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2008年4月 3日 (木)

川戦:山科編②鳥瞰:戦国バトルロワイヤルズ

 前編にて応仁・文明から永正までの三河国の歴史を一気に飛ばしましたので、ここらで京都の動性を権力の所在を中心として簡単に触れてゆきたいと思います。書いていていやになるくらいに泥縄的展開になっております。

①応仁・文明の乱(1467~1478年)
 山名宗全と細川勝元の戦いでした。将軍家は足利義視と足利義尚の争い。組んづ解れつした挙句、山名・細川は両当事者は退場。残ったのは将軍足利義尚、日野富子、細川政元、そして東軍で戦った人々でした。

②鉤の陣(1487年~1489年)長享元年~三年
 将軍に就任した足利義尚は荒廃した京を建て直し、有力御家人達の統制を取る必要が生じていました。守護大名達の権威は地に落ち、上も下も所領横領がはびこっていました。権威回復のため、最初の標的にしたのが南近江の六角高頼。彼は将軍家の領地を横領していました。ところが、その在陣中に足利義尚本人が病死。結果として将軍権力の低下を招きました。

③足利義材の第一次将軍就任 (1490年~1493年)延徳2年~明応2年
 足利義尚急死によって空位となった将軍職を管領細川政元と日野富子が相談して、応仁の乱によって将軍になれなかった足利義視の子、義材を将軍職に就ける。義視は大御所として君臨しますが、一年位で死去。細川政元はストレスの多い生活を強いられる。

④明応の政変(1493年)明応2年
 とうとうキレた細川政元は将軍足利義材が河内遠征中にクーデターを起こします。そして、足利政知の子、義澄を将軍に据えて実権を握ります。足利義材は一度細川派に捕まりますが、後に脱出。諸国浪々の日々を強いられることになります。

⑤細川政元の暗殺(1507年)永正四年
 細川政元は政治的にはやり手ですが、変人でもありました。修験道、仙道に深い関心を持ち、自らに不犯戒を課します。不犯戒というのは異性と性交渉を持たない戒めのことで、仏教や修験道の修行の一つです。親鸞の浄土真宗とは間逆の発想ですね。そのせいで、彼には実子がおりません。故に三人の養子をもちました。関白九条政基の末子・細川澄之、阿波守護家出身の細川澄元、備中守護家出身の細川高国の三人です。このうちの阿波守護家というのは、三河守護をやったことのある細川成之のことです。
 で、この三人が家督相続争いを始めるのですが、その中の澄之が先走った行動にでます。家臣に養父政元を暗殺させてクーデターを決行しました。しかし、これは残り二人を結束させる結果となり、逆に殺されてしまいます。細川家の家督は阿波守護家出身の細川澄元が継ぐ事になりますが、事態はそれだけでは収まりませんでした。

⑥足利義植(義材)の第二次将軍就任 (1508年~1521年)永正五年~大永元年
 細川政元の死を好期とした足利義材は周防の大内義興を後ろ盾に上洛戦争を仕掛ける。この急場に細川澄元と同盟を結んだはずの細川高国が足利義材側について、足利義澄と細川澄元は阿波に落ち延びます。

⑦細川高国の執政(1521年~1527年)大永元年~大永七年
 復帰後の足利義材(義植)は大内義興と細川高国の両輪に支えられておりました。しかし、大内義興の地盤である中国地方が新興の尼子氏によって蚕食されはじめ、1518年(永正15年)に大内義興は周防に戻ります。細川高国はそのまま足利義材(改名して義植)とうまくやればよかったのですが、ここで細川高国は二度目の裏切りを行います。自分達が追放した足利義澄の息子の義晴を奉じ、足利義材(義植)を追い出しました。
 どうも細川高国は裏切りを重ねているせいか、不人気です。1527年(大永七年)丹波の波多野氏が阿波に落ち延びた細川澄元の子、細川晴元と連携し京都から足利義晴と細川高国を追い出しました。足利義晴は近江坂本に逃れましたが、細川晴元は上洛せず、義晴の弟、義維を公方として堺に御所を置きました。天下に二人の公方があり、京に将軍不在の異常事態です。細川高国は細川晴元と抗争し、1531年(享禄四年)に細川晴元の家臣三好元長の手により討ち取られました。

⑧細川晴元の執政(1531年~1549年)享禄四年~天文十八年
 細川晴元は使える者はなんでも使い、使い捨てるのも早いという印象です。1531年(享禄四年)三好元長に細川高国を討ち取らせると、今度は彼は本願寺教団と結び、功臣三好元長を殺害します。さらに近江国坂本に逃れた足利義晴と結んで、堺公方足利義維を切り捨てました。
 本願寺教団の一向一揆は暴走したため、細川政元は法華宗・六角定頼と組んでこれに弾圧を加え、山科本願寺を破却します。本願寺側はこれを天文の錯乱(1532年・天文元年)と呼びます。その後足利義晴を京に呼び戻し幕府の体裁を整えましたが、この時点で足利義晴はお飾りに過ぎません。そして比叡山と組んで法華宗の諸寺院を焼き払いました。これを日蓮宗(法華宗)側は天文法難(1536年・天文五年)と呼びます。
 1543年(天文十二年)に細川高国の養子、氏綱が打倒細川晴元を打ち出して挙兵すると、周辺大名やあろう事か足利義晴の支持まで受けます。細川晴元はこの主人を追い出したり呼び戻したりして政権の維持に努めますが、結局1549年(天文十八年)に家臣の三好長慶の離反を招き、足利義晴らとともに近江国坂本に逃れます。

⑨三好長慶政権(1549年~1564年)天文18年~永禄7年
 三好長慶によって細川氏綱は煮られた走狗になりました。氏綱は一応管領の地位は得たのですが、政治に口出しは許されませんでした。三好長慶本人は実に有能な人物で、堺など、畿内各所に有能な弟たちを配置し、畿内という限定的な領域でしたが纏め上げることに成功しました。但し、これは三好長慶と彼を支える一門衆の個人的な力量に支えられたものでした。1561年(永禄四年)に十河一存、1562年(永禄五年)に三好義賢、1563年(永禄6年)に三好義興と次々と親類が死に、その翌年弟の安宅冬康を讒言で誅殺したあと、長慶も病死します。

⑩松永・三好三人衆政権(1564年~1568年)永禄7年~永禄十一年
 三好長慶の家督は三好義継が継ぎましたが、十三歳の少年に過ぎず、家宰の松永久秀と一門の三好三人衆が支えることになりました。言ってみれば傀儡です。将軍足利義輝は長慶の時代に和睦して京に戻っておりましたが、これを好期に将軍権力の回復を策します。しかし、先手を打たれて殺害されました。1565年(永禄八年)のことです。やむを得ず、堺公方足利義維の子息義栄を擁立することにします。その時に義輝の兄であり、出家させられていた義尋が京を脱出して織田信長に保護を求め、義昭と改名して上洛戦争を始めました。足利義栄は摂津富田まで来るには来たものの、京では肝心要の松永久秀と三好三人衆が抗争を始める始末です。
 そうこうするうちに足利義昭は先に上洛を果たし、松永は織田信長に服して三好三人衆は四国に落ち延びました。足利義栄も間もなく病死し、織田信長の政権が始まることになります。

 この辺のくだりは実に複雑で歴史の教科書でも端折られる部分です。戦国史を銘打って文章を書いていますので、理解のためのランドマークとして建てさせていただきました。

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