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2008年2月28日 (木)

川戦:『将軍』寺編②法然の法統

 法然が浄土教を浄土宗としてまとめ上げる以前ににも踊念仏の創始者の空也や往生要集を書いた源信などの浄土教に基づく先行事績がありました。源氏物語が語る『もののあはれ』や平家物語で謳われる『諸行無常』も末法思想を背景とした無常観をベースにしたものです。
 それに対して明確な回答を打ち出した第一人者として、法然がいるのだと思います。親鸞は自らが浄土真宗を起こしたという自覚はなく、生涯を通して法然の弟子として行動したといわれています。一遍が空也に倣って遊行を始める以前には、浄土宗の教えを受けていたそうです。
 日本における阿弥陀信仰は数多くの分派を形成しました。それは他力本願の具体的な方法――どうやったら効果的に阿弥陀仏に帰依出来て救済が保証されるのかという方法論――に絶対正しいものがないからに尽きると思います。阿弥陀信仰には浄土宗、浄土真宗、時宗、一向宗その他数多くの宗派があります。浄土真宗の中でも数多くの分派があるように、浄土宗もまた幾つかの分派に分かれています。親鸞を始め、有能な弟子に恵まれたということもあるのですが、法然の教えの何を拠り所にするかによって、弟子たちが分立するのは避けられない所でした。法然の晩年は弾圧にあい、教団そのものを機能的に統制することも難しかったということもあったかもしれません。弟子達は全国に散らばって布教をし(東国に下った親鸞もその一人)、その地で教団を形成してゆきました。
 浄土真宗の開祖となった親鸞の他に、高名な弟子を列記します。
 流罪となった法然の留守中に京で法然の教団を守っていたのが信空という弟子でした。彼は京の黒谷の法然の草庵(金戒光明寺)を師から受け継ぎ教団を維持しました。
 次に九州に布教活動を行った弁長、鎌倉で布教を行った弁長の弟子の良忠。彼らの法統は鎮西派と呼ばれています。証空は法然が流罪中、連座を免れ在京して独自活動をしていたそうです。証空の法統は西山派と呼ばれています。その他、隆寛の多念義派、幸西の一念義派などあってそれぞれが独立した活動をしていたそうです。

 法然が死んだのは1212年(建暦二年)。京都東山の大谷禅坊でした。親鸞の墓が近くにあるのは親鸞は法然の弟子として死に、親鸞の弟子達も師の墓の傍に葬られるべきだと考えたからでしょう。ただ、比叡山延暦寺は墓所を荒らすことも厭わなかったそうです。1227年(安貞元年)には法然の墓所並びにその周辺施設が延暦寺の攻撃をうけています。その翌年、信空は法然の遺骨を抱きながら死んだという逸話が残っています。
 法然の墓所は、当初は信空系の法統が、その後証空系(西山派)の法統が管理をしておりました。その墓所を支配していたのが知恩院です。知恩院はもともとは宇治の平等院を勧請したものであり、寺域は近隣にある長楽寺が管理していたらしい。そこの住持は法然の弟子隆寛(多念義)系でしたが、1227年(安貞元年)に隆寛本人も弾圧を喰らったております。隆寛は同時に天台僧であり、こうした両義的な存在によって、曲がりなりにも法然の墓所は守られていたらしい。

 鎮西派の弁長は九州で布教活動を行い、その弟子の良忠は関東に拠点を作りました。京で諸宗派が勢力争いで消耗戦を戦っている間に、鎮西派は地方の地盤をしっかり固めております。その後で京に進出。その結果、十四世紀の前半に知恩院の住持の座を鎮西派が占めることになりました。その背景として、法然の弟子の一人、源智系の流れが京都に残っており、それが鎮西派と協力関係を無すん田ということがあるそうです。それ故、浄土宗鎮西派の第二祖は弁長と並んで源智の名が連ねられております。
 知恩院の住持には当初は鎮西派木幡流が、後に鎮西派白旗流に引き継がれたとます。東山にある知恩院もまた応仁の乱による戦火にさらされ幾度も焼亡しましたが、その都度再建したと伝えられています。
 信空系の金戒光明寺も知恩院と相前後して鎮西派となり、江戸時代までには鎮西派七大本山の一つになっております。

 1523年(大永三年)に浄土宗総本山をどこの寺にするかで、幕府と朝廷が論争したといいます。朝廷は鎮西派白旗流の知恩院、そして幕府は同じく鎮西派藤田流の知恩寺を推しました。幕府の姿勢に憤慨した青蓮院の尊鎮親王が高野山に出奔するという騒ぎにまで発展しております。少なくともこの時点までは知恩院は浄土宗の総本山ではなかったと言えそうですね。このあたりは他の鎌倉仏教系諸宗派と異なり、どこを中心寺院にするかを朝廷や幕府に委ねているところが浄土宗の特徴的なところだと思います。ちなみにこの時の知恩院の住持は二十五世超誉存牛といい、大樹寺を建てた松平親忠の息子にあたります。これもまた、奇縁と言えると思います。

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