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2008年3月13日 (木)

川戦:『将軍』寺編⑥厭離穢土欣求浄土

 今回の語りだしは徳川実記にも書かれている記事から。井田野合戦の時に勢誉が親忠のために『厭離穢土欣求浄土』と白布に墨書した旗を親忠に持たせて戦わせ、戦に勝利したという話があります。話自体は、大坂の陣を扱った難波戦記のエピソードが元になっています。難波戦記というのは江戸初期にできた講談のネタ本で、軍記語りが出陣する武将達の武装を朗々と解説するくだりなんですね。当然脚色も多いのです。曰く、徳川家康が大坂夏の陣に箱におさめた旗を用意したと。そこには白布に『厭離穢土欣求浄土』と書かれた四半の旗が入っており、その由緒は桶狭間合戦で負けた家康(当時は松平元康)が大樹寺に逃げ込んだ時、追撃をくらいそうになりました。追い詰められて自刃を考えた家康を諌めた時の大樹寺の住持、登誉がこの旗を示して家康の喪失した戦意を取り戻さしめたという逸話が入ってます。この娑婆(しゃば)世界を穢(けが)れた国土(穢国)として、厭い離れ、阿弥陀仏(あみだぶつ)の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味になります。
 ネガティブに読めば、ニヒリズム漂う、厭世的な標語ですが、ポジティブに解釈すれば、現世を浄土とすべく努力せよという解釈もかのうなのですね。無論、登誉が進めたのはポジティブな意味です。そのような佳例、つまりラッキー・シンボルを縁起かつぎのために戦場に持ち込むというのはありそうな話です。三河物語にもこの旗なのかどうかはわからないのですが、『(箱に?)納めの御宝憧の御旗』という表現で出てきますから、あながち根も葉もない話とは言い切れない部分のある話です。これが江戸中期になるとどんどん脚色されていって、幕末近くに編纂された徳川実記には、この起源が井田野合戦で親忠と勢誉にありとぶち上げることになりました。徳川実記というのは江戸幕府の一応公式記録ということになっています。徳川将軍家創業の記録として公に認められたエピソードなんですが、信憑性は限りなく怪しいというところでしょう。

 この脚色で言う井田野合戦とは、前に語った応仁の井田野合戦ではなく、明応年間に起こったものだと思われます。1493年(明応 二年)10月に、岩津からみて矢作川上流の土豪・国人達が井田野に上陸し、松平勢と合戦になりました。松平勢は親忠が率いて勝利したというのが明応の井田野合戦のあらましです。
 敵勢は加茂郡伊保の三宅氏、挙母の中条氏、、寺部の鈴木氏、八草の那須氏、碧海上野の阿部氏などの加茂碧海国人連合軍です。上野は信光の婿である戸田宗光の根拠地でしたが、彼はこの地の代官職を弟に譲って、自らは知多、渥美郡の方に根拠地を移しました。その後の上野の戸田氏の消息は追えてませんが、三河湾沿岸に根拠地を移したと思われます。代わりに名前が出ている阿部氏とは、阿部満五郎といい、大将格の人物です。松平清康、広忠の代に家老となった阿部大蔵定吉と縁のある人物なのかもしれません。その根拠地となった碧海郡上野(現在の豊田市上郷)は矢作川を挟んで岩津の対岸にあるのですが、そこではなくわざわざ下流にある井田野に集結したわけですね。
 ただ、よく判らないのは何で井田野に向かったかです。松平氏を相手にするとすれば、ますは岩津に向かうべきだと思います。また、この時点で松平信光は死んでおり、惣領の親長は在京しているとみえて、記録に名前が残っておりません。であるならば、親忠のいる安祥か、親貞(光重の子)のいる岡崎(現明大寺町)を狙うべきと思われるのですが、彼らは井田野に向かいました。
 唯一合戦の経緯が書かれている三州八代記古伝集によれば、その結果岡崎(経由か?)から北上してきた親忠勢と南下した岩津勢の挟み撃ちにあって総崩れになったといいます。
 仮にこの合戦で、加茂郡碧海郡の国人連合したとして、この後北上するのは迂遠であるように思われます。大樹寺のある井田、鴨田近辺に攻略すべき目標があったと考えるのが自然かと思います。そこは安祥に移った松平親忠の所領のある場所であり、実質的な家政はここで見られていた考えるのは穿ちすぎでしょうか。後年、永正年間に今川氏親が伊勢宗瑞(北条早雲)に西三河を攻めさせたときに真っ先に攻略したのが大樹寺でした。

 この時までに松平親忠は惣領代行としての立場を固めていたと思われます。それ故、国人連合のターゲットとされたのでしょう。そして、惣領を差し押さえてこの地を統括する為に、家臣団を組織しました。その手助けをしたのが、本願寺教団です。この時点では石川親康の代になっておりますが、兄康長とはかって野寺本証寺の門徒を組織して安祥に入れました。これは佐々木上宮寺の勢力をバックアップする目的もあったかと思われます。親忠は本願寺門徒集団の力を背景に一族の中に発言権を得、それと大樹寺防衛を名目に一族の結束をとりまとめました。親忠の死の直後に出された一族の連判状に大樹寺を結束して守ることが誓われています。親忠は庶流の立場で一族をとりまとめ、同時に他宗派の力を借りながら全体を大きく見せるという離れ業を演じました。極めて政治的な力量に優れた人物だと言えるでしょう。冒頭の『厭離穢土欣求浄土』のエピソードはこの井田野合戦において、大樹寺近辺が守られるべき重要拠点であったこと、その出典が源信の往生要集にあり、法然・親鸞に共通する教えであることも踏まえた後世の史家達が付会したものだったのだと想像します。

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