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2008年2月 7日 (木)

川戦:応仁乱編⑧松平信光、安祥奪取Ⅱ

 如光を失った佐々木上宮寺にほど近い安祥城に松平信光が入ったのは、1471年(文明 三年)のことでした。本願寺教団にとっての松平党がこの時点でどうだったのかははっきりとしたことは図りません。しかし、後に石川政康が三男を松平信光の子の親忠に仕えさせている事実。及び、本願寺教団の背後に蓮如の妻の縁で伊勢貞親がいるという仮定にたてば、両者は協調関係にあったと思ってよいでしょう。
 大久保彦左衛門忠教が書いた三河物語に松平信光が安祥城を奪取した時の記述があります。それによると安祥城城下に踊りの集団が現れ、お囃子を入れながら踊りを披露し始めます。それを見物に城兵達が城を出た所を、一軍を率いた松平信光が乗っ取ったと面白おかしく書かれています。踊りの集団は松平信光と結託していたわけですね。この踊りをどのように解釈するか。私は踊念仏を想起します。これは近隣の上宮寺にいた本願寺派門達が踊念仏を披露していたのではないかと思います。蓮如が『自らを一向宗と呼ぶ者は破門する』と門徒達に警告を放つのはもう少し時代が下った頃なので、浄土真宗本願寺派の教義、浄土宗一向派の教義、一遍の時宗で行う踊念仏の区分けが曖昧だったと思われます。
 安祥は後に今川と織田と松平氏が争奪戦をする重要拠点でした。そこを乗っ取れたということは少なくとも主筋にあたる伊勢貞親の承認があったと思われます。その伊勢貞親は細川勝元の東軍方についていましたから、勝元と同属の三河国守護細川成之と図って、三河国内の西軍派の拠点を潰しにかかっていたのだと思われます。三河国における西軍派は渥美分国守護の一色義直です。応仁の乱に乗じて三河制圧を画策したようです。守護代の吉良氏は東西に分かれて戦ったとされています。
 恐らくは安祥も西軍の拠点の一つだったのでしょう。また、額田郡一揆では牧野・西郷氏が守護の命令にもかかわらず、一揆鎮圧に失敗しているところを見ると親西軍だったようです。西郷氏は松平信光が安祥を責めた文明三年から文明十八年までの間に、拠点とする岡崎を失い、菱池近くの大草という在所に逃れます。そして松平氏と和議を結び岡崎には信光の息子の光重が西郷氏の養子として入り同じく乗っ取りを果たしました。吉良氏と並んで三河国守護代を勤めた西郷一族は松平一族の軍門に下ったということですね。この岡崎松平氏は後に松平清康に岡崎の地を追われ、西郷氏と同じ大草に移ります。この大草松平氏は後、三河一向一揆の時に一揆側として参戦します。この当たりを考えるに、安祥の時と同様岡崎奪取にも本願寺派が関わり、松平光重を祖とする岡崎(後の大草)松平家もどこかの時点で本願寺派になっていたと思います。
 松平一族の宗旨というと浄土宗鎮西派というのが通り相場ですが、信光が信光明寺を建てるまではこの宗派の名前が出てきておりません。親氏は時宗僧でしたし、泰親は若一山王という社を祀りました。信光自身も信光明寺、妙心寺という浄土寺の前には臨済宗の萬松寺という寺を建てたりしております。深溝松平氏の菩提寺も臨済宗でした。この当時の松平一族の宗旨は一貫しておらず、あまり頓着されていない感があります。であるならば、松平光重が本願寺教団に帰依していたとしても特段の不思議はないだろうと思われます。

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