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2008年3月20日 (木)

川戦:『将軍』寺編⑧永正三河乱

 永正年間ともなると、もう戦国時代真っ只中です。応仁の乱以後、京がどうなったかざっと触れます。細川勝元と山名宗全が死に、将軍家後継候補であった足利義視が都から退転することによって、応仁・文明の乱は終了します。地方に戦火は飛び火したものの、細川勝元を継いだ政元が足利義尚を奉じた体制を作り、実質的に京は東軍が制した形になりました。戦後復興、秩序回復のために足利義尚は征討の軍を催したのですが、近江国鈎(まがり)にて急死します。この突然死によって政局はまた混乱しました。事態の収拾を図った細川政元と日野富子は窮余の一策として、流亡中の足利義視の子、義材を将軍に擁立することにしました。極めて政治的な判断ですが応仁文明の乱以後の大混乱を鑑みるに、無定見の謗りは免れないでしょう。義視も京都にもどって義材を後見しました。しかし、細川政元・日野富子との関係修復は結局失敗に帰し、まもなく細川政元がクーデターを起こして、義材を追放しました(義視は既に死去)。これを明応の政変といい、歴史研究者の中には応仁の乱ではなく、この政変をもって戦国時代の開幕をいう人もいます。時に、1493年(明応二年)。明応の井田野合戦はこの年に起こっており、明応の政変との関連に言及する研究者の方もいらっしゃいますが、関係性については別稿でふれます。
 戦国時代とそうではない時代の違いは何か。在野の有力者が勝手に軍を催し、近隣領主の領土を蚕食しても咎め立てる権威はすでに存在しないということです。寛正の額田郡一揆では管領畠山氏が狼藉を咎め、細川成之が討伐軍を送って一揆勢の籠る砦を陥としています。しかし、もはやそうした制限はありません。故に、各国の有力者は力を蓄え自立し、他国に侵攻して自らの勢力を大きくしてゆきます。この有力者たちのことを戦国大名と呼びます。

 戦国大名として初めて三河国に侵攻した外勢は駿河の今川氏親でした。彼は応仁文明の乱中に起こった家督相続争いに勝ち残り、斯波義敏が守護だった遠江国を奪取します。氏親の相続争いから外征を主導したのは伊勢宗瑞。後の北条早雲です。松平信光、戸田宗光の主君である伊勢貞親の一族で、貞親・貞宗の意をうけて、細川政元派強化のために今川氏の家督争いに介入し、そのまま氏親の軍師として采配を振るっておりました。この氏親・宗瑞に接近したのが戸田憲光(戸田宗光の子)。彼は東三河吉田(豊橋市)を根拠とした牧野古白と対立しており、今川氏の支援を受けてここを攻め落としました。時に1508年(永正三年)。

 東三河の有力者である牧野氏を攻略したそしてその次のターゲットが松平一族でした。牧野氏を攻略した今川氏親は伊勢宗瑞を先鋒に、東三河国人勢、遠江勢、そして三浦、朝比奈、瀬名、岡部、山田ら今川旗下の部将が西進しました。北方からは奥平氏が呼応して南進したといいます。かれらは乙川の対岸に岡崎への押さえをのこして大樹寺を占拠。そこを根城に岩津を攻めました。その救援に向かったのが安祥の松平長親です。彼は手勢五百を率いて矢作川を渡り、井田野に充満する今川勢と戦いました。戦闘は丸一日続き、夜半に入ったので、長親勢は矢作川対岸に引き上げました。この戦いを永正の井田野合戦といいます。

 この後の展開が極めて判りにくいのですが、この戦いの後、伊勢宗瑞は軍を引きます。戸田氏が背反の動きをみせたとか、言われていますが結果として松平一族は生き残りました。ただ、少なからずダメージは残っていたものと思われます。今川勢は岩津を攻めたと言っておりますが、ここで岩津を守った惣領の名前は記録に現れていません。その前の牧野古白を討ち取った今川氏も牧野一族を全滅させたわけではなく、松平攻めに生き残った牧野一族の者を帯同させております。ここで岩津の惣領が討ち取られた可能性があると仰る研究者の方もおられます。三河物語はこの合戦は松平方の勝利で、この後三河国の者で長親に逆らうものはいなくなったと言っておりますので、惣領である岩津家は回復不能なダメージを負ったと考えていいのかもしれません。

 大樹寺は今川勢に占拠され大破したといいます。その復興を行ったのは開山の勢誉と大樹寺三世の住持となった雲誉でした。勢誉は今川勢が三河国に侵攻していた頃、知恩院二十三世住持となり、在京していたのです。勢誉が知恩院住持として在京していた事情については、次項にまわすとして、大樹寺開山のエピソードが日付が付いた文書で出てきたのが、1513年(永正 十年)7月10日付けの『大樹寺格式』です。これが初めてなのです。
 ここには応仁の井田野合戦の亡霊の話は出て来ず、あくまでも松平親忠の菩提を弔うための寺であること、松平親忠の子孫はこの寺に帰依することが勢誉、雲誉、長親、信忠の署名付きで書かれています。しかしながらこれをもって、応仁、もしくは明応の井田野合戦と大樹寺は関係ないと判断するのは早計ではないかと思うのです。
 大樹寺は永正の井田野合戦で破壊された寺を復興させたものです。その戦いが三河物語が言うような『勝利』でないとすれば、復興のありようは勝者である今川氏に配慮したものになるのではないでしょうか。
 この後、今川家でお家騒動があり、三河国における今川氏の影響力は著しく下がります。大樹寺の寺伝に残る井田野合戦とその戦死者を祀った話はその文脈で語られたものなのではないかと思われます。そでも遠慮があったのか、祀った対象は永正の井田野合戦ではなく、応仁の井田野合戦の戦死者の話に振りかえられています。しかし、このエピソードがアピールする所は井田野を守れる者は惣領である岩津松平家ではなく、安祥松平家であることであり、安祥松平氏を中心に一族の結束すべきと呼びかけたものになるでしょう。その真なる対象は言うまでもなく、駿河の今川氏です。今川氏にとってあまり面白くない話ですし、律儀な三河人に伝わる伝承であるなら、そういうところに配慮された、というのは十二分に考えられると思います。

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