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2008年4月29日 (火)

川戦:山科編⑨錯乱の宗門

 蓮淳は北陸にて加賀三ヶ寺が下した裁定をひっくり返すことによって、本願寺教団は分裂し、連枝一党を粛清しました。その結果、本願寺教団は法主を中心とした武装門徒集団。厳格統制のとれた戦国大名に近い、畿内から北陸三河に影響を及ぼす一大勢力が完成した……、と言いたい所ですが必ずしもそこまでに至る道は平坦ではありませんですし、道を見失いすらしております。本稿ではその辺を述べてゆきます。

 加賀に侵入した朝倉氏、畠山氏から加賀国を守りぬいたことによって、堺にいる細川晴元の信用は一応勝ち得た蓮淳ですが、逆に晴元は蓮淳を頼って軍勢を催促するようになりました。細川晴元の部将三好元長はライバルであった細川高国を討ち取った、まさに晴元の片腕と呼べる人物でした。しかし、その功績を晴元は疎ましいものと思っていたようです。そんな折、木沢長政が三好元長の讒言をし、元長の密かに処断を決めてしまいます。この木沢長政はかつては河内国守護畠山義宣の家臣でしたが、本願寺の伝をたよって寝返った人物です。自らの居場所を作るためでしょうか、新しい主人の腹心を腐したのですね。ところが、旧主である畠山氏は木沢長政の裏切りを許さずその居城飯盛城を包囲しました。この救出を蓮淳に依頼したのです。
 この要請を受けて本願寺九世法主、証如が自ら石山御坊に出陣します。畿内の門徒達を動員して畠山義宣を一気に討ち取ります。そして、救出した木沢長政とともに三好元長のいる堺の顕本寺を攻めました。顕本寺は法華宗(日蓮宗のことです)を宗旨とし、元長は法華宗の熱心な宗徒でした。もともと浄土真宗と法華宗は仲が悪く、二つの宗派で争いがあると、元長は法華宗の立場で浄土真宗に圧力を加えたという経緯もあったようです。そうした中、蓮淳によって権威を最高に高められた本願寺九世法主が石山に下って門徒に動員をかけたのです。門徒達は本願寺教団の総力戦と受け止め本気の戦いを挑みます。河内畠山氏はもともと仏敵であり、そこに細川晴元の命令で法華宗徒の三好元長を討てるということになったのですから、門徒たちの気合の入り具合は違っていたでしょう。
 三好元長にしてもまさかこんなに早く畠山義宣が討ち取られるとは思ってなかったでしょうし、主筋である細川晴元の部下が自分の所に攻めて来ると思わなかったでしょう。三好元長は自害に追い込まれます。

 これによって晴元の依頼は一応果たしたことになるのですが、ここから証如の統制化にあるはずの門徒衆が暴走を始めます。
 そしてもう一つ事件が起こりました。堺には足利義材(義植)の養子、義維が「幕府」を開いておりました。彼は将軍宣下を受けているわけではないのですが、機構組織は構築され機能しており、公家の日記にも堺大樹(将軍)という呼称が見られるそうです。その彼が、三好元長を討った一揆衆の威勢を恐れて阿波国に逃れます。
 ここに力の真空状態が生まれました。河内守護畠山義宣、法華宗の守護者を勤めた三好元長、そして堺公方足利義維がいなくなり、石山御坊に本願寺証如が率いる畿内門徒がいるのみです。ちなみに証如はこの時、十六歳の青少年です。八歳から法主の座にあるとはいえ、武士なら、元服して間もない頃であり実権は補佐役の蓮淳がなお握っていたと見ていいでしょう。ましてや法主は武将ではなく、宗教指導者です。武将の真似事をして門徒達の統率をすることには無理があったようです。本来ならばこうした武辺働きは家宰の下間頼秀らが行うのですが、彼は弟の頼盛と一緒に北陸の小一揆討伐に出ています。

 集結した畿内門徒達は今度は大和国に殺到しました。目的は興福寺を筆頭とする旧仏教寺院の破壊です。証如や蓮淳はこれを制止しましたが、門徒達は聞き入れません。奈良の諸寺院に散々暴虐を尽くした挙句、同国を支配する筒井順興・越智利基に追い散らされました。この侵攻には戦略目標がなく、諸寺院を荒らすだけ荒らしただけなので敗北は必至だったでしょう。これによって、蓮淳、証如は大いなる不面目を天下に曝すことになりました。

 この不面目によって大きなツケを払わされることになります。肝心要の管領細川晴元を敵に回してしまったのです。彼は洛中の法華宗徒に対し、本願寺教団の諸寺院の破壊を依頼します。洛中の法華宗徒にとってみれば、法華宗を保護していた三好元長が本願寺に討たれ、奈良興福寺も襲われたなら、今度は洛中と思ったでしょう。実際蓮淳は細川晴元の変心を察知し、晴元討伐を企画していたようです。しかし、先手を取ったのは細川晴元でした。彼は南近江の六角定頼を動かし、まず若松顕証寺を落とします。これに蓮淳は対抗出来ず、山科本願寺に立てこもります。山科本願寺は大津と京都七口のうち粟田口と宇治川口を扼する要地であり、戦国大名の城郭並みの廓を備えておりました。これを囲うのは細川晴元、六角定頼に法華一揆衆でした。証如はこれを救おうと門徒たちを差し向けますが、法華一揆に阻まれ近づくことができません。
 結果として、山科本願寺は炎上しました。ここにこもった蓮淳は脱出。安置されている親鸞の祖像は実従(蓮能の子)が持ち出し脱出しました。

 これを言ってしまうと結果論でしかないのですが、蓮如の打ち出した『王法を先とする』の王法を細川家の管領と解釈してしまったことに無理があったのではないか。そんな気がします。

 ともあれ、本願寺教団は山科本願寺を喪いました。証如は石山御坊にいるまま。そうした状況で蓮淳が向かった先は長島願証寺です。本来、証如を補佐する立場のものが、大坂に向かわずに、伊勢国に避難したのです。恐らくは証如の依る石山も長くは持たないと考えたのではないかと思います。そしてそれは杞憂ではありませんでした。法華宗徒達は大坂を目指し、中途にある富田教行寺を焼き、石山御坊に迫ります。証如は石山御坊を新たな本願寺と定め、北陸から下間兄弟を呼び返し、門徒達の統率に当たらせます。そして細川高国の弟晴国と手を結んで法華宗徒や晴元勢と一時和睦しますが、今度は晴元が六角定頼の仲介で足利義晴と和睦して京都に迎え入れます。そしてしかる後に足利義晴に本願寺征伐命令を出させました。
 石山本願寺は包囲され、進退窮まった証如は長島願証寺から蓮淳を呼び出します。蓮淳はこのこじれきった関係を降伏することで乗り切りました。青蓮院尊鎮法親王を仲介に立てて幕府と交渉。代償は下間兄弟の首でした。そしてこの和睦によって曲がりなりにも本願寺教団は戦国時代の一大危機を乗り切ることができたのです。

 蓮淳が本願寺教団を守ろうとする固い意志を持っていたことは疑うべくもありません。しかし、その為に取られた方策の妥当性については色々議論を呼ぶところだろうと思います。


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2008年4月24日 (木)

川戦:山科編⑧大小一揆

 足利義材が将軍職に復帰し、細川高国が管領として支えている間、本願寺は逼塞し内部改革に専念しておりました。しかし、風向きは徐々に変わってゆきます。まず、出雲・石見国で尼子氏が勃興し、領国がきな臭くなってきた為に、大内義興が周防に帰還します。そして、その支えを失った足利義材は細川高国と対立。これを見限って阿波に出奔。阿波には京を追われた細川澄元の子、細川晴元がいました。細川高国は足利義澄の子の足利義晴を擁立します。またしても節操がなさそうですが、義材もまた自分に実子がいないため、義澄の子の義維を養子にして阿波に帯同しているので似たようなものでした。しかし、阿波の細川晴元にとっては玉を手に入れたようなものです。これによって再び蠢動を始めました。
 折も折、高国の家臣間に内訌があり、高国は一門の細川尹賢の讒訴に応じて重臣の香西元盛を謀殺しました。その結果、香西元盛の兄波多野稙通や柳本賢治らを敵に回し、細川高国と足利義晴は近江国坂本 に落ち延びます。
 京に将軍と管領がいなくなっても細川晴元は慎重でした。軽々しく上洛せず、堺に拠点を置き、そこに足利義維の幕府を置いたのです。足利義維は将軍家相続の宣旨は受けておらず、足利将軍家歴代には入りませんが、堺で政務をとりました。当時の人々は足利義維を堺公方と呼んだそうです。
 敗れた細川高国は尼子氏・浦上氏といった中国の新興諸家の所領を転々とし、足利義晴は朽木氏、六角氏などの近江の大名を頼って潜伏するに至ります。

 この期に乗じて1528年(享禄元年)5月、越前国藤島から加賀国塔尾に亡命してきた超勝寺実顕、和田山の本覚寺の門徒たちが越中国にある細川家の太田保(現在の富山市太田)に攻め込みます。この時に細川領だけでなく、越中守護代の神保・椎名領も侵食しました。
 これを問題視したのが、若松本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺の加賀三ヶ寺です。加賀の百姓(農民のことではなく、全ての人々というニュアンス)の代表としてこの地を治める彼らにとって、超勝寺や本覚寺の旧越前門徒衆が起こしたこの事態は迷惑なものでしかありません。彼らの行動は現在小康を保っている越前の朝倉、越中・能登の畠山を刺激するものであり、国境を脅かしかねないものです。実如が下した三箇条のうちの武装・合戦の禁止の命令を破るものであり、過去この法令に意義を唱えた本覚寺実慧を破門した経緯を考えれば、超勝寺実顕への処罰は順当な判断だったといえるでしょう。1531年(享禄四年)正月に細川高国は京都を回復します。その年の5月、加賀三ヶ寺はこの超勝寺ら一揆衆の征伐を始めました。
 しかし、今回は事情が多少異なりました。超勝寺実顕は蓮淳の娘婿であり、その後ろ盾を得られる立場だったのです。

 蓮聖(山田光教寺)―――――実玄(勝興寺)
                    ∥
                +――妙勝
                |
 蓮淳(近松顕証寺)――+――杉向
                |   ∥
                |  実顕(藤島超勝寺)
                |
                +――鎮永(慶寿院)
                    ∥
                    +――証如(山科本願寺)
                    ∥
 実如(山科本願寺)―――――円如

 さらに加賀三ヶ寺にとって悪いことは重なります。1531年(享禄四年)6月、朝倉・畠山が支持していた細川高国が摂津国天王寺で細川晴元の部将三好元長に討たれて死にます。これを期に細川晴元と接触したのが本願寺教団の実質的な指導者、蓮淳でした。室町殿は京にはいませんが、いずれ細川晴元は堺の足利義維をつれて上洛し、将軍家を相続させて自らは管領になることは規定路線です。蓮淳にしてみれば、いまここで細川晴元に恩を売ることで政元と実如と同じく、管領家とのパイプを築く必要がありました。山科本願寺は京の七口のうち粟田口と宇治川口を扼する地に存在します。その地に本願寺を建てることを認めたのは時の管領細川政元であり、日野富子ですが、彼らはもはやおりません。京都で政権を持つ者にとってこれは脅威以外の何者でもないでしょう。おそらく、高国が足利義材とともに上洛した時に実如が近江国堅田に逃げたのもそれを警戒したからです。山科本願寺は山科川沿いに堀を巡らせた城郭のような作りだったそうです。それを維持するためには管領家との連携は不可欠と考えたのでしょう。蓮淳は側近の下間頼秀・頼盛兄弟を加賀に派遣し、加賀三ヶ寺征伐を行います。これによって一向一揆の勢力が分裂しあい争うことになったわけです。蓮淳は畿内だけではなく、三河国にも動員をかけました。地域横断的な軍団構成だったため、蓮淳派の一揆勢を大一揆。これに対抗する加賀三ヶ寺派の一揆勢を小一揆と呼び、この二勢力の争いを大小一揆と言います。
 京都から加賀へ軍勢を送るルートとしてまず考えられる琵琶湖から若狭街道ルートは越前の朝倉氏によってふさがれていますから、美濃国から飛騨国白川郷経由で加賀国に侵入しました。
 大一揆衆の加賀侵入に逼塞を余儀なくされていた超勝寺側の門徒達は復活、合流し、逆に三ヶ寺は追い詰められます。本願寺の意思は大一揆にあり、仏敵になることを怖れた門徒達は次々と三ヶ寺から離反し、本泉寺と松岡寺は陥落します。
 窮地においやられた三ヶ寺に救いの手を伸ばしたのが、能登畠山氏と朝倉氏でした。小一揆には実悟がいました。彼は能登畠山氏の一族で大坂一乱で処罰された蓮能の子であり、そのせいで本来連枝の資格を有しているにもかかわらず一家扱いとされ、蓮悟の後継と目されていたのが清沢願得寺という末寺があてがわれた立場にいました。能登国守護畠山義総は蓮能の実兄畠山家俊を派遣し、このお陰で実悟とその養父本泉寺蓮悟らは能登へ亡命することができました。松岡寺蓮綱とその子供たちは大一揆勢の捕虜となります。残った山田光教寺救援のために越前国朝倉勢が加賀国に越境。小一揆勢を糾合して9月に手取川で戦い、大一揆勢を破りますが、11月に入って加賀・能登国境近くの津幡の戦いで畠山家俊が敗死し山田光教寺も陥落します。小一揆方の敗北が確定すると朝倉勢も越前に撤兵しました。
 本泉寺の蓮悟は能登亡命後間もなく死去、毒殺説があります。松岡寺の蓮綱は拘束中に死亡、蓮慶らその他の捕虜は処刑され、光教寺の蓮聖は越前国に亡命しました。これにより加賀三ヶ寺による加賀国統治は終焉し、本願寺が派遣する代坊主によって直接支配する体制になりました。

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2008年4月22日 (火)

川戦:山科編⑦蓮淳のコンプレックス

 本稿はかなりの部分を妄想に費やしています。
 蓮淳は蓮如の第二夫人蓮祐の子であり、本願寺九世実如の同母弟です。彼に与えられたのは近江国近松顕証寺。かつて蓮如が比叡山延暦寺に屈服して隠居を強いられた時に、廃嫡された順如のために建てられた寺でした。本願寺のある山科と大津はJRの駅にして隣ですし、大津と山科は山科川で繋がっていて交通の便はいい。
 さりながら、その当時の顕証寺は決して大刹と言えるものではありませんでした。顕証寺のある近江国南部には堅田本福寺があり、その教区は顕証寺のそれと多くが重なっておりました。門徒の引き抜きあいなどの事件もおこっていたようです。しかし、寺院の規模は本福寺の方が大きく、歴史の浅い顕証寺の立場が弱いのが現実でした。顕証寺は山科本願寺と堅田本福寺という二つの大刹に囲まれた地に建てられた寺なのですね。
 本福寺はもともとは浄土真宗仏光寺派の寺院でしたが、時の住持法住が蓮如と意気投合して本願寺教団に鞍替えしたのです。以後、本福寺は延暦寺の弾圧を受けた蓮如を匿ったり、延暦寺と時には戦ったり、延暦寺との和議をとりなすなどして蓮如を支えました。その本福寺を支えていたのは琵琶湖の湖族達です。彼らは堅田に本拠をもつ熱心な蓮如党でした。実如が細川政元の意を受けて派兵・撤兵を決めたときも、本福寺以下堅田門徒衆は兵力の輸送に船団を組んだのですね。
 蓮淳はそういう光景を見て育ちました。彼の体の中には蓮如の血が流れています。しかし、同じ血を引く兄実如は本願寺法主として城砦のような山科本願寺に鎮座し全国の門徒達を率いています。それに引き換え、蓮淳の顕証寺は本福寺と門徒の奪い合いをしなければ、蓮如の血族としての体裁すら整えられないのが実情でした。しかも寺院の規模は本福寺の方が大きい。
 本願寺九世法主の実如は同母弟の蓮淳が近くにいることもあって、しばしば本願寺に呼んで談笑していたと思われます。しかし、そういう付き合いを重ねれば重ねるほど、彼のコンプレックスは増大してゆくのでしょう。自らに流れる蓮如の血と同じ血を引く兄との比較において。それはいつか顕在化するものでした。
 そのきっかけは細川政元が暗殺され、実如が堅田本福寺に避難した時ではなかったでしょうか。普段近しくしていた兄が、非常事態において近松顕証寺ではなく、堅田本福寺を頼りました。同じ両親の血を引く弟ではなく、赤の他人を選んだのでした。もちろん、堅田を選んだことにはちゃんとした理由があります。山科と大津は近すぎるので、本願寺が襲われれば顕証寺にもすぐに累が及ぶのは間違いありません。それに堅田は湖族の地です。彼らが団結すれば敵の襲撃にもある程度耐え凌げますし、いざとなれば船で脱出することも可能でしょう。頭では理解していても、心の中は裏切られたという気持ちで満たされていたのではないかと思います。

 兄実如は教団運営の失敗を認めて教団の再生を息子の円如と弟の蓮淳に委ねました。蓮淳が最初に着手したのは伊勢国長島に一大水砦寺院を築くことでした。願証寺と名づけて自らがそこの住持となります。その堅牢さは後に織田信長との戦いで証明されております。信長はここを攻め落とすために有能な部下を何人も失い、陥落後はその報復として狂気じみた虐殺をしております。
 なぜ、そんな堅牢な寺院を作ったのか。それはここまで語った内容をたどれば容易に推察できると思います。兄実如が将来において山科本願寺を喪うことがあれば、安心して避難する場所を確保するためだったでしょう。そして、そこが大谷、山科に続く第三の本願寺になることをも想定していたと私は考えます。その想定は実如の死後に実現します。1532年(天文元年)に山科本願寺が破却された時、蓮淳本人が避難した先。それが長島願証寺でした。

 おそらく蓮淳が兄が抱えていた者の重さを本当の意味で自覚したのはその後だったのではないかと思います。実如が陥ったジレンマに対して、蓮淳、そして円如が示した解。そこに至るまで苦悩がなかったとは思いません。しかし、その結論に至ったこと自体に何か屈折したものを感じます。
 それは強い本願寺を作ること。法主が判断を間違えようともそれによって揺らがない強い団結力をもった組織を作ることだったのではないかと思います。
 そのために、宗教的信条を固めるために御文を整備して五帖にまとめました。教団として王法に逆らわないことを宣言した三箇条を定めました。そして、その屈折がもっとも良く出ているのが一門一家制度とその運用でしょう。
 まず三箇条の制定に異をとなえ、越前攻め敗北の責任を加賀国若松本泉寺の蓮悟に負わせようとした本覚寺蓮恵を破門にしました。法主の定めた法に従わず、法主の一族ではない者が法主の連枝たる蓮悟を弾劾したことを罪としたのですね。これはおそらくは見せしめだったのだと思います。蓮如を援けて教団を大きくした功績のあった寺院であっても、一門一家の序列より格下であることを明確にしたのです。
 これは当然、本福寺にも当てはめられるべきものでした。蓮淳は門徒の引き抜きのあったことで本福寺の明宗を告発し、破門させます。しかし、これは実如が止めたようです。明宗は実如にとっては恩人であり、それを足蹴にすることは寝覚めが悪いことだったのかもしれません。証拠もあやふやな部分があったため破門は取り消されました。蓮恵も侘びを入れることで許します。
 しかし蓮淳にとってはこれでとりあえずは十分でした。これによって教団の序列は明確になりました。法主とその一族が教団の功労者より優先します。それによって教団が強くなることを目指したわけですね。
 円如は父実如より早く亡くなります。それは、教団が抱える矛盾に正面から向き合った結果なのではないかと思います。蓮淳は屈折していた分、そういったプレッシャーに耐え抜くことが出来、さらに自らの正義を信じることができたのではないでしょうか。

 この間、大坂一乱で追放された実賢は許されて堅田称徳寺に入ります。これは実は明宗を陥れる布石だったりするのですね。実賢は蓮淳にとっても異母弟です。彼は本来連枝の扱いになるはずですが、同母弟の実悟が「畠山の血」故に一家扱いになってるので、復帰しても一家扱いだったのだろうと思います。その実賢は1523年(大永三年)に死にます。堅田称徳寺は蓮淳が後見することになりました。罠は着々と整ってゆきます。関係ありませんが摂津国富田教行寺の蓮芸も同じ年に亡くなっています。
 その翌年の1524年(大永四年)、本願寺九世法主実如が死にます。法主を継ぐのは実如の孫の証如です。証如の母は蓮淳の娘でした。つまり、証如にとって蓮淳は外祖父に当たるわけです。このとき、証如は僅かに八歳の幼児に過ぎませんでした。この幼い法主の後見として実如が指名したのは蓮淳でした。大津の小寺の住持は実質的に本願寺教団の最高指導者に登りつめたのです。

 かつての糾弾を止めた実如はすでにいません。実如没の三年後、1527年(大永七年)称徳寺は本福寺の信者の引き抜きを試みました。それを止めるのは普通の感覚でしょう。しかし、称徳寺の後見をする蓮淳はこれをもって堅田本福寺住持明宗を破門にします。一門一家の行うことに逆らった罪です。かなり無茶な論理立てです。一門一家の制度を作ったのは蓮淳で、信者の引き抜きを仕掛けたのも蓮淳で、明宗を裁いたのも蓮淳なのですから。しかしながら、これによって明宗は財産・門徒の全てを失いました。

 蓮淳はこの後、もう一度明宗を破門して最終的に餓死に至らしめています。本当の所、蓮淳と明宗との関係がどのようなものだったのかは判りません。明宗にも蓮淳の屈折した心情を理解する資質が足りていなかったのかもしれませんが、それにしても執拗な攻撃だと思います。
 ここまでやれるということは己の正義を信じているということなのだろうと想像します。実如が耐えられなかったプレッシャーに対し、蓮淳が出した解が教団を強くすることでした。世の中は下克上が横行しています。一向一揆の振る舞いそのものが下克上の象徴と捉えられています。教団の存続のためにはその連鎖を断ち切る必要がありました。連淳はその為に法主の教えが、命令が下々に行き渡る体制作りに情熱を注いだのでしょう。蓮淳にとって本覚寺や本福寺などの一門一家以外の大刹はその流れを乱す悪に見えました。それゆえ弾圧を加えたのではないでしょうか。
 そして、その体制の変革を変え、真に強い教団にするためにはもう一つ整理をすべき組織がありました。兄と甥達が指導している百姓の持ちたる国、加賀国です。

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2008年4月17日 (木)

川戦:山科編⑥実如のジレンマ

 結果から見れば実如の判断は大失敗でした。「王法を先に」するよりも「紅旗征戎吾が事にあらず」に徹していた方が良かったはずです。しかし、そうするには教団は余りにも大きくなりすぎておりました。誰かが統制しなければ一揆集団はどこかで暴走してしまいます。しかしながら統制しようとするにも、末寺は各地で様々なしがらみに囚われています。地元勢力と密着して教勢を伸ばしている者は大坂一乱の蓮能だけではありません。本寺である山科本願寺からしてそうなのです。
 だからと言って過ちを認め、しがらみを断ち切り、実害のない仙人集団のようなものを目指せようはずはありません。そこは乱世であり、巨大な教団は俗に塗れながら目の前にあるのですから。すでに畠山や朝倉から恨みは買っています。今更武装解除をすれば餌食になるのがオチなのですね。それらは実如が抱えたジレンマでした。

 たどり着いた結論は、末寺であろうと依るべきしがらみはただ一つに絞るべきであるということだったようです。つまり、統制を強化し、権力を強化し、外敵に対しては一丸となってこれと当たるべし、ということです。そうすれば仮に室町殿や管領を敵に回したとしても教団の存続は可能でしょう。そのためには本山末寺の序列を整備し、少なくとも教団内部においては合い争うことのないようにする。その判断基準として採用したのは、本願寺教団の存続意義。親鸞の血筋でした。
 その線で実如は体制の再整備を進めます。息子の円如と弟の蓮淳を起用して教団改革を進めたのです。蓮淳は近江国大津の顕証寺の住持でした。顕証寺は蓮如の長男、順如が親鸞の祖像とともに入った経緯のある名刹です。彼は頃に伊勢国長島に水上要塞さながらの願証寺を建てました。後に織田信長との抗争において、その部将を何人も屠り、信長の攻撃を何年も凌ぎきった堅固な要塞です。足利義材や畠山氏が報復を企んだ時の避難所を想定していたのかもしれません。

 円如・蓮淳はまず、蓮如の御文の八十通を五帖にまとめ、宗門信条として定めました。次に1518年(永正十五年)に三法令を発布。内容は①武装・合戦の禁止、②派閥・徒党の禁止、③年貢不払いの禁止の三つです。これはお上から睨まれないようにするため、「王法を先に」するための方針と思われます。
 そして、もう一つ1519年(永正十六年)に制定した一門一家制度です。これは親鸞の子孫である本願寺法主の一族の序列を明確にするために設けられました。これは一門を三つのカテゴリに分けるものでした。内訳は、①連枝:法主の子供、兄弟。②一門:連枝の嫡男、③一家:連枝の次男以下、並びに蓮如以前に分かれた一族衆です。

 この改革は様々な軋轢を生みました。三法令の①武装・合戦の禁止は加賀国に亡命し、越前復帰を目指す和田本覚寺にとっては障害以外の何者でもありません。本覚寺の蓮恵は加賀三ヶ寺の一つ、二俣本泉寺の蓮悟に苦情を入れました。蓮悟は加賀一揆衆に檄をとばして越前攻めをさせた張本人です。それまで平和に暮らしていた越前国の本覚寺にとっては寝耳に水の話でしょう。故に越前国和田本覚寺の連恵にとっては、一揆を煽った加賀国二俣本泉寺の蓮悟こそ敗戦責任を負うべき人物です。しかし、本寺である山科本願寺が降した裁定は本覚寺蓮恵の破門処分でした。一つは三法令違反、そして、一門一家に対してみだりに相論を起こしたことが咎められたのでしょう。本覚寺の先代は蓮如のために吉崎の地を提供した功労者でもあるのですが、その住持が蓮如の一門によって罰せられたということです。

 また、近江国堅田本福寺の明宗に不正ありとされて彼も破門を食らいます。訴えを起こしたのは蓮淳でした。堅田本福寺は蓮如の代に本願寺教団に宗旨を変えて以来、日に陰に本願寺を支えた寺院です。細川政元が暗殺された時には法主実如を匿うこともしています。さりながら、近江には顕証寺という一門の蓮淳の寺があったのですが、近江における教勢は本福寺の方が大きかったというところが蓮淳の恨みを買っていたと思われます。
 前者は蓮恵が侘びを入れ許され、後者は蓮淳が示した証拠が嘘であったことが発覚し、許されました。さりながら、本覚寺や本福寺のような蓮如の代に功績のあった寺院であっても、一門衆によって破門されるのだという実例を門徒達に示したことによって、統制の実は大いに上がったと言えるでしょう。
 但し、その一門一家といえども、法主の統制下にあることは、本泉寺の連悟の養子に入った実悟
の実例を見れば判ると思います。実悟は大坂一乱で追放された蓮能の実子で、本泉寺連悟の養子になっていました。よって、大坂一乱当時実悟は北陸にいたため、罰を受けずにすんだのですが、本泉寺の連悟には疎まれました。彼は蓮如の実子であり、実如の定めた制度によれば連枝の資格があるにもかかわらず、連悟の申立「実悟は敵である畠山氏の血縁である」という理由をもって一家に格下げされています。

 これらの実例は非一門の大刹よりも、一門寺院が優先し、その一門の序列も上位者の恣意により左右される集権的な体制であるといえるでしょう。実如が円如・蓮淳に行わせた改革により、統制の取れた教団を目指すことになりましたが、そこに大きな軋み、軋轢を生んだことは事実です。
 受難を受けた石山の蓮能とその子実悟、本覚寺蓮恵、本福寺明宗達の姿に、比叡山延暦寺の圧力に苦吟する蓮如の姿を重ねるのは不遜でありましょうか。

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2008年4月15日 (火)

川戦:山科編⑤吉崎炎上

 大坂の不満分子を一掃した実如ですが、それで本願寺門徒衆が一丸となって戦えるようになったかというと必ずしもそうではありませんでした。
 百姓の持ちたる国となった加賀国は本願寺教団の重要拠点となった三つの寺が治めました。連乗の本泉寺、蓮綱の松岡寺、蓮誓の光教寺です。連乗は1504年(永正元年)に没し、その跡を蓮悟が継いでおります。いずれも蓮如の実子です。本願寺九世法主である実如の命を受け、1506年(永正三年)、本泉寺の蓮悟は加賀国に動員令を発します。標的は能登畠山氏、越中長尾氏、そして越前の朝倉氏です。
 6月に加賀の一向一揆勢は国境を越えて越前に侵攻しました。その数なんと三十万。関ヶ原でも東西合わせて十六万といいますから、誇張の入った数字でしょう。それを迎え撃ったのが朝倉宗滴率いる一万五千。越前国中之郷において、九頭竜川を挟んで両軍は対峙します。その両軍は8月5日に九頭竜川において激突しました。
 誇張を除いても数で圧倒的に勝ったと思われる一揆勢でしたが、果敢に九頭竜川渡河を断行した朝倉宗滴軍に総崩れとなりました。勝ちに乗じた朝倉勢は吉崎御坊を焼くに至ります。
 この合戦をきっかけに守護の朝倉貞景は越前国に禁教令を発し、本願寺教団系寺院は一掃されます。越前国には和田本覚寺、藤島超勝寺など蓮如ゆかりの有力寺院もありましたが、悉く破却され、住持や信者達は一団となって加賀国に逃れたといいます。藤島超勝寺ら亡命大寺は加賀国塔尾、和田山に拠点を設け、越前復帰を目指すことになります。
 能登への侵攻は能登国守護の畠山慶致が兄義元とともに一揆勢を防ぎ、越中では般若野の戦いで畠山氏を救援に来た越中国守護代、長尾能景が逆に討たれます。
 国単位で言えば、一勝二敗。しかも越前の禁教令によって、本願寺は山科から琵琶湖経由で若狭街道を下って越前・加賀へと至るルートに朝倉氏という一大障害物に阻まれることになりました。

 全体としてはかばかしい戦果は上げられなかったといえるでしょう。そして、京都においても大きな転機が訪れます。九頭竜川合戦の翌年、1507年(永正四年)本願寺に朝倉、畠山氏と戦えと命じた細川政元が死んだのです。
 細川政元には三人の養子――関白九条政基の末子・澄之、阿波守護家出身の澄元、備中守護家出身の高国――がいたことは既に書きましたが、このうちの澄之に暗殺されました。澄之は貴族出身で政元の養子にはなったものの、戦国の世の惣領としての器量不足により廃嫡された立場でした。澄元は阿波守護家の出身で三好元長という有能な武人を家宰として抱えていました。戦力不足の政元はこれを優遇しますが、元から仕えている被官衆がこれを快く思いません。そこで、澄之をかついで暗殺に及んだというのが事の経緯です。
 実如はこの報を受け、山科本願寺を出て堅田本福寺に隠れます。時の本福寺は明顕、明宗親子が住持を勤めており、彼を保護しました。

 外には足利義材(この時点では改名して義尹。後に義植となりますが本稿では義材で通します)が大内義興らとともに京に向かってきています。内紛などしている場合ではありません。澄元は高国と連合して澄之を排します。
 澄元は政元の死をきっかけに足利義材と講和を結ぶ腹積もりでした。その為の交渉を行うため、高国を派遣したのですが、彼は足利義材・大内義興と内通し、寝返ります。京にいる足利義澄、細川澄元は近江に逃れ、足利義材は将軍に復帰しました。
 義材派というと、一向一揆と戦った畠山、朝倉氏もその一員です。幕府の政権中枢と太いパイプを築くことによって教団の存続強化を図った実如の狙いはものの見事に裏目に出たわけです。
 政権は政元の敵によって握られましたが、とりあえず本願寺に実害はないと判断した実如が山科本願寺に戻ったのは、1509年(永正六年)のことでした。

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2008年4月10日 (木)

川戦:山科編④大坂一乱

 後世という安全圏からの無責任な評価ですが、細川政元という政治家はつくづくセンスを欠いております。父勝元が応仁の乱で築いた優勢勝ちを結局無に帰してしまったのですから。彼は日野富子を味方につけ、将軍足利義尚のもとで事実上の独裁者の地位を手に入れたにもかかわらず、自らの権力の源泉である将軍を鉤の陣で死なせてしまったのですから。死因は公には病死とされています。酒毒にやられたともいわれてますが、暗殺のセンも捨てがたい。どっちにせよ、そういう死の運命から主人を守りきれなかった責任の一端は明らかに彼にありました。
 そして、義尚の後継者の選択眼もいかにも場当たり的です。主人義尚が十一年も後継者争いをしていた義視の息子義材なのですから。もちろん義視もコミで。己を殺して隠忍自重に徹すれば、その決断も英断と評価されうるでしょうが、結局我慢できずにクーデターを起こしました。そこで奉じたのが堀越公方足利政知の息子、義澄でした。関東の堀越公方は鎌倉公方が分裂してできたものです。元々鎌倉公方は足利尊氏の息子の基氏の血筋がなっていましたが、持氏の代で足利義教に滅ぼされます。その遺児が古河に再起をはかって鎌倉公方を名乗った対抗馬としてあてがわれたのでした。足利政知も、義視と同じく出家したのに還俗させられて公方に就任したという経歴の持ち主です。つまり、京都の傀儡でしかありません。その権力基盤は極めて脆弱でした。事実上、堀越公方は足利政知一代で消滅しています。
 よって、義澄は細川政元の完全なる傀儡でしかない事は誰の目にも明らかでした。クーデターで将軍にを配した義材を京に幽閉しましたが、間もなく脱出。流れ公方となって地方大名の支援を求めて全国行脚します。これでは野に虎を放ったも同然です。

 かなりヤバイ状況に陥った細川政元が味方として頼んだのが本願寺教団でした。それを戦力として認識したのは義尚が鉤の陣にあったころ、加賀国守護の富樫政親が一向一揆衆によって殺害された時でした。時に蓮如は山科本願寺――京と鉤のある近江国に挟まれた盆地――にいました。当然、政元は蓮如に彼らの処断を要求しました。ここで蓮如が対応を誤れば、山科本願寺は幕府に破却される憂き目にあいかねません。悩んだ末に蓮如がとった対応は、側近の下間蓮崇を一揆をあおった責任者として破門。そして、一揆に参加した者たちに対しては急度叱りの御文で警告を送ることでした。これで満足するか否かの判断を幕府に委ねたのです。管領細川政元は本願寺教団を許しました。そして、加賀国に本願寺教団主導の体制を作ることまで黙認したのです。これは非常に大きな借りとなって、蓮如の後継者である実如にのしかかることになります。

 流れ公方となった足利義材が頼った地方大名は加賀国の隣国、越前国守護朝倉貞景、周防守護大内義興、河内国守護畠山尚順らで、それぞれの拠点で蜂起しました。政元はこれらの勢力の討伐に本願寺の参戦を要請しました。時に1505年(永正二年)のことです。
 畠山氏は河内だけではなく、能登・越中国も領しておりました。もしこの要請に応えれば、加賀国の一向一揆衆は西に越前、東に越中、北に能登と三方の敵に囲まれることになります。
 それでも実如は断を下します。畿内・北陸の門徒達に動員をかけ、河内へ、越中、能登、越前へ向かい、戦うことを命じました。この決断には蓮如が示した方針『王法を先とし、仏法をばおもてより隠すべし』もあったのだろうと思われます。しかしながら、最大の要因は山科本願寺が京都のしがらみに囚われてしまったことにありました。山科本願寺には日野富子、細川政元らが参拝し、蓮如・実如らとの関係を深めていたのですね。本願寺教団としても二度と比叡山延暦寺から破却の憂き目にあわない為にも、権力中枢との関わりは是が非でも保ちたい所だったでしょう。前科があると思っていればなおされです。
 ただ、この決断は大きな代償を伴いました。蓮如の第五夫人であった蓮能は能登畠山氏の出身で、摂津国石山御坊に住していました。石山からは河内国はすぐ近くです。蓮能にとっては親戚筋の人々が治める国でした。河内国にも本願寺教団の布教は進んでおり、畠山氏と本願寺教団との関係は必ずしも悪いものではありませんでした。にもかかわらず、実如は畠山氏を敵として戦うことを門徒達に命じたわけです。
 蓮能は蓮如の妻であり、実賢という子を設けています。本願寺法主が親鸞の血を受け継ぐ者であるというのならば、実賢もまた同じ立場にありました。そして、身内同然の門徒達に自分の実家・親戚筋を攻撃させよという命令は受け入れられるものではありません。蓮能は石山御坊で参戦に反対します。やむなく実如は河内国へは北陸の門徒を差し向けて細川政元への義理を果たす事にします。しかし、このことは蓮能をさらに刺激することになります。蓮能を中心とした摂津・河内の門徒衆は山科の本願寺に法主の交代を、蓮能の子の実賢をつけることを要求するに至ります。石山御坊の支持者は実賢を中心にまとまっており、これ以上対立が先鋭化するなら本願寺教団が分裂することもありえました。浄土真宗だけではなく、浄土宗等の阿弥陀信仰系仏教には数多くの分派がありますから、この懸念は決して杞憂ではありません。
 そこで先手を取ったのは実如でした。1506年(永正三年)1月、側近の下間頼慶を石山に派遣して、石山御坊を接収。蓮能、実賢とその弟達を逮捕し、破門・追放しました。

 教団の危機は当面回避されましたが、それはまだプロローグに過ぎません。実如の門徒動員はこの後数多くの軋みを生み出し、その結果本願寺教団組織そのものが変貌する結果となります。それについては次稿以降に触れてゆきたいと思います。

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2008年4月 8日 (火)

川戦:山科編③本願寺八世と五人の妻

 蓮如の系図を以下に示します。女系は重要なものを除いて省略です。蓮如はその生涯において、五人の妻との間に十三男十四女をもうけました。蓮如は長命でしたし、子福者だったということでしょう。

  蓮   如(本願寺八世)     +――順如(顕証寺)
  ∥∥∥∥∥            |
  ∥∥∥∥+――――――――+――蓮乗(本泉寺)
  ∥∥∥∥∥            |
  ∥∥∥∥如了(伊勢貞房娘)  +――蓮綱(松岡寺)
  ∥∥∥∥             |
  ∥∥∥∥             +――蓮誓(光教寺)
  ∥∥∥∥
  ∥∥∥+―――――――――+――実如(九世)――+――円如
  ∥∥∥∥             |             |    ∥
  ∥∥∥∥             |             |    +――証如(十世)
  ∥∥∥∥             |             |    ∥
  ∥∥∥蓮祐(伊勢貞房娘)   +――蓮淳(顕証寺)―(―――女
  ∥∥∥               |             |
  ∥∥如勝             +――蓮悟(本泉寺)  +――実円(本宗寺)
  ∥∥
  ∥+――――――――――――――蓮芸(教行寺)
  ∥∥
  ∥宗如               +――実賢
  ∥                  |
  +――――――――――――+――実悟(本泉寺蓮悟養子)
  ∥                  |
  蓮能(畠山政栄娘)        +――実順
                     |
                     +――実孝
                     |
                     +――実従

 妻子のプロファイルを紹介します。第一夫人の如了は政所執事を務めた伊勢貞親の一族の伊勢貞房の娘で、順如、連乗、蓮綱、蓮誓を生みました。順如は嫡男でしたが、父蓮如が比叡山延暦寺との抗争に負けたことにより廃嫡、近江国大津の顕証寺の住持に親鸞の祖像管理者としておさまります。この廃嫡は後の混乱の中でなかったことになるのですが、蓮如よりも先に亡くなったため、本願寺教団法主の継職はせずじまいでした。残る連乗、蓮綱、蓮誓は蓮如が応仁・文明の乱中の活動拠点とした越前国吉崎の隣国、加賀国の拠点となる三つの寺の住持になりました。連乗は本泉寺、蓮綱は松岡寺、蓮誓は光教寺です。この三つの寺院を総称して加賀三ヶ寺と言います。このうちの松岡寺、本泉寺は光教寺よりも格上らしく、この二寺のみを両御山と呼ぶこともあるそうです。

 第二夫人の蓮祐も伊勢貞房の娘です。彼女は実如、蓮淳、蓮悟を生みました。実如は順如の早世により、本願寺九世法主になります。彼は三河国で一時本宗寺の住持を務め、それを息子の実円に譲っております。その弟の蓮淳は順如亡き後の顕証寺、それから後に織田信長との合戦の地として有名になる願証寺の住持になりました。実如と並んで本編で詳しく描く人物です。その弟、蓮悟は蓮乗の後に本泉寺の住持になります。のちに、この加賀三ヶ寺は蓮淳と彼が擁する証如と対立することになります。

 第三夫人の如勝には男子はおらず、第四夫人宗如は摂津国富田教行寺の住持になる蓮芸を生みました。

 第五夫人の蓮能は能登国の畠山政栄の娘です。畠山政栄は河内守護の畠山義就、政長の一族であり摂津国石山御坊に子供たちと住んでおりました。子供はそれぞれ実賢、実悟、実順、実孝、実従の五名で、実悟は蓮悟の養子として本泉寺に入っております。蓮能はその血縁関係により、畠山氏が支配する河内国に深く良好な関係を持っておりました。

 蓮如の子供たちが拠点としたのは、本山である山城国山科本願寺、近江国顕証寺、加賀国本泉寺、松岡寺、光教寺、三河国本宗寺、摂津国石山御坊、教行寺の各寺院です。それぞれの寺院にはそれぞれのしがらみがあり、そういうものを超えて教団運営をしなければならないのですから実に大変なことだったでしょう。これらの寺院のほかに近江国本福寺や、越前国超勝寺、本覚寺、三河国上宮寺など蓮如を時には援け、庇って教団の反映を築いてきた関係寺院があるのです。蓮如の死後、山科本願寺を譲られた本願寺九世実如がしなければならなかったことはそれら寺院の統制でした。

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2008年4月 3日 (木)

川戦:山科編②鳥瞰:戦国バトルロワイヤルズ

 前編にて応仁・文明から永正までの三河国の歴史を一気に飛ばしましたので、ここらで京都の動性を権力の所在を中心として簡単に触れてゆきたいと思います。書いていていやになるくらいに泥縄的展開になっております。

①応仁・文明の乱(1467~1478年)
 山名宗全と細川勝元の戦いでした。将軍家は足利義視と足利義尚の争い。組んづ解れつした挙句、山名・細川は両当事者は退場。残ったのは将軍足利義尚、日野富子、細川政元、そして東軍で戦った人々でした。

②鉤の陣(1487年~1489年)長享元年~三年
 将軍に就任した足利義尚は荒廃した京を建て直し、有力御家人達の統制を取る必要が生じていました。守護大名達の権威は地に落ち、上も下も所領横領がはびこっていました。権威回復のため、最初の標的にしたのが南近江の六角高頼。彼は将軍家の領地を横領していました。ところが、その在陣中に足利義尚本人が病死。結果として将軍権力の低下を招きました。

③足利義材の第一次将軍就任 (1490年~1493年)延徳2年~明応2年
 足利義尚急死によって空位となった将軍職を管領細川政元と日野富子が相談して、応仁の乱によって将軍になれなかった足利義視の子、義材を将軍職に就ける。義視は大御所として君臨しますが、一年位で死去。細川政元はストレスの多い生活を強いられる。

④明応の政変(1493年)明応2年
 とうとうキレた細川政元は将軍足利義材が河内遠征中にクーデターを起こします。そして、足利政知の子、義澄を将軍に据えて実権を握ります。足利義材は一度細川派に捕まりますが、後に脱出。諸国浪々の日々を強いられることになります。

⑤細川政元の暗殺(1507年)永正四年
 細川政元は政治的にはやり手ですが、変人でもありました。修験道、仙道に深い関心を持ち、自らに不犯戒を課します。不犯戒というのは異性と性交渉を持たない戒めのことで、仏教や修験道の修行の一つです。親鸞の浄土真宗とは間逆の発想ですね。そのせいで、彼には実子がおりません。故に三人の養子をもちました。関白九条政基の末子・細川澄之、阿波守護家出身の細川澄元、備中守護家出身の細川高国の三人です。このうちの阿波守護家というのは、三河守護をやったことのある細川成之のことです。
 で、この三人が家督相続争いを始めるのですが、その中の澄之が先走った行動にでます。家臣に養父政元を暗殺させてクーデターを決行しました。しかし、これは残り二人を結束させる結果となり、逆に殺されてしまいます。細川家の家督は阿波守護家出身の細川澄元が継ぐ事になりますが、事態はそれだけでは収まりませんでした。

⑥足利義植(義材)の第二次将軍就任 (1508年~1521年)永正五年~大永元年
 細川政元の死を好期とした足利義材は周防の大内義興を後ろ盾に上洛戦争を仕掛ける。この急場に細川澄元と同盟を結んだはずの細川高国が足利義材側について、足利義澄と細川澄元は阿波に落ち延びます。

⑦細川高国の執政(1521年~1527年)大永元年~大永七年
 復帰後の足利義材(義植)は大内義興と細川高国の両輪に支えられておりました。しかし、大内義興の地盤である中国地方が新興の尼子氏によって蚕食されはじめ、1518年(永正15年)に大内義興は周防に戻ります。細川高国はそのまま足利義材(改名して義植)とうまくやればよかったのですが、ここで細川高国は二度目の裏切りを行います。自分達が追放した足利義澄の息子の義晴を奉じ、足利義材(義植)を追い出しました。
 どうも細川高国は裏切りを重ねているせいか、不人気です。1527年(大永七年)丹波の波多野氏が阿波に落ち延びた細川澄元の子、細川晴元と連携し京都から足利義晴と細川高国を追い出しました。足利義晴は近江坂本に逃れましたが、細川晴元は上洛せず、義晴の弟、義維を公方として堺に御所を置きました。天下に二人の公方があり、京に将軍不在の異常事態です。細川高国は細川晴元と抗争し、1531年(享禄四年)に細川晴元の家臣三好元長の手により討ち取られました。

⑧細川晴元の執政(1531年~1549年)享禄四年~天文十八年
 細川晴元は使える者はなんでも使い、使い捨てるのも早いという印象です。1531年(享禄四年)三好元長に細川高国を討ち取らせると、今度は彼は本願寺教団と結び、功臣三好元長を殺害します。さらに近江国坂本に逃れた足利義晴と結んで、堺公方足利義維を切り捨てました。
 本願寺教団の一向一揆は暴走したため、細川政元は法華宗・六角定頼と組んでこれに弾圧を加え、山科本願寺を破却します。本願寺側はこれを天文の錯乱(1532年・天文元年)と呼びます。その後足利義晴を京に呼び戻し幕府の体裁を整えましたが、この時点で足利義晴はお飾りに過ぎません。そして比叡山と組んで法華宗の諸寺院を焼き払いました。これを日蓮宗(法華宗)側は天文法難(1536年・天文五年)と呼びます。
 1543年(天文十二年)に細川高国の養子、氏綱が打倒細川晴元を打ち出して挙兵すると、周辺大名やあろう事か足利義晴の支持まで受けます。細川晴元はこの主人を追い出したり呼び戻したりして政権の維持に努めますが、結局1549年(天文十八年)に家臣の三好長慶の離反を招き、足利義晴らとともに近江国坂本に逃れます。

⑨三好長慶政権(1549年~1564年)天文18年~永禄7年
 三好長慶によって細川氏綱は煮られた走狗になりました。氏綱は一応管領の地位は得たのですが、政治に口出しは許されませんでした。三好長慶本人は実に有能な人物で、堺など、畿内各所に有能な弟たちを配置し、畿内という限定的な領域でしたが纏め上げることに成功しました。但し、これは三好長慶と彼を支える一門衆の個人的な力量に支えられたものでした。1561年(永禄四年)に十河一存、1562年(永禄五年)に三好義賢、1563年(永禄6年)に三好義興と次々と親類が死に、その翌年弟の安宅冬康を讒言で誅殺したあと、長慶も病死します。

⑩松永・三好三人衆政権(1564年~1568年)永禄7年~永禄十一年
 三好長慶の家督は三好義継が継ぎましたが、十三歳の少年に過ぎず、家宰の松永久秀と一門の三好三人衆が支えることになりました。言ってみれば傀儡です。将軍足利義輝は長慶の時代に和睦して京に戻っておりましたが、これを好期に将軍権力の回復を策します。しかし、先手を打たれて殺害されました。1565年(永禄八年)のことです。やむを得ず、堺公方足利義維の子息義栄を擁立することにします。その時に義輝の兄であり、出家させられていた義尋が京を脱出して織田信長に保護を求め、義昭と改名して上洛戦争を始めました。足利義栄は摂津富田まで来るには来たものの、京では肝心要の松永久秀と三好三人衆が抗争を始める始末です。
 そうこうするうちに足利義昭は先に上洛を果たし、松永は織田信長に服して三好三人衆は四国に落ち延びました。足利義栄も間もなく病死し、織田信長の政権が始まることになります。

 この辺のくだりは実に複雑で歴史の教科書でも端折られる部分です。戦国史を銘打って文章を書いていますので、理解のためのランドマークとして建てさせていただきました。

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2008年4月 1日 (火)

川戦:山科編①蓮如を継ぐ者

 前回にて『将軍寺』編は一段落とし、今回から山科本願寺編と題して川の戦国史を続けます。

 本編では蓮如死後の本願寺教団の動きを見てゆきたいと思います。応仁の乱以後、天下は麻の如く乱れまくります。教科書なんかでは応仁の乱から織田信長の登場まで一気にすっとばすのですが、ここではきちんと追ゆく、というのが本編の趣旨です。但し、この時代の流れは実に複雑かつ脆いものです。誰かが実権を握ったと思えばあっという間に別の誰かに奪われる。はっきり言って一つの流れにまとめて記述するのは私にはムリです。
 そこで本稿では実如と蓮淳という二人の僧を中心に見てまいります。実如は蓮如の後を継いで第九代留守職になった人物です。そして、蓮淳は実如の弟で、実如と実如の後継である証如の補佐役を務めた人物です。
 ある意味蓮如の布教は上手く行過ぎていました。それだけに、周囲の風当たりも強く、様々な軋轢が各地にばら撒かれております。そんな中で二人の指導者の前に引き継がれたのは、山科本願寺を中心とするあまりにも巨大な教団でした。蓮如の後を継ぐ者として彼らが選んだ道は、下克上のプレイヤーとして戦国大名そのものになるきること。教団を徹底的に組織化して一揆衆の暴走を防ぐことでした。それと引き替えに何を得て何を失ったのかを描き出せればいいな、と思っております。

1474年(文明 六年)越前国吉崎の一向一揆勢、富樫政親に加勢。富樫幸千代を倒す。
1483年(文明十五年)山科本願寺の落成。
1488年(長享 二年)富樫政親、加賀の一向一揆勢に討たれる。
1499年(明応 八年)蓮如、山科にて入滅。
1505年(永正 二年)畠山・朝倉氏、反細川政元で挙兵。実如、細川政元に味方する。
          石山御坊にいる蓮如の妻の蓮能、実賢を立てて実如排斥運動をする。
1506年(永正 三年)大阪一乱。実如、蓮能・実賢らを追放。
          吉崎御坊、朝倉氏により破却。廃坊となる。
1507年(永正 四年)細川政元暗殺される。実如、近江国堅田本福寺に避難。
1518年(永正十五年)実如、本覚寺蓮恵、本福寺明宗を破門。
1521年(永正十八年)本願寺法嗣円如(実如の子)死去。円如の子、証如が法嗣になる。
1523年(大永 三年)教行寺蓮芸、称徳寺実賢(蓮能の子)死去。
1525年(大永 五年)実如死去。顕証寺の蓮淳が証如の後見をする。
1527年(大永 七年)蓮淳、本福寺明宗に対して二度目の破門。信者の引き抜き争いによる。
          細川晴元、細川高国に対して蜂起。本願寺、晴元に加勢する。
          超勝寺実顕と下間頼秀、北陸の細川高国派荘園を占拠。
1531年(享禄 四年) 5月 高国派荘園の利害に絡み、北陸三ヶ寺、超勝寺実顕の討伐令を出す。
           6月 本願寺法主証如、北陸三ヶ寺の討伐令を出す。(大小一揆)
           9月 手取川合戦。北陸三ヶ寺+朝倉宗滴連合軍、本願寺勢を破る。
          11月 津幡の戦い。北陸三ヶ寺陥落。
1532年(天文 元年)蓮淳、本福寺明宗に対して三度目の破門。
                     6月 本願寺、畠山義堯と三好元長を討ち、堺公方足利義維を四国に追放。
             一向一揆、奈良侵入。興福寺等を破却。
            (後に奈良永代禁制を受入る破目になる)
           8月 法華一揆+六角連合軍、京都諸寺院並びに山科本願寺を破却。
             証如、石山本願寺に篭城。富田教行寺陥落。石山本願寺包囲される。
1536年(天文 四年)石山本願寺、細川晴元の軍門に降る。
1540年(天文 九年)本福寺明宗、72歳で餓死。本福寺、称徳寺(慈敬寺)の末寺になる。
1546年(天文十五年) 加賀国尾山御坊建立
1550年(天文十九年)蓮淳死去。
1554年(天文二十三年)証如死去

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