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2008年2月14日 (木)

川戦:応仁乱編⑨戸田宗光Ⅱ

 その機を戸田宗光は機を逃しませんでした。西軍方根拠地である渥美半島の田原を攻め、そこにいた一色政照を渥美郡の大草という地に流し、自らは一色政照の養子分として渥美郡の支配権を得たのです。大草という地名は松平信光が岡崎の西郷氏を攻めて大草に流し、息子の光重を岡崎を支配させたことと被りますね。たった二例で判断するのは早計と思いますが、大草という地名は『流刑地』という意を含んでいるのではないかという感があります。おそらくは、松平信光による岡崎侵攻もこの前後なのではないかと思います。
 この頃までに西軍の東条吉良義藤は三河国を出奔したのか、消息は無くなり、一色義直も三河国の放棄を宣言して、三河国における応仁・文明の乱は収束しました。

 寛正の額田郡一揆から応仁の乱の間、戸田宗光は知多半島から渥美半島にかけて転戦して勢力を広げたわけですが、その行動には船の存在が不可欠だったと考えられます。額田郡一揆においても、戸田宗光がいた碧海郡上野から、丸山氏を討ち取った大平へは矢作川・乙川という水路で繋がっております。戸田宗光は川船を使った機動戦術を得意としていたようですね。
 応仁乱期の本願寺教団が東西どちらについて、誰と戦ったのか、もしくは戦わなかったのかという記録は不勉強にてわからないのですが、恐らくは松平信光と同じではないかと思われます。信光は東軍についたと言われ、安祥・岡崎を攻略しました。この二拠点は矢作川・乙川で、額田郡一揆での深溝もそれらの川と水路で繋がっていたと思われます。そして、松平信光の娘は戸田宗光の妻でした。
 この後、本願寺教団の拠点である大浜・佐々木・針崎・土呂は水上交通運輸で大いに栄えたと三河物語にあるとおり、三河湾の出口を押さえていた戸田氏との関係は良好だったと考えられます。後年、三河一向一揆に戸田の一族から戸田忠次が一時的に一向一揆側について佐々木上宮寺に籠ったそうです。一揆方との折り合いが悪くなってすぐに家康側に投降したとされていますが、一揆方についた一門衆がいたという事実自体が、戸田氏と本願寺教団との関わりを示しているのではないかと思われます。

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