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2008年3月25日 (火)

川戦:『将軍』寺編⑨考察……のようなもの

 以下、個人的な妄想です。所々に根拠が全くないセンテンスがあって、考察とは呼べないものですが、大樹寺開山の経緯を自分なりに考えて見ました。

 自分は親忠は額田郡一揆の衆に深いつながりをもっていて、親忠は井ノ口砦陥落後に彼らを匿ったのではないかと思ってます。井ノ口で行われている事業、それは多分流通なのだと思うのですが、そこに親忠自身も携わっていた。それ故、一揆勢の言い分も理解できたし、一揆鎮圧後井ノ口あたりの支配を任されたのではないかと思います。松平一族は結局守護・政所執事側について一揆鎮圧をしましたが、それは親忠の負い目になったのではないでしょうか。だから、親忠は塚や堂をたて、勢誉に供養をさせました。
 勢誉は、親忠の依頼を受けて念仏堂(後の西光寺)を建てますが、関東で修行をしていた彼が三河国にいる目的は西三河に浄土宗鎮西義白旗流の布教拠点を作れと、出身寺院である弘経寺から要請されていたのだと思います。念仏堂のような慰霊の為の施設ではなく、蓮如が土呂に建てた本宗寺のような本格的布教拠点です。
 すでに岩津松平家には勢誉愚底の同門の釈誉存冏が入り込んで信光明寺を作っておりました。しかし、別に浄土宗西山深草派の妙心寺の大旦那も兼ねているなどしていて、どっちつかずの感じがあります。後に両方の寺に願文を奉じ、一族・子孫に『浄土の真宗(妙心寺願文)』もしくは『浄土宗門(信光明寺願文)』に帰依させると書いております。両方とも浄土宗の寺ですが、どちらの宗旨の事を言っているのかわからないですよね。鎮西派? 西山派? はたまた浄土真宗である可能性すらあります。

 そこで、勢誉は親忠に働きかけたのでしょう。但し、惣領の岩津松平家は嫡男親長が在京とはいえ、入道信光が岩津にいてあまり目立ったことはできません。そこで親忠の鴨田の屋敷内に草庵を作ってもらったのが大樹寺の始まりなのではないかと思います。親忠は間もなく安祥の城を譲られましたが、鴨田の屋敷はそのまま使っていたのでしょう。
 信光が死んだ後も、親長が三河に戻ってきた形跡はありません。親忠は兄の名代として家の経営を行うことになりました。このときまでに親忠は出家をして西忠と名乗っています。おそらくは信光が老齢のため、実質的に家の経営ができなくなった頃にすでに出家をしていたのでしょう。あくまで自ら与えられた家政を任せられた者としての権限の中で。親忠の遺言状に見られる律儀さを考えると、それくらいの慎重さはあるように思われます。もちろん、剃髪は大樹寺で行いその為の寺として認めさせた。それゆえ、大樹寺文書は実質的に文明十七年以降の文書しか残っていないのです。(1460年(長禄四年)付の文書はあるものの、その文書は直接的に大樹寺には絡んでいないもので、大樹寺の寺号は記されておりません)

 彼の発心の動機は額田郡一揆の戦没者の慰霊。額田郡一揆の首謀者達は室町殿に対する反逆者として処罰された人々です。それ故彼らのことを公に取り上げれば、親忠はそこで何をやっていたのかが問われかねない。(このあたりのくだりは妄想が激しくなっておりますのでご注意ください)
 額田郡一揆の武力鎮圧は事態の根本的な解決には至りませんでした。それ故、応仁と明応(もしかしたらどちらか一回だけかもしれません)に周辺の土豪・国人が井田野を襲いました。彼らが岩津や安祥を襲わず、井田野に入ったのはそこに攻略目標があったからでしょう。それは、実質的に松平家の家政を司った松平入道西忠の屋敷としか自分には思いつきません。但し、それはそれほど大規模なものではなかったと思います。三河物語はじめ多くの史書が額田郡一揆や応仁・明応の井田野合戦をスルーしておりますから。(そんな中で徳川家康の厭離穢土欣求浄土旗を巡る話が親忠の井田野合戦を取り上げているのは本筋とは離れた部分で興味深いのですが)
 自らの埋葬地を(私の妄想の中では)額田郡一揆の戦没者の眠る魂魄野に指定したのは、親忠の意思だったと思います。しかし、それを遺言状に書かなかったのは、やはり額田郡一揆縁の場であることを遠慮したためだと思います。大樹寺に置かれたのは位牌でした。その事は1501年(文亀 元年)の松平一族連署禁制に明記されています。大樹寺は親忠死後の大樹寺の保全を求め、それに応えたのがこの文書です。親忠の後を継いだ息子の長親は相続後間もなく出家して家督を信忠に譲っております。これもまた、想像ですが、親忠が鴨田にいる間は、長親が安祥を守っていたのではないかと思います。それ故、親忠の死後自らが出家し、鴨田の屋敷に入りました。松平一族連署禁制と物々しい文書名がつけられていますが、ここに書かれているのは、大樹寺は親忠の『位牌所』だから狼藉するなということと、狼藉者は松平一族で処罰することを簡単に約した文書です。この文書の署名者は岩津家をはじめとする三河在国の松平諸家(但し惣領は不在)の人々であり、長親・信忠ら安祥家の者の名前はありません。これは安祥松平氏の鴨田の拠点が大樹寺とほぼ重なっていることを意味しているのではないかと思います。
 親忠死後は長親が大樹寺に入り、信忠が安祥を担当する形になっていたのではないかと思います。親忠も自らの死後、隙を作るといけないので初七日が終わったら信忠は安祥に帰れと言い残していますので、そういった役割分担だったのでしょう。
 ただし、この細やかな対応も圧倒的な今川勢の侵攻によって覆されます。圧倒的な兵力で攻め込まれ、大樹寺は占領されてしまいます。長親も安祥勢を率いて抵抗しますが、結局岩津惣領家に壊滅的な打撃を受けてしまいました。ただ、運の良いことに、今川勢は叩くだけ叩いて引き上げたということです。もちろん、何らかの条件を残していったと思います。
 勝者による幾つかの制限の中で、大樹寺を復興させました。しかし、昔日の松平一族ではありません。惣領家による統制が失われたという現実に安祥松平の長親・信忠は対応せねばなりません。そこで、長親は大樹寺を復興させました。既に岩津惣領家は力を失っております。故にこの寺は安祥松平親忠の菩提寺であることを堂々と宣言できるようになりました。
 それだけではありません、長親と信忠の署名のあるこの大樹寺格式という文書では、親忠の子孫は男女の区別なく、大樹寺に帰依するようにと命じています。信光の願文における『浄土の真宗』、『浄土宗門』といった曖昧な書き方ではないことに注目して欲しいのです。長親は一族統制の中心地として大樹寺を利用しようとしたわけです。そのために必要としたのは井田野を防衛しきった英雄の物語です。それに成功した親忠を寺伝の中で顕彰することで、安祥松平家の権威を高めようとしたのではないか。そんな風に考えております。

 ここまで大樹寺を取り上げてきましたが、結局の所『将軍』寺となってしまうような寺号の事情がつかめなかったのは残念です。今後の研究課題にしてゆきたいと思います。但し、大樹を菩提樹からとったという説は少し信じがたい。というのは、菩提樹の木の下で悟りを開いたのはゴータマシッダールタ、釈迦如来だからです。大樹寺の宗旨は浄土宗であり、開山の勢誉は知恩院二十三世住持まで勤めた浄土宗の僧であり、宗旨替えの形跡も見られません。そして、浄土宗の本尊は阿弥陀如来です。浄土宗で釈迦如来を排斥しているわけではないでしょうが、寺号は教義にちなんだものか、大旦那の意向が反映されるのが通常のパターンです。いかなる事情があるのかについてはおりに触れて調べてゆきたいと思います。

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