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2008年2月26日 (火)

川戦:『将軍』寺編①プロローグ

 本編では、松平信光の子、親忠の事跡を今までと同様な視点で扱う予定です。その中心として彼が建てたと言われている寺院、大樹寺を中心に据えて見ていこうという趣旨です。『大樹』はそのままの解釈すれば大きな木という意味です。ただ、別の意味合いもあります。この頃の貴人は自らの官職をそのままで呼ばずに、中国の朝廷での官職になぞらえて呼ぶことが流行っていました。例えば、『右京太夫』を『京兆』、『中納言』を『黄門』、『内大臣』を『内府』等、等。これを唐名といいます。その伝で言えば、唐名『大樹』に相当する日本の官職は『将軍』にあたります。室町時代の公家の日記などを読みますと、室町殿=足利将軍のことを大樹とモロに記載しております。松平親忠はいわば『将軍』寺という名前の寺社を建てた訳です。その子孫の徳川家康が征夷大将軍となり、十五代の将軍を輩出する名家となったわけですが、これは凄い偶然・奇縁だなと思っております。
 松平親忠の『親』の字は伊勢貞親の偏諱とされており、主持ちでした。その彼が『大樹』が『将軍』の唐名であることを知らないとは思えません。さらに三河物語にも語られているように、親忠には兄が二人おり、後にそれぞれ岩津と大給を与えられております。つまり親忠は分家筋です。親忠が立てる以前にもともと大寿寺という草庵があったという説もあります。でも、これをわざわざ『将軍』寺という寺号にしてしまうことに、憚りがないとは思えないのが正直な所です。そういう疑問点を含めて、大樹寺がらみのエピソードを書き連ねてゆきたいと思います。

1438年(永享 十年)松平親忠生誕
1465年(寛正 六年)額田郡一揆。
1467年(応仁 元年)8月、応仁の井田野合戦。
1468年(応仁 二年)知恩院、戦火で被災。第二十二世周誉珠琳、近江国伊香立に避難。
1471年(文明 三年)松平信光、安祥を奪取。
1475年(文明 七年)井田野に怪異発生。松平親忠、念仏堂を建てる。後、勢誉と大樹寺を創建。
1479年(文明十一年)信光明寺、勅願所となる。
1481年(文明十三年)妙心寺、勅願所となる。超誉、信光明寺で得度する。
1488年(長享 ニ年)松平信光没。
1493年(明応 二年)10月、明応の井田野合戦。
1501年(文亀 元年)松平親忠没
1503年(永正 元年)勢誉、知恩院第二十三世住持になる。
1506年(永正 三年) 伊勢宗瑞、三河侵攻(~1510年 永正三河乱)
1511年(永正 八年)信光明寺の肇誉、知恩院に転昇。超誉、信光明寺の住持になる。
1521年(永正十八年)超誉、知恩院二十五世の住持になる。
1523年(大永 三年)浄土宗総本山論争。知恩院と知恩寺で決着はつかず。
1526年(大永 七年)超誉、後柏原天皇崩御の折に臨終の善知識を勤める。
1527年(大永 七年)超誉、知恩院を辞山。信光明寺の住持に復帰。
1545年(天文十四年)超誉、高月院に隠棲。
1549年(天文十四年)超誉、逝去。

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