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2008年2月12日 (火)

川戦:応仁乱編⑨戸田宗光Ⅰ

 本稿では、松平信光とともに額田郡一揆を鎮圧した戸田宗光の動向について触れておきます。戸田氏の先祖は尾張国海東郡戸田荘の土豪で、三河の国人ではなく、三河国碧海郡上野に移住したのは文安年間(1443年~1449年)と言いますから、石川政康の三河移住、蓮如の関東下向とほぼ同時期になります。
 これを単純に偶然とかたずけるのはどうでしょうか。戸田氏も石川氏もこの時点に起こった三河国の新興の土豪です。石川は蓮如や如光の力をかりて、戸田宗光も伊勢貞親の権力を背景に、一代で一族の勢力をこの地に根付かせた実績を持っております。また、松平氏にしても称名寺の寺伝においては有親・親氏の来訪を1441年(嘉吉元年)としています。称名寺寺伝の信憑性はおくとしても、この時代に新興の土豪が勢力を伸ばした事実を説明する何かがあると私は考え、行き当たったことがあります。永享十二年(1440年)におこった三河国守護、一色義貫の謀殺です。手を下したのは時の室町殿の足利義教。三河守護の地位は一色氏から取り上げられ、管領家細川氏の一族細川持常に与えられました。この事件から程なくして室町殿足利義教は赤松満祐に暗殺されます。実はこの時に前後して、幕府は三河国には細川氏の息のかかった者を守護代に据えたのですが、その守護代が国一揆を起こされて追放されたという事件が起こっていたそうです。
 幕府としてはそれを由々しきことと捕らえていたのではないでしょうか。その結果、一色家の影響下にある土豪・国人の勢力を削ぐために石川氏や戸田氏のような三河国外の有力者が呼び寄せられ、松平氏のような一色氏と因縁の無い地元の有徳人が取り立てられたということはあるかもしれません。

 額田郡一揆を平定した戸田宗光は知多半島東岸の富貴・河和に進出します。その後起こった応仁の乱においては戸田宗光は西軍方についたそうです。三河関係で東西両軍を分けて見ますと、東軍は細川成之(三河国守護)、伊勢貞親(政所執事)、西条吉良義真、松平信光。西軍は一色義直、一色政照、東条吉良義藤、そして戸田宗光。基準としては細川につくか、一色につくかということでそれぞれの立場によって敵味方が分かれたようです。吉良氏のように一族の中で二派に分かれてあい戦うことも応仁の乱においては珍しくありませんでした。とはいうものの、三河国における戦闘が実質的にどのような戦況だったのかは良くわかりません。細川氏は複数の国の守護の掛け持ちであり、もっとも利害関係に敏感だったのは吉良氏だったと思われます。義貫の代に三河国守護の座を奪われた一色氏も熱心だったと思われるのですが、一色義直の主戦場は京都であり、一色氏の三河国における拠点渥美郡を治めるための郡代一色政照も京都と三河を往復する有様だったようです。その間隙を縫って三河在国の西軍方部将として活躍したのが戸田宗光でした。碧海郡上野は弟に譲り、自らは知多半島から渥美半島に拠点を設けて転戦します。三河国における応仁・文明の乱は細川・伊勢氏の動きはあまりみられず、一色氏の活動が結構目立っています。1476年(文明 八年)に東軍方守護代東条吉良国氏が、一色氏の攻撃によって自害に追い込まれたり、一色氏が西軍から三河国守護を名乗って、三河守護が東西で分立したりといくばくかの戦果を挙げたようです。
 しかしながら中央の戦況は一色一族にとっては決して芳しくありませんでした。両軍の総大将の山名宗全・細川勝元はともに病死したので、一見引き分けのように見えます。しかしながら、細川勝元の後を継いだ細川政元が当初西軍についていた日野富子、足利義尚母子を抱きこみ、これに危機感を覚えた義視が京を出奔して伊勢に逃れるにいたって、細川派、つまり東軍の勝ちが鮮明になりました。

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