、この『浄土の真宗』を法然の浄土宗と解釈することは可能です。法然の法統を継ぐ者にとっては、親鸞の分派が真宗を名乗ること自体が不快であり、わが宗門(浄土宗)こそ真宗なりという思いもあったでしょう。しかし、1486年(文明十八年)信光明寺への願文には自らの宗旨のことを『浄土の真宗』ではなく、『浄土の宗門』と呼んでいるのは、統一感を欠くように思えます。またこの願文の中で、一族の者は浄土宗に帰依するように申し渡したと十三年の願文に書いたことと同じ事を念押ししているのですね。そして、その浄土宗も西山深草派と鎮西派の二系統をまたぐことになっているのに『浄土の宗門』というどちらにも取れる曖昧な書き方になっているのですね。

 ここで仮定を持ち出すことをお許しください。妙心寺本尊胎蔵の願文は後世の創作ではなく正しいものであり、松平信光が浄土真宗、つまり本願寺教団にも心をよせていたという可能性です。
 蓮如の長男順如は代々のしきたりによって日野裏松家の勝光の猶子となりました。その日野裏松家は松平益親を被官にしています。蓮如の第一夫人と第二夫人は伊勢貞房の娘です。貞房の属する伊勢氏の長は伊勢貞親という政所執事であり、松平信光と戸田宗光を被官としていました。松平信光は戸田宗光の舅に当たります。そして、応仁乱期における松平家、戸田家の躍進は矢作川及びその周辺の川筋に沿ったものです。特に戸田宗光の渥美郡進出には船の存在なくしてはありえないと思います。その船をふんだんに持っていたのは琵琶湖の湖族を背景とした本願寺教団です。戸田・松平が独自に船を集めたとしてその調達先はどこなのかを考えれば、本願寺教団が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
 本尊胎蔵の願文は通常公開する文書ではありません。門徒衆の有力者を妙心寺に招き、胎蔵願文を読ませれば、門徒衆は信光に心を寄せるようになる。そんな使われ方をしたのかもしれません。(このあたりは妄想の域にあるのは承知しております。)
 信光の信心の向かう先は、禅宗、浄土宗鎮西派、浄土宗西山深草派、それからひょっとしたら本願寺教団とさまざまブレがあるように見受けられます。このあたりを整理すると面白いミステリーが成り立つような気が致します。

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2008年2月14日 (木)

川戦:応仁乱編⑨戸田宗光Ⅱ

 その機を戸田宗光は機を逃しませんでした。西軍方根拠地である渥美半島の田原を攻め、そこにいた一色政照を渥美郡の大草という地に流し、自らは一色政照の養子分として渥美郡の支配権を得たのです。大草という地名は松平信光が岡崎の西郷氏を攻めて大草に流し、息子の光重を岡崎を支配させたことと被りますね。たった二例で判断するのは早計と思いますが、大草という地名は『流刑地』という意を含んでいるのではないかという感があります。おそらくは、松平信光による岡崎侵攻もこの前後なのではないかと思います。
 この頃までに西軍の東条吉良義藤は三河国を出奔したのか、消息は無くなり、一色義直も三河国の放棄を宣言して、三河国における応仁・文明の乱は収束しました。

 寛正の額田郡一揆から応仁の乱の間、戸田宗光は知多半島から渥美半島にかけて転戦して勢力を広げたわけですが、その行動には船の存在が不可欠だったと考えられます。額田郡一揆においても、戸田宗光がいた碧海郡上野から、丸山氏を討ち取った大平へは矢作川・乙川という水路で繋がっております。戸田宗光は川船を使った機動戦術を得意としていたようですね。
 応仁乱期の本願寺教団が東西どちらについて、誰と戦ったのか、もしくは戦わなかったのかという記録は不勉強にてわからないのですが、恐らくは松平信光と同じではないかと思われます。信光は東軍についたと言われ、安祥・岡崎を攻略しました。この二拠点は矢作川・乙川で、額田郡一揆での深溝もそれらの川と水路で繋がっていたと思われます。そして、松平信光の娘は戸田宗光の妻でした。
 この後、本願寺教団の拠点である大浜・佐々木・針崎・土呂は水上交通運輸で大いに栄えたと三河物語にあるとおり、三河湾の出口を押さえていた戸田氏との関係は良好だったと考えられます。後年、三河一向一揆に戸田の一族から戸田忠次が一時的に一向一揆側について佐々木上宮寺に籠ったそうです。一揆方との折り合いが悪くなってすぐに家康側に投降したとされていますが、一揆方についた一門衆がいたという事実自体が、戸田氏と本願寺教団との関わりを示しているのではないかと思われます。

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2008年2月12日 (火)

川戦:応仁乱編⑨戸田宗光Ⅰ

 本稿では、松平信光とともに額田郡一揆を鎮圧した戸田宗光の動向について触れておきます。戸田氏の先祖は尾張国海東郡戸田荘の土豪で、三河の国人ではなく、三河国碧海郡上野に移住したのは文安年間(1443年~1449年)と言いますから、石川政康の三河移住、蓮如の関東下向とほぼ同時期になります。
 これを単純に偶然とかたずけるのはどうでしょうか。戸田氏も石川氏もこの時点に起こった三河国の新興の土豪です。石川は蓮如や如光の力をかりて、戸田宗光も伊勢貞親の権力を背景に、一代で一族の勢力をこの地に根付かせた実績を持っております。また、松平氏にしても称名寺の寺伝においては有親・親氏の来訪を1441年(嘉吉元年)としています。称名寺寺伝の信憑性はおくとしても、この時代に新興の土豪が勢力を伸ばした事実を説明する何かがあると私は考え、行き当たったことがあります。永享十二年(1440年)におこった三河国守護、一色義貫の謀殺です。手を下したのは時の室町殿の足利義教。三河守護の地位は一色氏から取り上げられ、管領家細川氏の一族細川持常に与えられました。この事件から程なくして室町殿足利義教は赤松満祐に暗殺されます。実はこの時に前後して、幕府は三河国には細川氏の息のかかった者を守護代に据えたのですが、その守護代が国一揆を起こされて追放されたという事件が起こっていたそうです。
 幕府としてはそれを由々しきことと捕らえていたのではないでしょうか。その結果、一色家の影響下にある土豪・国人の勢力を削ぐために石川氏や戸田氏のような三河国外の有力者が呼び寄せられ、松平氏のような一色氏と因縁の無い地元の有徳人が取り立てられたということはあるかもしれません。

 額田郡一揆を平定した戸田宗光は知多半島東岸の富貴・河和に進出します。その後起こった応仁の乱においては戸田宗光は西軍方についたそうです。三河関係で東西両軍を分けて見ますと、東軍は細川成之(三河国守護)、伊勢貞親(政所執事)、西条吉良義真、松平信光。西軍は一色義直、一色政照、東条吉良義藤、そして戸田宗光。基準としては細川につくか、一色につくかということでそれぞれの立場によって敵味方が分かれたようです。吉良氏のように一族の中で二派に分かれてあい戦うことも応仁の乱においては珍しくありませんでした。とはいうものの、三河国における戦闘が実質的にどのような戦況だったのかは良くわかりません。細川氏は複数の国の守護の掛け持ちであり、もっとも利害関係に敏感だったのは吉良氏だったと思われます。義貫の代に三河国守護の座を奪われた一色氏も熱心だったと思われるのですが、一色義直の主戦場は京都であり、一色氏の三河国における拠点渥美郡を治めるための郡代一色政照も京都と三河を往復する有様だったようです。その間隙を縫って三河在国の西軍方部将として活躍したのが戸田宗光でした。碧海郡上野は弟に譲り、自らは知多半島から渥美半島に拠点を設けて転戦します。三河国における応仁・文明の乱は細川・伊勢氏の動きはあまりみられず、一色氏の活動が結構目立っています。1476年(文明 八年)に東軍方守護代東条吉良国氏が、一色氏の攻撃によって自害に追い込まれたり、一色氏が西軍から三河国守護を名乗って、三河守護が東西で分立したりといくばくかの戦果を挙げたようです。
 しかしながら中央の戦況は一色一族にとっては決して芳しくありませんでした。両軍の総大将の山名宗全・細川勝元はともに病死したので、一見引き分けのように見えます。しかしながら、細川勝元の後を継いだ細川政元が当初西軍についていた日野富子、足利義尚母子を抱きこみ、これに危機感を覚えた義視が京を出奔して伊勢に逃れるにいたって、細川派、つまり東軍の勝ちが鮮明になりました。

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2008年2月 7日 (木)

川戦:応仁乱編⑧松平信光、安祥奪取Ⅱ

 如光を失った佐々木上宮寺にほど近い安祥城に松平信光が入ったのは、1471年(文明 三年)のことでした。本願寺教団にとっての松平党がこの時点でどうだったのかははっきりとしたことは図りません。しかし、後に石川政康が三男を松平信光の子の親忠に仕えさせている事実。及び、本願寺教団の背後に蓮如の妻の縁で伊勢貞親がいるという仮定にたてば、両者は協調関係にあったと思ってよいでしょう。
 大久保彦左衛門忠教が書いた三河物語に松平信光が安祥城を奪取した時の記述があります。それによると安祥城城下に踊りの集団が現れ、お囃子を入れながら踊りを披露し始めます。それを見物に城兵達が城を出た所を、一軍を率いた松平信光が乗っ取ったと面白おかしく書かれています。踊りの集団は松平信光と結託していたわけですね。この踊りをどのように解釈するか。私は踊念仏を想起します。これは近隣の上宮寺にいた本願寺派門達が踊念仏を披露していたのではないかと思います。蓮如が『自らを一向宗と呼ぶ者は破門する』と門徒達に警告を放つのはもう少し時代が下った頃なので、浄土真宗本願寺派の教義、浄土宗一向派の教義、一遍の時宗で行う踊念仏の区分けが曖昧だったと思われます。
 安祥は後に今川と織田と松平氏が争奪戦をする重要拠点でした。そこを乗っ取れたということは少なくとも主筋にあたる伊勢貞親の承認があったと思われます。その伊勢貞親は細川勝元の東軍方についていましたから、勝元と同属の三河国守護細川成之と図って、三河国内の西軍派の拠点を潰しにかかっていたのだと思われます。三河国における西軍派は渥美分国守護の一色義直です。応仁の乱に乗じて三河制圧を画策したようです。守護代の吉良氏は東西に分かれて戦ったとされています。
 恐らくは安祥も西軍の拠点の一つだったのでしょう。また、額田郡一揆では牧野・西郷氏が守護の命令にもかかわらず、一揆鎮圧に失敗しているところを見ると親西軍だったようです。西郷氏は松平信光が安祥を責めた文明三年から文明十八年までの間に、拠点とする岡崎を失い、菱池近くの大草という在所に逃れます。そして松平氏と和議を結び岡崎には信光の息子の光重が西郷氏の養子として入り同じく乗っ取りを果たしました。吉良氏と並んで三河国守護代を勤めた西郷一族は松平一族の軍門に下ったということですね。この岡崎松平氏は後に松平清康に岡崎の地を追われ、西郷氏と同じ大草に移ります。この大草松平氏は後、三河一向一揆の時に一揆側として参戦します。この当たりを考えるに、安祥の時と同様岡崎奪取にも本願寺派が関わり、松平光重を祖とする岡崎(後の大草)松平家もどこかの時点で本願寺派になっていたと思います。
 松平一族の宗旨というと浄土宗鎮西派というのが通り相場ですが、信光が信光明寺を建てるまではこの宗派の名前が出てきておりません。親氏は時宗僧でしたし、泰親は若一山王という社を祀りました。信光自身も信光明寺、妙心寺という浄土寺の前には臨済宗の萬松寺という寺を建てたりしております。深溝松平氏の菩提寺も臨済宗でした。この当時の松平一族の宗旨は一貫しておらず、あまり頓着されていない感があります。であるならば、松平光重が本願寺教団に帰依していたとしても特段の不思議はないだろうと思われます。

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2008年2月 5日 (火)

川戦:応仁乱編⑧松平信光、安祥奪取Ⅰ

 前稿で、応仁二年に土呂の地に本願寺教団の三河国における根本道場として、本宗寺が立てられたことをかきました。では、なぜ土呂の地なのかを考えてみたいと思います。蓮如が元々いた大谷本願寺を除いて、彼が寺地として選ぶ場所には二つのパターンがあるように思われます。一つは石山本願寺や吉崎道場のような川の河口。もう一つは京と琵琶湖を結ぶ位置に建てられた山科本願寺のような交通の要衝。では、土呂はいずれに該当するのでしょう。少なくとも、河口の立地ではありません。交通の要衝としての意味づけはどうか考えて見ます。河口の街としては、如光の生まれ故郷である西端があり、蓮如はそこを拠点として三河布教を行いました。にもかかわらず、西端あるいはその近辺の鷲塚、大浜を外して土呂を選ぶには理由があったと思われます。それを推察してゆきたいと思います。

 土呂は岡崎市といっても南部にあり、なおかつ矢作川の流れからは外れた所にあります。そばを砂川、占部川が南北に並行して走っております。現在の地図では確認できないのですが、その当時は岡崎あたりの矢作川もしくは、乙川とつながっていたと推測しています。北側には三河三ヶ寺の一つ、針崎勝曼寺がありました。南は今は干拓されてなくなっている菱池(岩堰)があり、さらにその南には松平家が新たに手に入れた深溝の地があります。岩津の松平信光が、深溝を経営するためには、好むと好まざるに関わらず何らかの形で本願寺教団がかかわってくる状況であったと考えます。
 後に蓮如が三河の上宮寺のために作った『如光弟子帳』には菱池近辺にも本願寺教団の拠点があったと書かれているそうです。そればかりか、能見・丸根など松平一族が進出した岩津近辺の拠点や、戸田宗光が依った上野(現在の豊田市あたり)近辺にも本願寺教団の道場があることがうかがえます。(参考文献を確認していないのでこの程度の表現でご容赦)以上を総合して、松平党と本願寺教団は少なくともある種の協力関係を取り結んでいたということが出来そうです。屋上屋を重ねた推察であることは承知しておりますが、今後の課題として調べてゆきたいテーマです。

 如光が死んだのは、土呂に寺を建てることが決まって間もなくの頃です。縄張りを作り、土地を突き固める情景がそこかしこで見られた頃だったのでしょう。
 蓮如が三河を立ち去り、それを見送った如光が上宮寺に戻りました。そこに如光の生まれ故郷である西端の村人が如光に面会に来たのです。彼らは如光に佐々木上宮寺を離れて西端に戻ることを勧めます。蓮如が三河に滞在した時、その根拠地としたのは如光の生まれ故郷である西端でした。その余燼を受けて俄かに西端も活況を帯びたのでしょう。蓮如が去って、活気を喪うことを惜しんだ西端の村人達が如光に地元に戻ることを懇請した模様です。上宮寺のある佐々木から、油が淵の西端までの道の途中で如光は失踪します。上宮寺に我、生誕の地に戻るとの書置きを遺しながら。
 本願寺教団は本宗寺を本気で大刹にするつもりだったようで、蓮如の孫を住持に据えたりしております。ひょっとしたらここで如光が失踪しなければ、蓮如の活動拠点は吉崎ではなく、この本宗寺だったかもしれません。如光がいなくなった上宮寺には如光の妻が住持を継ぎ、その妻に蓮如と如光が並びたつ画像を送り、上宮寺の権威を上げ、上宮寺にはのちに蓮如の甥を送り込むなど教団の結束強化をはかっております。本願寺教団が如光を失ったダメージは決して小さくなかったでしょう。

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