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2008年3月11日 (火)

川戦:『将軍』寺編⑤大樹寺創建

 さて、前回の応仁の井田野合戦から長い前振りでしたが、このエピソードが井田野合戦を祀った親忠と念仏堂で慰霊を行った勢誉愚底の二人が、念仏堂の近くに大樹寺を建てたという記述につながっているのです。
 文脈から言えば怪異を起こす亡霊を慰めるほどの功徳をもった高僧が、松平親忠のために寺を建てたという図式になのでしょう。勢誉愚底は浄土宗鎮西派白旗流の弘経寺で修行し、岩津から矢作川を遡った宇祢部という地にある福林寺の住持でした。

 大樹寺の創建がいつなのかについてははっきりしていません。1513年(永正十年)にかかれた大樹寺格式という文書に従えば、書かれた時点で開山して三十年以上経ているとの事です。単純に考えて1483年(文明十五年)以前ということになると思われます。文書上の初出はその二年後の1485年、(文明十七)年に大炊介正則による大樹寺への寄進状にあるのですが、確実なセンをもってくるなら大樹寺の寺伝の言う1485年(文明七年)からこの年までの十年間のどこかということになるでしょう。
 松平親忠はその時までには、安祥の城を父信光から任されております。小川の石川政康の息子の親康が彼を助けることになりました。安祥は上宮寺のある佐々木に程近いところにあり、安祥の地を治めるためには本願寺教団の協力が必要だったのでしょう。何しろ踊りを踊りながら横取りのような形でとった城ですから。
 とは言え、1488年(長享二年)までの松平親忠のことで確実にこうだと語れる史料はほとんどありません。まぁ、信光以前もそうだったのですが、ここから先は具体的な物証が沢山でておりますから、考察はぐっとし易くなるのですね。
 本稿では松平親忠のことを『親忠』と書いておりますが、同時代史料には『親忠』と名乗ったものはありません。彼の業績を回顧した大樹寺格式が初出らしいです。同時代における名乗りは西忠という法号のみでした。その初出は1488年(長享二年)、松平信光の没年です。
 そして、父より岩津を継ぐ松平親長はしばしば在京し、三河を留守にしております。信光亡き西三河にいて、留守居として松平一族の土地を一所懸命に守るのが親忠、出家して西忠の仕事だったわけですね。それは言うまでもなく、岩津惣領家の名代です。その仕事を果たすための適地はどこでしょうか。松平家の勢力範囲は北は矢作川沿いの細川から南は形原、竹谷に至る広域なものです。その版図において、安祥の地はやや西に偏っていると言えるでしょう。また、惣領が在国すれば、惣領の補佐に回る必要も出てくるでしょう。出家した親忠にとって、松平一族の惣領代行としての仕事をこなすための適地は、大樹寺もしくは鴨田近辺にあった彼の元の所領ということが出来ると思います。
 1489年(長享 三年) と1494年(明応 三年)10月28日に松平親忠は鴨田近辺の土地を大樹寺に寄進しています。寄進できるということはそこに親忠が差配する土地があった証拠ですし、晩年の親忠は大樹寺寺域内の坊舎、大梅軒にいたことがわかっております。

 後世、歴史家は松平親忠のことを安祥松平氏の初代と言いますが、同時に鴨田松平一代であるということができるのかもしれません。

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