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2008年4月24日 (木)

川戦:山科編⑧大小一揆

 足利義材が将軍職に復帰し、細川高国が管領として支えている間、本願寺は逼塞し内部改革に専念しておりました。しかし、風向きは徐々に変わってゆきます。まず、出雲・石見国で尼子氏が勃興し、領国がきな臭くなってきた為に、大内義興が周防に帰還します。そして、その支えを失った足利義材は細川高国と対立。これを見限って阿波に出奔。阿波には京を追われた細川澄元の子、細川晴元がいました。細川高国は足利義澄の子の足利義晴を擁立します。またしても節操がなさそうですが、義材もまた自分に実子がいないため、義澄の子の義維を養子にして阿波に帯同しているので似たようなものでした。しかし、阿波の細川晴元にとっては玉を手に入れたようなものです。これによって再び蠢動を始めました。
 折も折、高国の家臣間に内訌があり、高国は一門の細川尹賢の讒訴に応じて重臣の香西元盛を謀殺しました。その結果、香西元盛の兄波多野稙通や柳本賢治らを敵に回し、細川高国と足利義晴は近江国坂本 に落ち延びます。
 京に将軍と管領がいなくなっても細川晴元は慎重でした。軽々しく上洛せず、堺に拠点を置き、そこに足利義維の幕府を置いたのです。足利義維は将軍家相続の宣旨は受けておらず、足利将軍家歴代には入りませんが、堺で政務をとりました。当時の人々は足利義維を堺公方と呼んだそうです。
 敗れた細川高国は尼子氏・浦上氏といった中国の新興諸家の所領を転々とし、足利義晴は朽木氏、六角氏などの近江の大名を頼って潜伏するに至ります。

 この期に乗じて1528年(享禄元年)5月、越前国藤島から加賀国塔尾に亡命してきた超勝寺実顕、和田山の本覚寺の門徒たちが越中国にある細川家の太田保(現在の富山市太田)に攻め込みます。この時に細川領だけでなく、越中守護代の神保・椎名領も侵食しました。
 これを問題視したのが、若松本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺の加賀三ヶ寺です。加賀の百姓(農民のことではなく、全ての人々というニュアンス)の代表としてこの地を治める彼らにとって、超勝寺や本覚寺の旧越前門徒衆が起こしたこの事態は迷惑なものでしかありません。彼らの行動は現在小康を保っている越前の朝倉、越中・能登の畠山を刺激するものであり、国境を脅かしかねないものです。実如が下した三箇条のうちの武装・合戦の禁止の命令を破るものであり、過去この法令に意義を唱えた本覚寺実慧を破門した経緯を考えれば、超勝寺実顕への処罰は順当な判断だったといえるでしょう。1531年(享禄四年)正月に細川高国は京都を回復します。その年の5月、加賀三ヶ寺はこの超勝寺ら一揆衆の征伐を始めました。
 しかし、今回は事情が多少異なりました。超勝寺実顕は蓮淳の娘婿であり、その後ろ盾を得られる立場だったのです。

 蓮聖(山田光教寺)―――――実玄(勝興寺)
                    ∥
                +――妙勝
                |
 蓮淳(近松顕証寺)――+――杉向
                |   ∥
                |  実顕(藤島超勝寺)
                |
                +――鎮永(慶寿院)
                    ∥
                    +――証如(山科本願寺)
                    ∥
 実如(山科本願寺)―――――円如

 さらに加賀三ヶ寺にとって悪いことは重なります。1531年(享禄四年)6月、朝倉・畠山が支持していた細川高国が摂津国天王寺で細川晴元の部将三好元長に討たれて死にます。これを期に細川晴元と接触したのが本願寺教団の実質的な指導者、蓮淳でした。室町殿は京にはいませんが、いずれ細川晴元は堺の足利義維をつれて上洛し、将軍家を相続させて自らは管領になることは規定路線です。蓮淳にしてみれば、いまここで細川晴元に恩を売ることで政元と実如と同じく、管領家とのパイプを築く必要がありました。山科本願寺は京の七口のうち粟田口と宇治川口を扼する地に存在します。その地に本願寺を建てることを認めたのは時の管領細川政元であり、日野富子ですが、彼らはもはやおりません。京都で政権を持つ者にとってこれは脅威以外の何者でもないでしょう。おそらく、高国が足利義材とともに上洛した時に実如が近江国堅田に逃げたのもそれを警戒したからです。山科本願寺は山科川沿いに堀を巡らせた城郭のような作りだったそうです。それを維持するためには管領家との連携は不可欠と考えたのでしょう。蓮淳は側近の下間頼秀・頼盛兄弟を加賀に派遣し、加賀三ヶ寺征伐を行います。これによって一向一揆の勢力が分裂しあい争うことになったわけです。蓮淳は畿内だけではなく、三河国にも動員をかけました。地域横断的な軍団構成だったため、蓮淳派の一揆勢を大一揆。これに対抗する加賀三ヶ寺派の一揆勢を小一揆と呼び、この二勢力の争いを大小一揆と言います。
 京都から加賀へ軍勢を送るルートとしてまず考えられる琵琶湖から若狭街道ルートは越前の朝倉氏によってふさがれていますから、美濃国から飛騨国白川郷経由で加賀国に侵入しました。
 大一揆衆の加賀侵入に逼塞を余儀なくされていた超勝寺側の門徒達は復活、合流し、逆に三ヶ寺は追い詰められます。本願寺の意思は大一揆にあり、仏敵になることを怖れた門徒達は次々と三ヶ寺から離反し、本泉寺と松岡寺は陥落します。
 窮地においやられた三ヶ寺に救いの手を伸ばしたのが、能登畠山氏と朝倉氏でした。小一揆には実悟がいました。彼は能登畠山氏の一族で大坂一乱で処罰された蓮能の子であり、そのせいで本来連枝の資格を有しているにもかかわらず一家扱いとされ、蓮悟の後継と目されていたのが清沢願得寺という末寺があてがわれた立場にいました。能登国守護畠山義総は蓮能の実兄畠山家俊を派遣し、このお陰で実悟とその養父本泉寺蓮悟らは能登へ亡命することができました。松岡寺蓮綱とその子供たちは大一揆勢の捕虜となります。残った山田光教寺救援のために越前国朝倉勢が加賀国に越境。小一揆勢を糾合して9月に手取川で戦い、大一揆勢を破りますが、11月に入って加賀・能登国境近くの津幡の戦いで畠山家俊が敗死し山田光教寺も陥落します。小一揆方の敗北が確定すると朝倉勢も越前に撤兵しました。
 本泉寺の蓮悟は能登亡命後間もなく死去、毒殺説があります。松岡寺の蓮綱は拘束中に死亡、蓮慶らその他の捕虜は処刑され、光教寺の蓮聖は越前国に亡命しました。これにより加賀三ヶ寺による加賀国統治は終焉し、本願寺が派遣する代坊主によって直接支配する体制になりました。

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