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2008年4月10日 (木)

川戦:山科編④大坂一乱

 後世という安全圏からの無責任な評価ですが、細川政元という政治家はつくづくセンスを欠いております。父勝元が応仁の乱で築いた優勢勝ちを結局無に帰してしまったのですから。彼は日野富子を味方につけ、将軍足利義尚のもとで事実上の独裁者の地位を手に入れたにもかかわらず、自らの権力の源泉である将軍を鉤の陣で死なせてしまったのですから。死因は公には病死とされています。酒毒にやられたともいわれてますが、暗殺のセンも捨てがたい。どっちにせよ、そういう死の運命から主人を守りきれなかった責任の一端は明らかに彼にありました。
 そして、義尚の後継者の選択眼もいかにも場当たり的です。主人義尚が十一年も後継者争いをしていた義視の息子義材なのですから。もちろん義視もコミで。己を殺して隠忍自重に徹すれば、その決断も英断と評価されうるでしょうが、結局我慢できずにクーデターを起こしました。そこで奉じたのが堀越公方足利政知の息子、義澄でした。関東の堀越公方は鎌倉公方が分裂してできたものです。元々鎌倉公方は足利尊氏の息子の基氏の血筋がなっていましたが、持氏の代で足利義教に滅ぼされます。その遺児が古河に再起をはかって鎌倉公方を名乗った対抗馬としてあてがわれたのでした。足利政知も、義視と同じく出家したのに還俗させられて公方に就任したという経歴の持ち主です。つまり、京都の傀儡でしかありません。その権力基盤は極めて脆弱でした。事実上、堀越公方は足利政知一代で消滅しています。
 よって、義澄は細川政元の完全なる傀儡でしかない事は誰の目にも明らかでした。クーデターで将軍にを配した義材を京に幽閉しましたが、間もなく脱出。流れ公方となって地方大名の支援を求めて全国行脚します。これでは野に虎を放ったも同然です。

 かなりヤバイ状況に陥った細川政元が味方として頼んだのが本願寺教団でした。それを戦力として認識したのは義尚が鉤の陣にあったころ、加賀国守護の富樫政親が一向一揆衆によって殺害された時でした。時に蓮如は山科本願寺――京と鉤のある近江国に挟まれた盆地――にいました。当然、政元は蓮如に彼らの処断を要求しました。ここで蓮如が対応を誤れば、山科本願寺は幕府に破却される憂き目にあいかねません。悩んだ末に蓮如がとった対応は、側近の下間蓮崇を一揆をあおった責任者として破門。そして、一揆に参加した者たちに対しては急度叱りの御文で警告を送ることでした。これで満足するか否かの判断を幕府に委ねたのです。管領細川政元は本願寺教団を許しました。そして、加賀国に本願寺教団主導の体制を作ることまで黙認したのです。これは非常に大きな借りとなって、蓮如の後継者である実如にのしかかることになります。

 流れ公方となった足利義材が頼った地方大名は加賀国の隣国、越前国守護朝倉貞景、周防守護大内義興、河内国守護畠山尚順らで、それぞれの拠点で蜂起しました。政元はこれらの勢力の討伐に本願寺の参戦を要請しました。時に1505年(永正二年)のことです。
 畠山氏は河内だけではなく、能登・越中国も領しておりました。もしこの要請に応えれば、加賀国の一向一揆衆は西に越前、東に越中、北に能登と三方の敵に囲まれることになります。
 それでも実如は断を下します。畿内・北陸の門徒達に動員をかけ、河内へ、越中、能登、越前へ向かい、戦うことを命じました。この決断には蓮如が示した方針『王法を先とし、仏法をばおもてより隠すべし』もあったのだろうと思われます。しかしながら、最大の要因は山科本願寺が京都のしがらみに囚われてしまったことにありました。山科本願寺には日野富子、細川政元らが参拝し、蓮如・実如らとの関係を深めていたのですね。本願寺教団としても二度と比叡山延暦寺から破却の憂き目にあわない為にも、権力中枢との関わりは是が非でも保ちたい所だったでしょう。前科があると思っていればなおされです。
 ただ、この決断は大きな代償を伴いました。蓮如の第五夫人であった蓮能は能登畠山氏の出身で、摂津国石山御坊に住していました。石山からは河内国はすぐ近くです。蓮能にとっては親戚筋の人々が治める国でした。河内国にも本願寺教団の布教は進んでおり、畠山氏と本願寺教団との関係は必ずしも悪いものではありませんでした。にもかかわらず、実如は畠山氏を敵として戦うことを門徒達に命じたわけです。
 蓮能は蓮如の妻であり、実賢という子を設けています。本願寺法主が親鸞の血を受け継ぐ者であるというのならば、実賢もまた同じ立場にありました。そして、身内同然の門徒達に自分の実家・親戚筋を攻撃させよという命令は受け入れられるものではありません。蓮能は石山御坊で参戦に反対します。やむなく実如は河内国へは北陸の門徒を差し向けて細川政元への義理を果たす事にします。しかし、このことは蓮能をさらに刺激することになります。蓮能を中心とした摂津・河内の門徒衆は山科の本願寺に法主の交代を、蓮能の子の実賢をつけることを要求するに至ります。石山御坊の支持者は実賢を中心にまとまっており、これ以上対立が先鋭化するなら本願寺教団が分裂することもありえました。浄土真宗だけではなく、浄土宗等の阿弥陀信仰系仏教には数多くの分派がありますから、この懸念は決して杞憂ではありません。
 そこで先手を取ったのは実如でした。1506年(永正三年)1月、側近の下間頼慶を石山に派遣して、石山御坊を接収。蓮能、実賢とその弟達を逮捕し、破門・追放しました。

 教団の危機は当面回避されましたが、それはまだプロローグに過ぎません。実如の門徒動員はこの後数多くの軋みを生み出し、その結果本願寺教団組織そのものが変貌する結果となります。それについては次稿以降に触れてゆきたいと思います。

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