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2008年3月27日 (木)

川戦:『将軍』寺編⑩超誉存牛

 本編の最後に、浄土宗の開祖法然から、大樹寺開山の勢誉、そして松平親忠の子である超誉存牛に繋がる法脈を紹介します。間違っている所も多々あるかもしれませんが、その辺はご容赦の程。

 法然――弁長(鎮西派)――良忠――良暁寂慧(白旗流)――+
                                       |
 +―――――――――――――――――――――――――+
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 +―+―仏蓮社良誉定慧
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    +―蓮勝永慶(常陸国太田法然寺)――酉蓮社了誉聖冏――+
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 +―――――――――――――――――――――――――――+
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 +―+―嘆誉良肇(飯沼弘経寺)―+―周誉珠琳(知恩院二十二世、新知恩院)
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    |                 +―慶善了暁――勢誉愚底(大樹寺、知恩院二十三世)
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    +―大蓮社酉誉聖聡(増上寺)――釈誉存冏(増上寺、信光明寺)―+
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 +――――――――――――――――――――――――――――――+
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 +――肇誉訓公(信光明寺、知恩院二十四世)――超誉存牛(信光明寺、知恩院二十五世)

法然は親鸞はじめ、多数の弟子を育てました。そのうち、最終的に浄土宗の主流となったのは弁長系の鎮西派でした。弁長は他の弟子たちが京都で活躍したのに対し、九州に布教の拠点を求めました。西に布教に行ったから鎮西派なんですね、多分。同じやり方で親鸞系の浄土真宗も強力な教団に成長しましたからこの戦略は結果として正しかったのでしょう。
 弁長の弟子良忠は関東に布教活動を行いました。総じて関東は熱心な信徒が多いみたいですね。真宗の仏光寺派ももともとは関東の門徒達が都で活動したことを端に発していますし、日蓮の布教も関東中心でした。
 良忠は関東の有力御家人の千葉氏の庇護を受けて布教に励み、多くの弟子を育てました。鎮西派の中から幾つかの分派をだしています。弟子の良暁寂慧は白旗流という分派をうみだしました。他には木幡流、三条流、一条流、藤田流、名越流などがあります。白旗流はこの後蓮勝永慶、酉蓮社了誉聖冏と続きます。了誉聖冏は鎮西派の教義を整備したと言われております。彼の弟子、嘆誉良肇が飯沼弘経寺を、大蓮社酉誉聖聡が増上寺を建てました。飯沼弘経寺は常陸国にあり、多くの優れた僧侶を育てた寺院で、開山の嘆誉良肇の弟子、周誉珠琳がついに浄土宗鎮西派白旗流の京都進出を果たし、知恩院二十二世住持になりました。但し、この頃の知恩院は法然の廟所をもととした寺院として尊重されてはおりましたが、現在のような浄土宗総本山という位置づけではありません。さらに悪いことに、それからしばらくして勃発した応仁の乱によって、東山大谷に会った知恩院は焼失してしまいます。周誉珠琳は寺宝を琵琶湖をみおろす近江国伊香立に避難させました。その地に現在は、新知恩院という名の寺院が立っております。その伊香立という土地のすぐそばに堅田という港町があります。周誉珠琳が伊香立に移った前後に、比叡山延暦寺が堅田の土地を焼き払うのですね。堅田は本願寺教団と縁が深く、大谷を追い出された蓮如を匿ったりしていて比叡山延暦寺には目の上のたんこぶのような存在でした。その堅田の者が室町殿の荷を横領したとかという事件がおきて、幕命により比叡山延暦寺が堅田を攻めたのです。堅田衆は琵琶湖の湖上流通を一手に引き受けておりましたから、おそらくこれによって湖上水運は大混乱に陥ったと思います。
 避難先で騒動にあって周誉珠琳はさぞや困ったことだろうと思いますが、他に確実に困っていただろう者もこれまでの話の中で出しております。在京の松平氏。北近江の菅浦・大浦の代官を勤める松平益親と勝親親子です。このあたりは完全に想像ですが、ここで周誉珠琳と松平益親らが接触することによって、三河国における浄土宗鎮西派白旗流の勢力が大きく増したのではないかと思います。というのは、周誉珠琳は京を焼け出されましたが、復帰するためにスポンサーを欲していました。それに選ばれたのが松平一族だったのではないでしょうか。
後に知恩院二十三世住持となった勢誉愚底にとって周誉珠琳は師の兄弟弟子に当たります。松平親忠から知恩院の復興資金が勢誉愚底経由で周誉珠琳に渡っていたとすれば、京から遠く離れた三河にいる勢誉愚底に知恩院住持後継の話がふって湧いてもおかしくありません。
 釈誉存冏も飯沼弘経寺で修行をしていた時期があったようです。彼は早い段階で松平信光を大旦那にして信光明寺を建ててました。但し、信光の宗旨に対するスタンスはいささか怪しいものです。そこで、浄土宗鎮西派白旗流に心のある親忠の息子、超誉存牛を信光明寺に入れました。彼は後に知恩院二十五世住持になりますが、彼に英才教育を施し、知恩院の住持にすることによって松平惣領家からの支援も強化しようという意図があったと思うのはかんぐりすぎでしょうか。
 知恩院の住持となった超誉存牛は時の帝の厚い帰依を受けたと言われております。そして、本編の最初に触れたとおり、浄土宗総本山をどこにするのかという論争がおきました。この時、知恩院を推したのは朝廷の方でしたから、超誉存牛がいかに厚い信頼を得ていたかということを窺えると思います。

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2008年3月25日 (火)

川戦:『将軍』寺編⑨考察……のようなもの

 以下、個人的な妄想です。所々に根拠が全くないセンテンスがあって、考察とは呼べないものですが、大樹寺開山の経緯を自分なりに考えて見ました。

 自分は親忠は額田郡一揆の衆に深いつながりをもっていて、親忠は井ノ口砦陥落後に彼らを匿ったのではないかと思ってます。井ノ口で行われている事業、それは多分流通なのだと思うのですが、そこに親忠自身も携わっていた。それ故、一揆勢の言い分も理解できたし、一揆鎮圧後井ノ口あたりの支配を任されたのではないかと思います。松平一族は結局守護・政所執事側について一揆鎮圧をしましたが、それは親忠の負い目になったのではないでしょうか。だから、親忠は塚や堂をたて、勢誉に供養をさせました。
 勢誉は、親忠の依頼を受けて念仏堂(後の西光寺)を建てますが、関東で修行をしていた彼が三河国にいる目的は西三河に浄土宗鎮西義白旗流の布教拠点を作れと、出身寺院である弘経寺から要請されていたのだと思います。念仏堂のような慰霊の為の施設ではなく、蓮如が土呂に建てた本宗寺のような本格的布教拠点です。
 すでに岩津松平家には勢誉愚底の同門の釈誉存冏が入り込んで信光明寺を作っておりました。しかし、別に浄土宗西山深草派の妙心寺の大旦那も兼ねているなどしていて、どっちつかずの感じがあります。後に両方の寺に願文を奉じ、一族・子孫に『浄土の真宗(妙心寺願文)』もしくは『浄土宗門(信光明寺願文)』に帰依させると書いております。両方とも浄土宗の寺ですが、どちらの宗旨の事を言っているのかわからないですよね。鎮西派? 西山派? はたまた浄土真宗である可能性すらあります。

 そこで、勢誉は親忠に働きかけたのでしょう。但し、惣領の岩津松平家は嫡男親長が在京とはいえ、入道信光が岩津にいてあまり目立ったことはできません。そこで親忠の鴨田の屋敷内に草庵を作ってもらったのが大樹寺の始まりなのではないかと思います。親忠は間もなく安祥の城を譲られましたが、鴨田の屋敷はそのまま使っていたのでしょう。
 信光が死んだ後も、親長が三河に戻ってきた形跡はありません。親忠は兄の名代として家の経営を行うことになりました。このときまでに親忠は出家をして西忠と名乗っています。おそらくは信光が老齢のため、実質的に家の経営ができなくなった頃にすでに出家をしていたのでしょう。あくまで自ら与えられた家政を任せられた者としての権限の中で。親忠の遺言状に見られる律儀さを考えると、それくらいの慎重さはあるように思われます。もちろん、剃髪は大樹寺で行いその為の寺として認めさせた。それゆえ、大樹寺文書は実質的に文明十七年以降の文書しか残っていないのです。(1460年(長禄四年)付の文書はあるものの、その文書は直接的に大樹寺には絡んでいないもので、大樹寺の寺号は記されておりません)

 彼の発心の動機は額田郡一揆の戦没者の慰霊。額田郡一揆の首謀者達は室町殿に対する反逆者として処罰された人々です。それ故彼らのことを公に取り上げれば、親忠はそこで何をやっていたのかが問われかねない。(このあたりのくだりは妄想が激しくなっておりますのでご注意ください)
 額田郡一揆の武力鎮圧は事態の根本的な解決には至りませんでした。それ故、応仁と明応(もしかしたらどちらか一回だけかもしれません)に周辺の土豪・国人が井田野を襲いました。彼らが岩津や安祥を襲わず、井田野に入ったのはそこに攻略目標があったからでしょう。それは、実質的に松平家の家政を司った松平入道西忠の屋敷としか自分には思いつきません。但し、それはそれほど大規模なものではなかったと思います。三河物語はじめ多くの史書が額田郡一揆や応仁・明応の井田野合戦をスルーしておりますから。(そんな中で徳川家康の厭離穢土欣求浄土旗を巡る話が親忠の井田野合戦を取り上げているのは本筋とは離れた部分で興味深いのですが)
 自らの埋葬地を(私の妄想の中では)額田郡一揆の戦没者の眠る魂魄野に指定したのは、親忠の意思だったと思います。しかし、それを遺言状に書かなかったのは、やはり額田郡一揆縁の場であることを遠慮したためだと思います。大樹寺に置かれたのは位牌でした。その事は1501年(文亀 元年)の松平一族連署禁制に明記されています。大樹寺は親忠死後の大樹寺の保全を求め、それに応えたのがこの文書です。親忠の後を継いだ息子の長親は相続後間もなく出家して家督を信忠に譲っております。これもまた、想像ですが、親忠が鴨田にいる間は、長親が安祥を守っていたのではないかと思います。それ故、親忠の死後自らが出家し、鴨田の屋敷に入りました。松平一族連署禁制と物々しい文書名がつけられていますが、ここに書かれているのは、大樹寺は親忠の『位牌所』だから狼藉するなということと、狼藉者は松平一族で処罰することを簡単に約した文書です。この文書の署名者は岩津家をはじめとする三河在国の松平諸家(但し惣領は不在)の人々であり、長親・信忠ら安祥家の者の名前はありません。これは安祥松平氏の鴨田の拠点が大樹寺とほぼ重なっていることを意味しているのではないかと思います。
 親忠死後は長親が大樹寺に入り、信忠が安祥を担当する形になっていたのではないかと思います。親忠も自らの死後、隙を作るといけないので初七日が終わったら信忠は安祥に帰れと言い残していますので、そういった役割分担だったのでしょう。
 ただし、この細やかな対応も圧倒的な今川勢の侵攻によって覆されます。圧倒的な兵力で攻め込まれ、大樹寺は占領されてしまいます。長親も安祥勢を率いて抵抗しますが、結局岩津惣領家に壊滅的な打撃を受けてしまいました。ただ、運の良いことに、今川勢は叩くだけ叩いて引き上げたということです。もちろん、何らかの条件を残していったと思います。
 勝者による幾つかの制限の中で、大樹寺を復興させました。しかし、昔日の松平一族ではありません。惣領家による統制が失われたという現実に安祥松平の長親・信忠は対応せねばなりません。そこで、長親は大樹寺を復興させました。既に岩津惣領家は力を失っております。故にこの寺は安祥松平親忠の菩提寺であることを堂々と宣言できるようになりました。
 それだけではありません、長親と信忠の署名のあるこの大樹寺格式という文書では、親忠の子孫は男女の区別なく、大樹寺に帰依するようにと命じています。信光の願文における『浄土の真宗』、『浄土宗門』といった曖昧な書き方ではないことに注目して欲しいのです。長親は一族統制の中心地として大樹寺を利用しようとしたわけです。そのために必要としたのは井田野を防衛しきった英雄の物語です。それに成功した親忠を寺伝の中で顕彰することで、安祥松平家の権威を高めようとしたのではないか。そんな風に考えております。

 ここまで大樹寺を取り上げてきましたが、結局の所『将軍』寺となってしまうような寺号の事情がつかめなかったのは残念です。今後の研究課題にしてゆきたいと思います。但し、大樹を菩提樹からとったという説は少し信じがたい。というのは、菩提樹の木の下で悟りを開いたのはゴータマシッダールタ、釈迦如来だからです。大樹寺の宗旨は浄土宗であり、開山の勢誉は知恩院二十三世住持まで勤めた浄土宗の僧であり、宗旨替えの形跡も見られません。そして、浄土宗の本尊は阿弥陀如来です。浄土宗で釈迦如来を排斥しているわけではないでしょうが、寺号は教義にちなんだものか、大旦那の意向が反映されるのが通常のパターンです。いかなる事情があるのかについてはおりに触れて調べてゆきたいと思います。

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2008年3月20日 (木)

川戦:『将軍』寺編⑧永正三河乱

 永正年間ともなると、もう戦国時代真っ只中です。応仁の乱以後、京がどうなったかざっと触れます。細川勝元と山名宗全が死に、将軍家後継候補であった足利義視が都から退転することによって、応仁・文明の乱は終了します。地方に戦火は飛び火したものの、細川勝元を継いだ政元が足利義尚を奉じた体制を作り、実質的に京は東軍が制した形になりました。戦後復興、秩序回復のために足利義尚は征討の軍を催したのですが、近江国鈎(まがり)にて急死します。この突然死によって政局はまた混乱しました。事態の収拾を図った細川政元と日野富子は窮余の一策として、流亡中の足利義視の子、義材を将軍に擁立することにしました。極めて政治的な判断ですが応仁文明の乱以後の大混乱を鑑みるに、無定見の謗りは免れないでしょう。義視も京都にもどって義材を後見しました。しかし、細川政元・日野富子との関係修復は結局失敗に帰し、まもなく細川政元がクーデターを起こして、義材を追放しました(義視は既に死去)。これを明応の政変といい、歴史研究者の中には応仁の乱ではなく、この政変をもって戦国時代の開幕をいう人もいます。時に、1493年(明応二年)。明応の井田野合戦はこの年に起こっており、明応の政変との関連に言及する研究者の方もいらっしゃいますが、関係性については別稿でふれます。
 戦国時代とそうではない時代の違いは何か。在野の有力者が勝手に軍を催し、近隣領主の領土を蚕食しても咎め立てる権威はすでに存在しないということです。寛正の額田郡一揆では管領畠山氏が狼藉を咎め、細川成之が討伐軍を送って一揆勢の籠る砦を陥としています。しかし、もはやそうした制限はありません。故に、各国の有力者は力を蓄え自立し、他国に侵攻して自らの勢力を大きくしてゆきます。この有力者たちのことを戦国大名と呼びます。

 戦国大名として初めて三河国に侵攻した外勢は駿河の今川氏親でした。彼は応仁文明の乱中に起こった家督相続争いに勝ち残り、斯波義敏が守護だった遠江国を奪取します。氏親の相続争いから外征を主導したのは伊勢宗瑞。後の北条早雲です。松平信光、戸田宗光の主君である伊勢貞親の一族で、貞親・貞宗の意をうけて、細川政元派強化のために今川氏の家督争いに介入し、そのまま氏親の軍師として采配を振るっておりました。この氏親・宗瑞に接近したのが戸田憲光(戸田宗光の子)。彼は東三河吉田(豊橋市)を根拠とした牧野古白と対立しており、今川氏の支援を受けてここを攻め落としました。時に1508年(永正三年)。

 東三河の有力者である牧野氏を攻略したそしてその次のターゲットが松平一族でした。牧野氏を攻略した今川氏親は伊勢宗瑞を先鋒に、東三河国人勢、遠江勢、そして三浦、朝比奈、瀬名、岡部、山田ら今川旗下の部将が西進しました。北方からは奥平氏が呼応して南進したといいます。かれらは乙川の対岸に岡崎への押さえをのこして大樹寺を占拠。そこを根城に岩津を攻めました。その救援に向かったのが安祥の松平長親です。彼は手勢五百を率いて矢作川を渡り、井田野に充満する今川勢と戦いました。戦闘は丸一日続き、夜半に入ったので、長親勢は矢作川対岸に引き上げました。この戦いを永正の井田野合戦といいます。

 この後の展開が極めて判りにくいのですが、この戦いの後、伊勢宗瑞は軍を引きます。戸田氏が背反の動きをみせたとか、言われていますが結果として松平一族は生き残りました。ただ、少なからずダメージは残っていたものと思われます。今川勢は岩津を攻めたと言っておりますが、ここで岩津を守った惣領の名前は記録に現れていません。その前の牧野古白を討ち取った今川氏も牧野一族を全滅させたわけではなく、松平攻めに生き残った牧野一族の者を帯同させております。ここで岩津の惣領が討ち取られた可能性があると仰る研究者の方もおられます。三河物語はこの合戦は松平方の勝利で、この後三河国の者で長親に逆らうものはいなくなったと言っておりますので、惣領である岩津家は回復不能なダメージを負ったと考えていいのかもしれません。

 大樹寺は今川勢に占拠され大破したといいます。その復興を行ったのは開山の勢誉と大樹寺三世の住持となった雲誉でした。勢誉は今川勢が三河国に侵攻していた頃、知恩院二十三世住持となり、在京していたのです。勢誉が知恩院住持として在京していた事情については、次項にまわすとして、大樹寺開山のエピソードが日付が付いた文書で出てきたのが、1513年(永正 十年)7月10日付けの『大樹寺格式』です。これが初めてなのです。
 ここには応仁の井田野合戦の亡霊の話は出て来ず、あくまでも松平親忠の菩提を弔うための寺であること、松平親忠の子孫はこの寺に帰依することが勢誉、雲誉、長親、信忠の署名付きで書かれています。しかしながらこれをもって、応仁、もしくは明応の井田野合戦と大樹寺は関係ないと判断するのは早計ではないかと思うのです。
 大樹寺は永正の井田野合戦で破壊された寺を復興させたものです。その戦いが三河物語が言うような『勝利』でないとすれば、復興のありようは勝者である今川氏に配慮したものになるのではないでしょうか。
 この後、今川家でお家騒動があり、三河国における今川氏の影響力は著しく下がります。大樹寺の寺伝に残る井田野合戦とその戦死者を祀った話はその文脈で語られたものなのではないかと思われます。そでも遠慮があったのか、祀った対象は永正の井田野合戦ではなく、応仁の井田野合戦の戦死者の話に振りかえられています。しかし、このエピソードがアピールする所は井田野を守れる者は惣領である岩津松平家ではなく、安祥松平家であることであり、安祥松平氏を中心に一族の結束すべきと呼びかけたものになるでしょう。その真なる対象は言うまでもなく、駿河の今川氏です。今川氏にとってあまり面白くない話ですし、律儀な三河人に伝わる伝承であるなら、そういうところに配慮された、というのは十二分に考えられると思います。

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2008年3月18日 (火)

川戦:『将軍』寺編⑦魂魄野

 現在、松平親忠の墓は大樹寺域内にあるのですが、本来の葬地は井田野合戦の戦没者を祀った魂魄野にあったそうです。今の墓所は江戸時代に入り、大樹寺が改修され、松平歴代の墓が整備された時のものらしい。当然、徳川将軍家の意向に沿うものでしょう。井田野合戦の戦没者を祀った千人塚のあった場所で、念仏堂が建てられた場所であることは重要な点かと思います。
 大樹寺には松平親忠の遺言状が残されているのですけど、この文書は親忠の性格を示すものなのか、大変細かい記載でに満ちております。自分が死んだら一族を大樹寺に集めることから始まって中陰の法事を何日間にするのか、初七日、四十九日の法要、百か日の法要と事細かに記されています。寺側が用意したテンプレートに沿ったものかもしれませんが、それぞれの儀式には一族の誰を呼んで、いつ返すべきなのかとか、この遺言は一族の誰に披瀝しておくべきかを端裏に書いてあって、単純なテンプレの適用ではなく、親忠本人による実に用意周到な心配りがなされていることがうかがえます。この細かさは徳川初代将軍家康の遺言に匹敵するかと思われます。
 但し親忠の遺言には家康のそれと比較して大きな違いがあります。それは埋葬地をどこにするのかについて何も書かれていないことです。家康の場合、遺体は久能山。葬儀は 芝・増上寺。位牌は大樹寺。一周忌が過ぎたら日光山に小さい堂を建てて祀ること。自分は 関八州の鎮守になる。という風に自分の埋葬のされ方まで事細かに述べています。
 親忠の場合は普通に読めば大樹寺の寺内としか解釈できないのですが、実際には魂魄野に葬られています。井田野合戦ゆかりの場所に葬るのだとすれば、そこには親忠の明確な意思があったはずと思料します。実に細やかな、執行する側にとっては煩わしくすらある遺言に埋葬地についての記載がありません。そこはおそらくもと千人塚のあった念仏堂が建てられた西光寺だったと思われます。当時の寺域は今よりも大きいかもしれませんので、西光寺もまた大樹寺の域内だったとも考えられます。しかしながら、そこは井田野合戦(真意は額田郡一揆だったと私は考えています)の戦死者の亡霊が祀られた場所なのですね。親忠という個人を祀るには余り適切だとも思えません。

 親忠が魂魄野に葬られた意味は二つ考えられると思います。一つは、親忠自身の戦死者に対するシンパシーです。前にも書いたとおり、親忠には額田郡一揆をかばった可能性があります。にもかかわらず、父信光は一揆勢を裏切って掃討にかかりました。その負い目が親忠をして、そこに葬らせたという可能性です。
 もう一つは、自らが祭られることにより、その地に災いをなす怨霊・悪神の類を鎮める鎮守の神となるという発想です。日光東照宮には、主神である東照大権現、すなわち徳川家康の傍らに源頼朝と豊臣秀吉が祀られています。家康は生前、豊臣家の社稷であり、豊臣秀吉を祀った豊国大明神を破却しました。そのような行為は悪縁を招きかねないのですが、日光東照宮にともに祀ることによって、慰霊をなしたのですね。

 もし、額田郡一揆勢への弔意によるものだとすれば、それは文書に残せないものだったでしょう。彼らは反逆者として処刑されたのですから。また、井田野合戦のようにいつ周囲の諸族が侵入するのかわからない状況です。その為に遺族に一族一揆を組ませ、大樹寺に一丁事あれば防衛する取り決めを結んだのでしょう。
 ただ後者もありだとは思います。それは親忠の生前の意志よりも、遺族達の繁栄のための方にウェイトがかかった動機です。井田野はそれまで何度も侵攻を受けていました。その禍の地を親忠を祀ることによって災厄を避けようという発想です。井田野は親忠の代だけではなく、その後も幾度か戦場となっております。親忠の子の長親の代にも井田野の戦いは起こりました。この時、大樹寺も戦場となり占領され、破壊されております。その戦後再建を果たした時に書き遺された文書が『大樹寺格式』です。所謂大樹寺開山の事情はこの文書に拠っております。三河物語は今まで語ってきた額田郡一揆、応仁の井田野合戦、明応の井田野合戦については言及しておりません。長親の代の井田野合戦になって初めて触れているのですね。この合戦につきましては次項で少し触れます。

 いずれにせよ、魂魄野に葬られたということは故人の意思があったはずです。にもかかわらず、遺言状にはそのことが一言も触れられていないのですね。これが他の人物なら気にしないのですが、葬儀・供養の仕方を極めて微細に書き残した人物が自らの葬地に何の言及もしていないというのは信じがたい。それもまた大樹寺をめぐる不思議の一つだと思います。

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2008年3月13日 (木)

川戦:『将軍』寺編⑥厭離穢土欣求浄土

 今回の語りだしは徳川実記にも書かれている記事から。井田野合戦の時に勢誉が親忠のために『厭離穢土欣求浄土』と白布に墨書した旗を親忠に持たせて戦わせ、戦に勝利したという話があります。話自体は、大坂の陣を扱った難波戦記のエピソードが元になっています。難波戦記というのは江戸初期にできた講談のネタ本で、軍記語りが出陣する武将達の武装を朗々と解説するくだりなんですね。当然脚色も多いのです。曰く、徳川家康が大坂夏の陣に箱におさめた旗を用意したと。そこには白布に『厭離穢土欣求浄土』と書かれた四半の旗が入っており、その由緒は桶狭間合戦で負けた家康(当時は松平元康)が大樹寺に逃げ込んだ時、追撃をくらいそうになりました。追い詰められて自刃を考えた家康を諌めた時の大樹寺の住持、登誉がこの旗を示して家康の喪失した戦意を取り戻さしめたという逸話が入ってます。この娑婆(しゃば)世界を穢(けが)れた国土(穢国)として、厭い離れ、阿弥陀仏(あみだぶつ)の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味になります。
 ネガティブに読めば、ニヒリズム漂う、厭世的な標語ですが、ポジティブに解釈すれば、現世を浄土とすべく努力せよという解釈もかのうなのですね。無論、登誉が進めたのはポジティブな意味です。そのような佳例、つまりラッキー・シンボルを縁起かつぎのために戦場に持ち込むというのはありそうな話です。三河物語にもこの旗なのかどうかはわからないのですが、『(箱に?)納めの御宝憧の御旗』という表現で出てきますから、あながち根も葉もない話とは言い切れない部分のある話です。これが江戸中期になるとどんどん脚色されていって、幕末近くに編纂された徳川実記には、この起源が井田野合戦で親忠と勢誉にありとぶち上げることになりました。徳川実記というのは江戸幕府の一応公式記録ということになっています。徳川将軍家創業の記録として公に認められたエピソードなんですが、信憑性は限りなく怪しいというところでしょう。

 この脚色で言う井田野合戦とは、前に語った応仁の井田野合戦ではなく、明応年間に起こったものだと思われます。1493年(明応 二年)10月に、岩津からみて矢作川上流の土豪・国人達が井田野に上陸し、松平勢と合戦になりました。松平勢は親忠が率いて勝利したというのが明応の井田野合戦のあらましです。
 敵勢は加茂郡伊保の三宅氏、挙母の中条氏、、寺部の鈴木氏、八草の那須氏、碧海上野の阿部氏などの加茂碧海国人連合軍です。上野は信光の婿である戸田宗光の根拠地でしたが、彼はこの地の代官職を弟に譲って、自らは知多、渥美郡の方に根拠地を移しました。その後の上野の戸田氏の消息は追えてませんが、三河湾沿岸に根拠地を移したと思われます。代わりに名前が出ている阿部氏とは、阿部満五郎といい、大将格の人物です。松平清康、広忠の代に家老となった阿部大蔵定吉と縁のある人物なのかもしれません。その根拠地となった碧海郡上野(現在の豊田市上郷)は矢作川を挟んで岩津の対岸にあるのですが、そこではなくわざわざ下流にある井田野に集結したわけですね。
 ただ、よく判らないのは何で井田野に向かったかです。松平氏を相手にするとすれば、ますは岩津に向かうべきだと思います。また、この時点で松平信光は死んでおり、惣領の親長は在京しているとみえて、記録に名前が残っておりません。であるならば、親忠のいる安祥か、親貞(光重の子)のいる岡崎(現明大寺町)を狙うべきと思われるのですが、彼らは井田野に向かいました。
 唯一合戦の経緯が書かれている三州八代記古伝集によれば、その結果岡崎(経由か?)から北上してきた親忠勢と南下した岩津勢の挟み撃ちにあって総崩れになったといいます。
 仮にこの合戦で、加茂郡碧海郡の国人連合したとして、この後北上するのは迂遠であるように思われます。大樹寺のある井田、鴨田近辺に攻略すべき目標があったと考えるのが自然かと思います。そこは安祥に移った松平親忠の所領のある場所であり、実質的な家政はここで見られていた考えるのは穿ちすぎでしょうか。後年、永正年間に今川氏親が伊勢宗瑞(北条早雲)に西三河を攻めさせたときに真っ先に攻略したのが大樹寺でした。

 この時までに松平親忠は惣領代行としての立場を固めていたと思われます。それ故、国人連合のターゲットとされたのでしょう。そして、惣領を差し押さえてこの地を統括する為に、家臣団を組織しました。その手助けをしたのが、本願寺教団です。この時点では石川親康の代になっておりますが、兄康長とはかって野寺本証寺の門徒を組織して安祥に入れました。これは佐々木上宮寺の勢力をバックアップする目的もあったかと思われます。親忠は本願寺門徒集団の力を背景に一族の中に発言権を得、それと大樹寺防衛を名目に一族の結束をとりまとめました。親忠の死の直後に出された一族の連判状に大樹寺を結束して守ることが誓われています。親忠は庶流の立場で一族をとりまとめ、同時に他宗派の力を借りながら全体を大きく見せるという離れ業を演じました。極めて政治的な力量に優れた人物だと言えるでしょう。冒頭の『厭離穢土欣求浄土』のエピソードはこの井田野合戦において、大樹寺近辺が守られるべき重要拠点であったこと、その出典が源信の往生要集にあり、法然・親鸞に共通する教えであることも踏まえた後世の史家達が付会したものだったのだと想像します。

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2008年3月11日 (火)

川戦:『将軍』寺編⑤大樹寺創建

 さて、前回の応仁の井田野合戦から長い前振りでしたが、このエピソードが井田野合戦を祀った親忠と念仏堂で慰霊を行った勢誉愚底の二人が、念仏堂の近くに大樹寺を建てたという記述につながっているのです。
 文脈から言えば怪異を起こす亡霊を慰めるほどの功徳をもった高僧が、松平親忠のために寺を建てたという図式になのでしょう。勢誉愚底は浄土宗鎮西派白旗流の弘経寺で修行し、岩津から矢作川を遡った宇祢部という地にある福林寺の住持でした。

 大樹寺の創建がいつなのかについてははっきりしていません。1513年(永正十年)にかかれた大樹寺格式という文書に従えば、書かれた時点で開山して三十年以上経ているとの事です。単純に考えて1483年(文明十五年)以前ということになると思われます。文書上の初出はその二年後の1485年、(文明十七)年に大炊介正則による大樹寺への寄進状にあるのですが、確実なセンをもってくるなら大樹寺の寺伝の言う1485年(文明七年)からこの年までの十年間のどこかということになるでしょう。
 松平親忠はその時までには、安祥の城を父信光から任されております。小川の石川政康の息子の親康が彼を助けることになりました。安祥は上宮寺のある佐々木に程近いところにあり、安祥の地を治めるためには本願寺教団の協力が必要だったのでしょう。何しろ踊りを踊りながら横取りのような形でとった城ですから。
 とは言え、1488年(長享二年)までの松平親忠のことで確実にこうだと語れる史料はほとんどありません。まぁ、信光以前もそうだったのですが、ここから先は具体的な物証が沢山でておりますから、考察はぐっとし易くなるのですね。
 本稿では松平親忠のことを『親忠』と書いておりますが、同時代史料には『親忠』と名乗ったものはありません。彼の業績を回顧した大樹寺格式が初出らしいです。同時代における名乗りは西忠という法号のみでした。その初出は1488年(長享二年)、松平信光の没年です。
 そして、父より岩津を継ぐ松平親長はしばしば在京し、三河を留守にしております。信光亡き西三河にいて、留守居として松平一族の土地を一所懸命に守るのが親忠、出家して西忠の仕事だったわけですね。それは言うまでもなく、岩津惣領家の名代です。その仕事を果たすための適地はどこでしょうか。松平家の勢力範囲は北は矢作川沿いの細川から南は形原、竹谷に至る広域なものです。その版図において、安祥の地はやや西に偏っていると言えるでしょう。また、惣領が在国すれば、惣領の補佐に回る必要も出てくるでしょう。出家した親忠にとって、松平一族の惣領代行としての仕事をこなすための適地は、大樹寺もしくは鴨田近辺にあった彼の元の所領ということが出来ると思います。
 1489年(長享 三年) と1494年(明応 三年)10月28日に松平親忠は鴨田近辺の土地を大樹寺に寄進しています。寄進できるということはそこに親忠が差配する土地があった証拠ですし、晩年の親忠は大樹寺寺域内の坊舎、大梅軒にいたことがわかっております。

 後世、歴史家は松平親忠のことを安祥松平氏の初代と言いますが、同時に鴨田松平一代であるということができるのかもしれません。

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2008年3月 6日 (木)

川戦:『将軍』寺編④松平親忠

 松平親忠は松平信光の三男で、安祥松平氏の祖と言われています。惣領家の根拠地により松平郷、岩津、安祥、岡崎と区分されて語られます。松平郷は親氏と泰親、岩津は信光、安祥は親忠、長親、信忠、岡崎は清康、広忠と続きます。徳川家康は広忠の子であり、岡崎松平家を継ぎますが根拠地は浜松に行ったり、江戸に行ったりしてますので別格でしょう。

 但し、今あげた松平家歴代の中には『惣領』と呼ぶには微妙な人々も含まれています。松平郷の泰親しかり、そして本稿で触れる安祥家の親忠しかりです。三河物語にも書かれている通り、松平親忠には兄が二人いて長男は岩津を、次男は大給を相続しました。信光が松平家惣領で岩津を領しています。その長男が岩津を領したということは常識的に考えて惣領家はこの長男が相続したと考えるべきでしょう。この長男は松平親長と言われています。

 系図によってはこの親長を松平親忠の長男ということにされてしまってるのですが、これに従うと幾つか矛盾を生じます。まず、三河物語の記述に沿っていないこと。そして、親長を松平親忠の長男ということにしている系図も安祥を相続した長親を惣領扱いしているのですから、『惣領』である安祥家の親忠が『分家』扱いになってしまった岩津家に長男を指し出すというのは不自然に写ります。
 よって、親長を信光の長子とし、松平家惣領と見てよいと思います。惣領家が別にあるのになぜ親忠が惣領として扱われてきたかは、彼の子孫が将軍家だからという補正が一つ。もう一つは、親長が在京していてあまり三河国の面倒をみられなかったことがあるのでしょう。

 寛正の額田郡一揆の時点で松平信光は還暦を過ぎております。もう、惣領は終身ですが、実務は後継に任せる時期でした。長男の親長は伊勢貞親のいる京都に出仕をしております。信光自身は隠居しつつ岩津に睨みをきかせるということろ。次男は大給をおさめました。そして、一揆勢が砦を築いた井ノ口に三男、親忠をおいたのです。その弟の正則は大庭氏のいた深溝に入りました。井ノ口は東海道を扼する拠点のひとつです。
 ここは牧野氏と西郷氏が抑えていた筈ですが、大樹寺の寺伝に従うならば、この時点でどういう事情か松平親忠がいたことになります。牧野氏は東三河の国人で、根拠地が離れているという事情もあり、守護の命令による出陣なので、一揆鎮圧後にいなくても不思議ではありません。本来ならば、今の岡崎市明大寺あたりに根拠地を持っていた西郷氏の管理下に入るのが妥当なような気もします。しかしながら、西郷氏の当主であった頼嗣は応仁・文明乱中は在京していたらしく、乱後に信光に所領を横領されています。
 最終的に一揆鎮圧の実働部隊を動かしたのは松平信光であり、その過程で西郷氏は井ノ口から手を引いたのかと思われます。応仁の乱の京の騒乱で政所執事も守護も三河国所ではなく、西郷家の当主も京に狩り出されていたのだろうと思われます。その後に井ノ口に入ってきたのが松平親忠ではなかったかと思っております。
 その状況に品野・伊保の人々が異議を唱えたのが大樹寺の寺伝の謂う『応仁の井田野合戦』であり、松平親忠は一日半の激戦によって、品野・伊保勢の襲撃を避け、多くの戦死者を出したといいますが、大樹寺以外の史料の記述がない所をみると実際は小規模な小競り合いであったかのではないかと私は考えています。
 松平親忠は井田野の戦場跡に塚を立てました。その塚は首塚もしくは千人塚とよばれ、敵味方関わりなく平等に葬ったといいます。そして、9年後の1475年(文明 七年)、その場所に怪異が起こったそうです。戦死者の亡霊が騒ぎ出し、塚が鳴動し、悪疫が流行ったと謂います。
 品野・伊保の人々が井田野を襲った理由は大樹寺の寺伝にも書かれておらず、ここまで書いている所も全くの推測に過ぎないのですが、襲われて殺されたのならまだしも、襲って返り討ちにあった戦死者が祟りをなすというのは少し動機としては薄い気もしなくもありません。無論、人の命は何より重く、尊重されるべきとは思っております。
 何故大樹寺がその事件についてその後の怪異譚を交えた記録をし、親忠は念仏堂を建てたのかについて、私見を述べます。
 大樹寺創建のストーリーにとっては、千人塚に怪異があって、供養をすることで宇祢部福林寺の勢誉愚底と松平親忠と縁が出来た。そこが重要であり、千人塚がどのような経緯で出来たかは二の次なのではなかったのかと思われます。

 念仏堂の場所には現在鴨田西光寺という寺が建てられておりますが、この近辺に額田郡一揆で当初、一揆勢が立てこもった井口砦がありました。三河国守護細川成之はそこに牧野出羽守と西郷六郎兵衛を遣わせて砦を攻略します。その戦場が井田野合戦のあった場所の近辺なのですね。そして、当初、松平信光の親類は一揆勢を匿っていましたが、信光の主筋である伊勢貞親の命によって一揆勢は松平党によって成敗されるに至ります。松平信光は伊勢貞親と細川成之から信光の一族親類に一揆勢を匿っている者がいると非難されているのですね。一揆勢を匿っていた松平信光の親類とは誰なのでしょうか。深溝で大庭次郎左衛門を討ったのは親忠の弟の大炊介正則でした。親忠自身にも軍事的能力があることは、後述する明応の井田野合戦を見てもあきらかです。にもかかわらず、親忠には一揆鎮圧に参加したのかどうか、そして何か戦功をあげたのかどうかは不明です。
 もし、念仏堂が井田野合戦の戦死者ではなく額田郡一揆の戦死者を祀ったものであるなら、念仏堂を創建した松平親忠は一揆勢に対してある種のシンパシーを持っていたと考えられます。ひょっとしたら、松平親忠は細川成之から一揆勢を匿ったとされる松平信光の親類本人もしくはそれに極めて近い人物であるかもしれません。
 一揆勢は幕府に対する謀反人として処罰されましたから、公けに慰霊することは出来なかった筈です。応仁の井田野合戦は実際は利害対立を原因とする小競り合いに過ぎなかったものを、額田郡一揆勢を慰霊するための隠れ蓑として寺伝にエピソードを残したのではないか。そんな気がします。

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2008年3月 4日 (火)

川戦:『将軍』寺編③応仁の井田野合戦

 1467年(応仁 元年)に尾張国品野と三河伊保から多数の軍勢が矢作川沿いに岩津方面に南下してきました。それを松平親忠が井田野に兵500を率い、『一夜と半日』の戦いを経て撃退し、追い返したという話です。多くの戦死者が出たため、松平親忠はその地に供養のために千人塚を作りました。ところが、その九年後になって、塚から亡霊の声が聞こえたり、悪疫が流行るなどの怪異現象が起こったので、宇祢部の福林寺の勢誉という僧を呼んで念仏供養をしてお堂を建てました。後になってその近隣の地に親忠と念仏供養で縁のできた勢誉によって大樹寺が建てられたというのが、大樹寺が伝える創建の経緯です。
 この話は話が大きいわりに、大樹寺の寺伝以外に主要な史料に記載がないということで、1493年(明応 二年)にあった合戦と時期を間違えたのではないかといわれています。

 その当時の状況はどうだったかを考えて見ます。1467年(応仁元年)は寛正の額田郡一揆の二年後にあたります。そして、8月の時点では、既に応仁の乱が始まっており、京とが主戦場でした。守護の細川成之や伊勢貞親(一度追放されて戻った)は三河どころではなかったでしょう。松平親忠はこの時三十一歳です。信光の三男として信光の旗下にいたとしてもおかしくはありませんね。額田郡一揆では、彼の弟に当たる大炊助正則が深溝で大庭次郎座衛門を討ち取っておりますから、親忠が軍勢を率いたとしても不自然ではありません。でも、五百の軍勢をすぐに集めるということは中々大変なことではないかと思います。特に、合戦の経緯をみると気になる部分があるのですが、その点については後述します。

 不思議なのは攻め手の行動です。尾張国品野は現在の瀬戸市にあり、東海道にそった三河と尾張の国境にあります。そして、伊保は岡崎から矢作川を遡り、伊保川に入った所にある在所です。位置関係からして、品野勢はまず伊保に立ち寄り、そこから伊保川、矢作川を南下するルートを通ったはずです。しかし、途中には中条氏、戸田氏などの国人・土豪がいるのですね。そして、井田野は岩津より南にあります。つまり、品野・伊保勢が井田野にたどり着くためには中条、戸田そして松平信光の勢力圏を突破しなければならないということです。
 応仁の乱の情勢にからめて、尾張国守護の座を斯波義敏と争った西軍方の斯波義廉の軍勢が、東軍の三河国守護細川成之の勢力を叩くために侵攻したとも考えられますが、もしそうだとしたら、大樹寺の寺伝が伝える通り、大規模な動員とだったことが想像されます。しかしながら、大樹寺系以外の史料にこの事件が現れていないのが不自然です。

 応仁の井田野合戦で不明な点はいくつかあります。三つの疑問点を提示し、仮説を立ててみました。

 ①何故、品野・伊保勢の侵入経路にいた国人・土豪達に動きが無かったのか。
 ②何故、他ならぬ松平親忠が応戦することになったのか。
 ③品野・伊保勢の目的は何だったのか。

 ①の経路にいた国人・土豪達の動きについてです。大樹寺の寺伝は言っています。松平親忠が五百余騎を率いて、一夜と半日で敵勢を撃破したと。つまり、この戦は夜襲で始まったということです。合戦があった日は八月二十三日。当時は太陰暦ですから、日付で月の様子はわかります。一日は朔日といって、新月。三日の月が三日月で十五日に満月になるように暦は作られています。従って、二十三日は半月だったといって良いでしょう。
 尾張国品野から井田野までは伊保ルートが最も近いと見て良いでしょう。そして、伊保から井田野までは川で繋がっています。伊保の裏手には猿投山という山があります。そこの樹木を切って筏を作り、兵を乗せて一気に下れば、手勢を目的地に送ることが可能だと思います。本能寺の変などが典型的ですが、夜襲というのは本来、新月の夜を選ぶものでしょう。半月の夜ということは、軍を進めるにあたり照明を必要としたことだと思います。
 そして、夜襲という手段を選ぶ以上、品野・伊保勢は大兵ではなく、小勢であったという事でしょう。大樹寺の記録には親忠方を五百と記していますが、品野・伊保勢の人数は多数とだけ記してあって、人数は明記されていません。つまり、品野・伊保勢の目標は井田野であり、少数の人数を川下りルートで夜襲するという手段を駆使したため、中途の在所で見咎められることがなかったと考えます。

 ②に関しては単純に松平親忠がそこを拠点にしていたためでいいと思います。親忠は後に信光が安祥を取った後にそこを任せられます。が、それ以前は井田野近辺にいたことは間違いがありません。親忠がこの地に大樹寺を創建できたのは、この地に影響力を有していた所作なのですから。寛正の額田郡一揆によって、松平一族は矢作川、広田川沿いに大きく勢力を広げることができました。その一環として、三男の親忠がこの地を入手したとみるのが妥当なところでしょう。

 ③そして品野・伊保勢の目的です。そもそも、なぜ井田野なのかという所を考えてみるべきだと思います。井田野すぐ近くに井口という在所があります。ここは額田郡一揆で一揆勢が砦を作って立てこもったところです。ここを三河国守護細川成之の命令で牧野氏と西郷氏が攻め落としましたが、最終的に松平親忠がここにいるということは、井口砦の戦後処理は松平党に任されていたと考えていいでしょう。そしてここに一揆勢が砦を作ったということは、ここが交通上の重要拠点であることに違いありません。応仁の井田野合戦は額田郡一揆の二年後です。品野・伊保の人々は松平党による戦後処理に不満を持っていた可能性があります。矢作川中流域、松平郷から岩津にかけてまでしか勢力圏がなかった松平党が、井ノ口と深溝を手に入れたわけです。その影響は現地の人々にとっては極めて大きかったと推測します。現に、この後松平信光は安祥と岡崎を手に入れ、小川の石川党と提携して大浜までのラインを確保し、形原・竹谷にも拠点を設けて深溝・蒲郡までに勢力を伸ばしてゆきます。海まで繋がる二本のラインを確保したわけですね。
 応仁元年は一揆の終戦処理まもなくのことですので、引継ぎが上手くいかなくて物流が滞るなどのことが起きていたと考えるのは穿ちすぎでしょうか。あるいは応仁の動乱を見て、故意に西軍方の尾張に流れる物資の輸送を止めたのかもしれません。

 伊保は井田野の上流域にありますから、利害関係は密接と思われます。品野は伊保から見て山を越えた西側の在所ですから、品野の産品を東方面に流す場合は、伊保経由だったのかもしれません。応仁の乱中で幕府は地域間の諍いに介入できない間隙をついて、実力行使に及んだというのが私の仮説です。
 夜襲であるが故に、戦術目標を達成すれば、長居は無用です。むしろ早期に撤退して損害を減らすのが常道です。故に襲撃側が一日半も戦う必要はなく、夜が明けたので撤退を始めたというのが真相に近いような気がします。親忠もあらかじめ敵軍が来ることが判ってなければ五百人の兵をそろえることはできないものでしょう。親忠側の勢五百というのも、品野・伊保勢退却後に編成された追跡軍の規模だったのではないかと思います。この追撃は矢作川沿いの細川・大沢まで及んだとのことですが、そこが松平党の影響力の北限で、伊保までには到達できなかったのだと見ることもできます。

 『応仁の井田野合戦』と呼ばれているものはあったかもしれませんが、おそらくは親忠率いる五百騎の軍勢によって千人の死者を出すような規模のものではなく、川の利権をめぐる焼き討ち事件だったのではないかと思います。

 それがなぜ大樹寺の寺伝のみ合戦譚として記録されているのかについて、松平親忠の立場に絡めて次稿にて書いてゆきたいと思います。


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