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2008年2月 5日 (火)

川戦:応仁乱編⑧松平信光、安祥奪取Ⅰ

 前稿で、応仁二年に土呂の地に本願寺教団の三河国における根本道場として、本宗寺が立てられたことをかきました。では、なぜ土呂の地なのかを考えてみたいと思います。蓮如が元々いた大谷本願寺を除いて、彼が寺地として選ぶ場所には二つのパターンがあるように思われます。一つは石山本願寺や吉崎道場のような川の河口。もう一つは京と琵琶湖を結ぶ位置に建てられた山科本願寺のような交通の要衝。では、土呂はいずれに該当するのでしょう。少なくとも、河口の立地ではありません。交通の要衝としての意味づけはどうか考えて見ます。河口の街としては、如光の生まれ故郷である西端があり、蓮如はそこを拠点として三河布教を行いました。にもかかわらず、西端あるいはその近辺の鷲塚、大浜を外して土呂を選ぶには理由があったと思われます。それを推察してゆきたいと思います。

 土呂は岡崎市といっても南部にあり、なおかつ矢作川の流れからは外れた所にあります。そばを砂川、占部川が南北に並行して走っております。現在の地図では確認できないのですが、その当時は岡崎あたりの矢作川もしくは、乙川とつながっていたと推測しています。北側には三河三ヶ寺の一つ、針崎勝曼寺がありました。南は今は干拓されてなくなっている菱池(岩堰)があり、さらにその南には松平家が新たに手に入れた深溝の地があります。岩津の松平信光が、深溝を経営するためには、好むと好まざるに関わらず何らかの形で本願寺教団がかかわってくる状況であったと考えます。
 後に蓮如が三河の上宮寺のために作った『如光弟子帳』には菱池近辺にも本願寺教団の拠点があったと書かれているそうです。そればかりか、能見・丸根など松平一族が進出した岩津近辺の拠点や、戸田宗光が依った上野(現在の豊田市あたり)近辺にも本願寺教団の道場があることがうかがえます。(参考文献を確認していないのでこの程度の表現でご容赦)以上を総合して、松平党と本願寺教団は少なくともある種の協力関係を取り結んでいたということが出来そうです。屋上屋を重ねた推察であることは承知しておりますが、今後の課題として調べてゆきたいテーマです。

 如光が死んだのは、土呂に寺を建てることが決まって間もなくの頃です。縄張りを作り、土地を突き固める情景がそこかしこで見られた頃だったのでしょう。
 蓮如が三河を立ち去り、それを見送った如光が上宮寺に戻りました。そこに如光の生まれ故郷である西端の村人が如光に面会に来たのです。彼らは如光に佐々木上宮寺を離れて西端に戻ることを勧めます。蓮如が三河に滞在した時、その根拠地としたのは如光の生まれ故郷である西端でした。その余燼を受けて俄かに西端も活況を帯びたのでしょう。蓮如が去って、活気を喪うことを惜しんだ西端の村人達が如光に地元に戻ることを懇請した模様です。上宮寺のある佐々木から、油が淵の西端までの道の途中で如光は失踪します。上宮寺に我、生誕の地に戻るとの書置きを遺しながら。
 本願寺教団は本宗寺を本気で大刹にするつもりだったようで、蓮如の孫を住持に据えたりしております。ひょっとしたらここで如光が失踪しなければ、蓮如の活動拠点は吉崎ではなく、この本宗寺だったかもしれません。如光がいなくなった上宮寺には如光の妻が住持を継ぎ、その妻に蓮如と如光が並びたつ画像を送り、上宮寺の権威を上げ、上宮寺にはのちに蓮如の甥を送り込むなど教団の結束強化をはかっております。本願寺教団が如光を失ったダメージは決して小さくなかったでしょう。

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