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2008年3月 4日 (火)

川戦:『将軍』寺編③応仁の井田野合戦

 1467年(応仁 元年)に尾張国品野と三河伊保から多数の軍勢が矢作川沿いに岩津方面に南下してきました。それを松平親忠が井田野に兵500を率い、『一夜と半日』の戦いを経て撃退し、追い返したという話です。多くの戦死者が出たため、松平親忠はその地に供養のために千人塚を作りました。ところが、その九年後になって、塚から亡霊の声が聞こえたり、悪疫が流行るなどの怪異現象が起こったので、宇祢部の福林寺の勢誉という僧を呼んで念仏供養をしてお堂を建てました。後になってその近隣の地に親忠と念仏供養で縁のできた勢誉によって大樹寺が建てられたというのが、大樹寺が伝える創建の経緯です。
 この話は話が大きいわりに、大樹寺の寺伝以外に主要な史料に記載がないということで、1493年(明応 二年)にあった合戦と時期を間違えたのではないかといわれています。

 その当時の状況はどうだったかを考えて見ます。1467年(応仁元年)は寛正の額田郡一揆の二年後にあたります。そして、8月の時点では、既に応仁の乱が始まっており、京とが主戦場でした。守護の細川成之や伊勢貞親(一度追放されて戻った)は三河どころではなかったでしょう。松平親忠はこの時三十一歳です。信光の三男として信光の旗下にいたとしてもおかしくはありませんね。額田郡一揆では、彼の弟に当たる大炊助正則が深溝で大庭次郎座衛門を討ち取っておりますから、親忠が軍勢を率いたとしても不自然ではありません。でも、五百の軍勢をすぐに集めるということは中々大変なことではないかと思います。特に、合戦の経緯をみると気になる部分があるのですが、その点については後述します。

 不思議なのは攻め手の行動です。尾張国品野は現在の瀬戸市にあり、東海道にそった三河と尾張の国境にあります。そして、伊保は岡崎から矢作川を遡り、伊保川に入った所にある在所です。位置関係からして、品野勢はまず伊保に立ち寄り、そこから伊保川、矢作川を南下するルートを通ったはずです。しかし、途中には中条氏、戸田氏などの国人・土豪がいるのですね。そして、井田野は岩津より南にあります。つまり、品野・伊保勢が井田野にたどり着くためには中条、戸田そして松平信光の勢力圏を突破しなければならないということです。
 応仁の乱の情勢にからめて、尾張国守護の座を斯波義敏と争った西軍方の斯波義廉の軍勢が、東軍の三河国守護細川成之の勢力を叩くために侵攻したとも考えられますが、もしそうだとしたら、大樹寺の寺伝が伝える通り、大規模な動員とだったことが想像されます。しかしながら、大樹寺系以外の史料にこの事件が現れていないのが不自然です。

 応仁の井田野合戦で不明な点はいくつかあります。三つの疑問点を提示し、仮説を立ててみました。

 ①何故、品野・伊保勢の侵入経路にいた国人・土豪達に動きが無かったのか。
 ②何故、他ならぬ松平親忠が応戦することになったのか。
 ③品野・伊保勢の目的は何だったのか。

 ①の経路にいた国人・土豪達の動きについてです。大樹寺の寺伝は言っています。松平親忠が五百余騎を率いて、一夜と半日で敵勢を撃破したと。つまり、この戦は夜襲で始まったということです。合戦があった日は八月二十三日。当時は太陰暦ですから、日付で月の様子はわかります。一日は朔日といって、新月。三日の月が三日月で十五日に満月になるように暦は作られています。従って、二十三日は半月だったといって良いでしょう。
 尾張国品野から井田野までは伊保ルートが最も近いと見て良いでしょう。そして、伊保から井田野までは川で繋がっています。伊保の裏手には猿投山という山があります。そこの樹木を切って筏を作り、兵を乗せて一気に下れば、手勢を目的地に送ることが可能だと思います。本能寺の変などが典型的ですが、夜襲というのは本来、新月の夜を選ぶものでしょう。半月の夜ということは、軍を進めるにあたり照明を必要としたことだと思います。
 そして、夜襲という手段を選ぶ以上、品野・伊保勢は大兵ではなく、小勢であったという事でしょう。大樹寺の記録には親忠方を五百と記していますが、品野・伊保勢の人数は多数とだけ記してあって、人数は明記されていません。つまり、品野・伊保勢の目標は井田野であり、少数の人数を川下りルートで夜襲するという手段を駆使したため、中途の在所で見咎められることがなかったと考えます。

 ②に関しては単純に松平親忠がそこを拠点にしていたためでいいと思います。親忠は後に信光が安祥を取った後にそこを任せられます。が、それ以前は井田野近辺にいたことは間違いがありません。親忠がこの地に大樹寺を創建できたのは、この地に影響力を有していた所作なのですから。寛正の額田郡一揆によって、松平一族は矢作川、広田川沿いに大きく勢力を広げることができました。その一環として、三男の親忠がこの地を入手したとみるのが妥当なところでしょう。

 ③そして品野・伊保勢の目的です。そもそも、なぜ井田野なのかという所を考えてみるべきだと思います。井田野すぐ近くに井口という在所があります。ここは額田郡一揆で一揆勢が砦を作って立てこもったところです。ここを三河国守護細川成之の命令で牧野氏と西郷氏が攻め落としましたが、最終的に松平親忠がここにいるということは、井口砦の戦後処理は松平党に任されていたと考えていいでしょう。そしてここに一揆勢が砦を作ったということは、ここが交通上の重要拠点であることに違いありません。応仁の井田野合戦は額田郡一揆の二年後です。品野・伊保の人々は松平党による戦後処理に不満を持っていた可能性があります。矢作川中流域、松平郷から岩津にかけてまでしか勢力圏がなかった松平党が、井ノ口と深溝を手に入れたわけです。その影響は現地の人々にとっては極めて大きかったと推測します。現に、この後松平信光は安祥と岡崎を手に入れ、小川の石川党と提携して大浜までのラインを確保し、形原・竹谷にも拠点を設けて深溝・蒲郡までに勢力を伸ばしてゆきます。海まで繋がる二本のラインを確保したわけですね。
 応仁元年は一揆の終戦処理まもなくのことですので、引継ぎが上手くいかなくて物流が滞るなどのことが起きていたと考えるのは穿ちすぎでしょうか。あるいは応仁の動乱を見て、故意に西軍方の尾張に流れる物資の輸送を止めたのかもしれません。

 伊保は井田野の上流域にありますから、利害関係は密接と思われます。品野は伊保から見て山を越えた西側の在所ですから、品野の産品を東方面に流す場合は、伊保経由だったのかもしれません。応仁の乱中で幕府は地域間の諍いに介入できない間隙をついて、実力行使に及んだというのが私の仮説です。
 夜襲であるが故に、戦術目標を達成すれば、長居は無用です。むしろ早期に撤退して損害を減らすのが常道です。故に襲撃側が一日半も戦う必要はなく、夜が明けたので撤退を始めたというのが真相に近いような気がします。親忠もあらかじめ敵軍が来ることが判ってなければ五百人の兵をそろえることはできないものでしょう。親忠側の勢五百というのも、品野・伊保勢退却後に編成された追跡軍の規模だったのではないかと思います。この追撃は矢作川沿いの細川・大沢まで及んだとのことですが、そこが松平党の影響力の北限で、伊保までには到達できなかったのだと見ることもできます。

 『応仁の井田野合戦』と呼ばれているものはあったかもしれませんが、おそらくは親忠率いる五百騎の軍勢によって千人の死者を出すような規模のものではなく、川の利権をめぐる焼き討ち事件だったのではないかと思います。

 それがなぜ大樹寺の寺伝のみ合戦譚として記録されているのかについて、松平親忠の立場に絡めて次稿にて書いてゆきたいと思います。


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