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2008年4月22日 (火)

川戦:山科編⑦蓮淳のコンプレックス

 本稿はかなりの部分を妄想に費やしています。
 蓮淳は蓮如の第二夫人蓮祐の子であり、本願寺九世実如の同母弟です。彼に与えられたのは近江国近松顕証寺。かつて蓮如が比叡山延暦寺に屈服して隠居を強いられた時に、廃嫡された順如のために建てられた寺でした。本願寺のある山科と大津はJRの駅にして隣ですし、大津と山科は山科川で繋がっていて交通の便はいい。
 さりながら、その当時の顕証寺は決して大刹と言えるものではありませんでした。顕証寺のある近江国南部には堅田本福寺があり、その教区は顕証寺のそれと多くが重なっておりました。門徒の引き抜きあいなどの事件もおこっていたようです。しかし、寺院の規模は本福寺の方が大きく、歴史の浅い顕証寺の立場が弱いのが現実でした。顕証寺は山科本願寺と堅田本福寺という二つの大刹に囲まれた地に建てられた寺なのですね。
 本福寺はもともとは浄土真宗仏光寺派の寺院でしたが、時の住持法住が蓮如と意気投合して本願寺教団に鞍替えしたのです。以後、本福寺は延暦寺の弾圧を受けた蓮如を匿ったり、延暦寺と時には戦ったり、延暦寺との和議をとりなすなどして蓮如を支えました。その本福寺を支えていたのは琵琶湖の湖族達です。彼らは堅田に本拠をもつ熱心な蓮如党でした。実如が細川政元の意を受けて派兵・撤兵を決めたときも、本福寺以下堅田門徒衆は兵力の輸送に船団を組んだのですね。
 蓮淳はそういう光景を見て育ちました。彼の体の中には蓮如の血が流れています。しかし、同じ血を引く兄実如は本願寺法主として城砦のような山科本願寺に鎮座し全国の門徒達を率いています。それに引き換え、蓮淳の顕証寺は本福寺と門徒の奪い合いをしなければ、蓮如の血族としての体裁すら整えられないのが実情でした。しかも寺院の規模は本福寺の方が大きい。
 本願寺九世法主の実如は同母弟の蓮淳が近くにいることもあって、しばしば本願寺に呼んで談笑していたと思われます。しかし、そういう付き合いを重ねれば重ねるほど、彼のコンプレックスは増大してゆくのでしょう。自らに流れる蓮如の血と同じ血を引く兄との比較において。それはいつか顕在化するものでした。
 そのきっかけは細川政元が暗殺され、実如が堅田本福寺に避難した時ではなかったでしょうか。普段近しくしていた兄が、非常事態において近松顕証寺ではなく、堅田本福寺を頼りました。同じ両親の血を引く弟ではなく、赤の他人を選んだのでした。もちろん、堅田を選んだことにはちゃんとした理由があります。山科と大津は近すぎるので、本願寺が襲われれば顕証寺にもすぐに累が及ぶのは間違いありません。それに堅田は湖族の地です。彼らが団結すれば敵の襲撃にもある程度耐え凌げますし、いざとなれば船で脱出することも可能でしょう。頭では理解していても、心の中は裏切られたという気持ちで満たされていたのではないかと思います。

 兄実如は教団運営の失敗を認めて教団の再生を息子の円如と弟の蓮淳に委ねました。蓮淳が最初に着手したのは伊勢国長島に一大水砦寺院を築くことでした。願証寺と名づけて自らがそこの住持となります。その堅牢さは後に織田信長との戦いで証明されております。信長はここを攻め落とすために有能な部下を何人も失い、陥落後はその報復として狂気じみた虐殺をしております。
 なぜ、そんな堅牢な寺院を作ったのか。それはここまで語った内容をたどれば容易に推察できると思います。兄実如が将来において山科本願寺を喪うことがあれば、安心して避難する場所を確保するためだったでしょう。そして、そこが大谷、山科に続く第三の本願寺になることをも想定していたと私は考えます。その想定は実如の死後に実現します。1532年(天文元年)に山科本願寺が破却された時、蓮淳本人が避難した先。それが長島願証寺でした。

 おそらく蓮淳が兄が抱えていた者の重さを本当の意味で自覚したのはその後だったのではないかと思います。実如が陥ったジレンマに対して、蓮淳、そして円如が示した解。そこに至るまで苦悩がなかったとは思いません。しかし、その結論に至ったこと自体に何か屈折したものを感じます。
 それは強い本願寺を作ること。法主が判断を間違えようともそれによって揺らがない強い団結力をもった組織を作ることだったのではないかと思います。
 そのために、宗教的信条を固めるために御文を整備して五帖にまとめました。教団として王法に逆らわないことを宣言した三箇条を定めました。そして、その屈折がもっとも良く出ているのが一門一家制度とその運用でしょう。
 まず三箇条の制定に異をとなえ、越前攻め敗北の責任を加賀国若松本泉寺の蓮悟に負わせようとした本覚寺蓮恵を破門にしました。法主の定めた法に従わず、法主の一族ではない者が法主の連枝たる蓮悟を弾劾したことを罪としたのですね。これはおそらくは見せしめだったのだと思います。蓮如を援けて教団を大きくした功績のあった寺院であっても、一門一家の序列より格下であることを明確にしたのです。
 これは当然、本福寺にも当てはめられるべきものでした。蓮淳は門徒の引き抜きのあったことで本福寺の明宗を告発し、破門させます。しかし、これは実如が止めたようです。明宗は実如にとっては恩人であり、それを足蹴にすることは寝覚めが悪いことだったのかもしれません。証拠もあやふやな部分があったため破門は取り消されました。蓮恵も侘びを入れることで許します。
 しかし蓮淳にとってはこれでとりあえずは十分でした。これによって教団の序列は明確になりました。法主とその一族が教団の功労者より優先します。それによって教団が強くなることを目指したわけですね。
 円如は父実如より早く亡くなります。それは、教団が抱える矛盾に正面から向き合った結果なのではないかと思います。蓮淳は屈折していた分、そういったプレッシャーに耐え抜くことが出来、さらに自らの正義を信じることができたのではないでしょうか。

 この間、大坂一乱で追放された実賢は許されて堅田称徳寺に入ります。これは実は明宗を陥れる布石だったりするのですね。実賢は蓮淳にとっても異母弟です。彼は本来連枝の扱いになるはずですが、同母弟の実悟が「畠山の血」故に一家扱いになってるので、復帰しても一家扱いだったのだろうと思います。その実賢は1523年(大永三年)に死にます。堅田称徳寺は蓮淳が後見することになりました。罠は着々と整ってゆきます。関係ありませんが摂津国富田教行寺の蓮芸も同じ年に亡くなっています。
 その翌年の1524年(大永四年)、本願寺九世法主実如が死にます。法主を継ぐのは実如の孫の証如です。証如の母は蓮淳の娘でした。つまり、証如にとって蓮淳は外祖父に当たるわけです。このとき、証如は僅かに八歳の幼児に過ぎませんでした。この幼い法主の後見として実如が指名したのは蓮淳でした。大津の小寺の住持は実質的に本願寺教団の最高指導者に登りつめたのです。

 かつての糾弾を止めた実如はすでにいません。実如没の三年後、1527年(大永七年)称徳寺は本福寺の信者の引き抜きを試みました。それを止めるのは普通の感覚でしょう。しかし、称徳寺の後見をする蓮淳はこれをもって堅田本福寺住持明宗を破門にします。一門一家の行うことに逆らった罪です。かなり無茶な論理立てです。一門一家の制度を作ったのは蓮淳で、信者の引き抜きを仕掛けたのも蓮淳で、明宗を裁いたのも蓮淳なのですから。しかしながら、これによって明宗は財産・門徒の全てを失いました。

 蓮淳はこの後、もう一度明宗を破門して最終的に餓死に至らしめています。本当の所、蓮淳と明宗との関係がどのようなものだったのかは判りません。明宗にも蓮淳の屈折した心情を理解する資質が足りていなかったのかもしれませんが、それにしても執拗な攻撃だと思います。
 ここまでやれるということは己の正義を信じているということなのだろうと想像します。実如が耐えられなかったプレッシャーに対し、蓮淳が出した解が教団を強くすることでした。世の中は下克上が横行しています。一向一揆の振る舞いそのものが下克上の象徴と捉えられています。教団の存続のためにはその連鎖を断ち切る必要がありました。蓮淳はその為に法主の教えが、命令が下々に行き渡る体制作りに情熱を注いだのでしょう。蓮淳にとって本覚寺や本福寺などの一門一家以外の大刹はその流れを乱す悪に見えました。それゆえ弾圧を加えたのではないでしょうか。
 そして、その体制の変革を変え、真に強い教団にするためにはもう一つ整理をすべき組織がありました。兄と甥達が指導している百姓の持ちたる国、加賀国です。

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