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2008年3月27日 (木)

川戦:『将軍』寺編⑩超誉存牛

 本編の最後に、浄土宗の開祖法然から、大樹寺開山の勢誉、そして松平親忠の子である超誉存牛に繋がる法脈を紹介します。間違っている所も多々あるかもしれませんが、その辺はご容赦の程。

 法然――弁長(鎮西派)――良忠――良暁寂慧(白旗流)――+
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 +―+―仏蓮社良誉定慧
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    +―蓮勝永慶(常陸国太田法然寺)――酉蓮社了誉聖冏――+
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 +―+―嘆誉良肇(飯沼弘経寺)―+―周誉珠琳(知恩院二十二世、新知恩院)
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    |                 +―慶善了暁――勢誉愚底(大樹寺、知恩院二十三世)
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    +―大蓮社酉誉聖聡(増上寺)――釈誉存冏(増上寺、信光明寺)―+
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 +――肇誉訓公(信光明寺、知恩院二十四世)――超誉存牛(信光明寺、知恩院二十五世)

法然は親鸞はじめ、多数の弟子を育てました。そのうち、最終的に浄土宗の主流となったのは弁長系の鎮西派でした。弁長は他の弟子たちが京都で活躍したのに対し、九州に布教の拠点を求めました。西に布教に行ったから鎮西派なんですね、多分。同じやり方で親鸞系の浄土真宗も強力な教団に成長しましたからこの戦略は結果として正しかったのでしょう。
 弁長の弟子良忠は関東に布教活動を行いました。総じて関東は熱心な信徒が多いみたいですね。真宗の仏光寺派ももともとは関東の門徒達が都で活動したことを端に発していますし、日蓮の布教も関東中心でした。
 良忠は関東の有力御家人の千葉氏の庇護を受けて布教に励み、多くの弟子を育てました。鎮西派の中から幾つかの分派をだしています。弟子の良暁寂慧は白旗流という分派をうみだしました。他には木幡流、三条流、一条流、藤田流、名越流などがあります。白旗流はこの後蓮勝永慶、酉蓮社了誉聖冏と続きます。了誉聖冏は鎮西派の教義を整備したと言われております。彼の弟子、嘆誉良肇が飯沼弘経寺を、大蓮社酉誉聖聡が増上寺を建てました。飯沼弘経寺は常陸国にあり、多くの優れた僧侶を育てた寺院で、開山の嘆誉良肇の弟子、周誉珠琳がついに浄土宗鎮西派白旗流の京都進出を果たし、知恩院二十二世住持になりました。但し、この頃の知恩院は法然の廟所をもととした寺院として尊重されてはおりましたが、現在のような浄土宗総本山という位置づけではありません。さらに悪いことに、それからしばらくして勃発した応仁の乱によって、東山大谷に会った知恩院は焼失してしまいます。周誉珠琳は寺宝を琵琶湖をみおろす近江国伊香立に避難させました。その地に現在は、新知恩院という名の寺院が立っております。その伊香立という土地のすぐそばに堅田という港町があります。周誉珠琳が伊香立に移った前後に、比叡山延暦寺が堅田の土地を焼き払うのですね。堅田は本願寺教団と縁が深く、大谷を追い出された蓮如を匿ったりしていて比叡山延暦寺には目の上のたんこぶのような存在でした。その堅田の者が室町殿の荷を横領したとかという事件がおきて、幕命により比叡山延暦寺が堅田を攻めたのです。堅田衆は琵琶湖の湖上流通を一手に引き受けておりましたから、おそらくこれによって湖上水運は大混乱に陥ったと思います。
 避難先で騒動にあって周誉珠琳はさぞや困ったことだろうと思いますが、他に確実に困っていただろう者もこれまでの話の中で出しております。在京の松平氏。北近江の菅浦・大浦の代官を勤める松平益親と勝親親子です。このあたりは完全に想像ですが、ここで周誉珠琳と松平益親らが接触することによって、三河国における浄土宗鎮西派白旗流の勢力が大きく増したのではないかと思います。というのは、周誉珠琳は京を焼け出されましたが、復帰するためにスポンサーを欲していました。それに選ばれたのが松平一族だったのではないでしょうか。
後に知恩院二十三世住持となった勢誉愚底にとって周誉珠琳は師の兄弟弟子に当たります。松平親忠から知恩院の復興資金が勢誉愚底経由で周誉珠琳に渡っていたとすれば、京から遠く離れた三河にいる勢誉愚底に知恩院住持後継の話がふって湧いてもおかしくありません。
 釈誉存冏も飯沼弘経寺で修行をしていた時期があったようです。彼は早い段階で松平信光を大旦那にして信光明寺を建ててました。但し、信光の宗旨に対するスタンスはいささか怪しいものです。そこで、浄土宗鎮西派白旗流に心のある親忠の息子、超誉存牛を信光明寺に入れました。彼は後に知恩院二十五世住持になりますが、彼に英才教育を施し、知恩院の住持にすることによって松平惣領家からの支援も強化しようという意図があったと思うのはかんぐりすぎでしょうか。
 知恩院の住持となった超誉存牛は時の帝の厚い帰依を受けたと言われております。そして、本編の最初に触れたとおり、浄土宗総本山をどこにするのかという論争がおきました。この時、知恩院を推したのは朝廷の方でしたから、超誉存牛がいかに厚い信頼を得ていたかということを窺えると思います。

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