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2008年4月15日 (火)

川戦:山科編⑤吉崎炎上

 大坂の不満分子を一掃した実如ですが、それで本願寺門徒衆が一丸となって戦えるようになったかというと必ずしもそうではありませんでした。
 百姓の持ちたる国となった加賀国は本願寺教団の重要拠点となった三つの寺が治めました。連乗の本泉寺、蓮綱の松岡寺、蓮誓の光教寺です。連乗は1504年(永正元年)に没し、その跡を蓮悟が継いでおります。いずれも蓮如の実子です。本願寺九世法主である実如の命を受け、1506年(永正三年)、本泉寺の蓮悟は加賀国に動員令を発します。標的は能登畠山氏、越中長尾氏、そして越前の朝倉氏です。
 6月に加賀の一向一揆勢は国境を越えて越前に侵攻しました。その数なんと三十万。関ヶ原でも東西合わせて十六万といいますから、誇張の入った数字でしょう。それを迎え撃ったのが朝倉宗滴率いる一万五千。越前国中之郷において、九頭竜川を挟んで両軍は対峙します。その両軍は8月5日に九頭竜川において激突しました。
 誇張を除いても数で圧倒的に勝ったと思われる一揆勢でしたが、果敢に九頭竜川渡河を断行した朝倉宗滴軍に総崩れとなりました。勝ちに乗じた朝倉勢は吉崎御坊を焼くに至ります。
 この合戦をきっかけに守護の朝倉貞景は越前国に禁教令を発し、本願寺教団系寺院は一掃されます。越前国には和田本覚寺、藤島超勝寺など蓮如ゆかりの有力寺院もありましたが、悉く破却され、住持や信者達は一団となって加賀国に逃れたといいます。藤島超勝寺ら亡命大寺は加賀国塔尾、和田山に拠点を設け、越前復帰を目指すことになります。
 能登への侵攻は能登国守護の畠山慶致が兄義元とともに一揆勢を防ぎ、越中では般若野の戦いで畠山氏を救援に来た越中国守護代、長尾能景が逆に討たれます。
 国単位で言えば、一勝二敗。しかも越前の禁教令によって、本願寺は山科から琵琶湖経由で若狭街道を下って越前・加賀へと至るルートに朝倉氏という一大障害物に阻まれることになりました。

 全体としてはかばかしい戦果は上げられなかったといえるでしょう。そして、京都においても大きな転機が訪れます。九頭竜川合戦の翌年、1507年(永正四年)本願寺に朝倉、畠山氏と戦えと命じた細川政元が死んだのです。
 細川政元には三人の養子――関白九条政基の末子・澄之、阿波守護家出身の澄元、備中守護家出身の高国――がいたことは既に書きましたが、このうちの澄之に暗殺されました。澄之は貴族出身で政元の養子にはなったものの、戦国の世の惣領としての器量不足により廃嫡された立場でした。澄元は阿波守護家の出身で三好元長という有能な武人を家宰として抱えていました。戦力不足の政元はこれを優遇しますが、元から仕えている被官衆がこれを快く思いません。そこで、澄之をかついで暗殺に及んだというのが事の経緯です。
 実如はこの報を受け、山科本願寺を出て堅田本福寺に隠れます。時の本福寺は明顕、明宗親子が住持を勤めており、彼を保護しました。

 外には足利義材(この時点では改名して義尹。後に義植となりますが本稿では義材で通します)が大内義興らとともに京に向かってきています。内紛などしている場合ではありません。澄元は高国と連合して澄之を排します。
 澄元は政元の死をきっかけに足利義材と講和を結ぶ腹積もりでした。その為の交渉を行うため、高国を派遣したのですが、彼は足利義材・大内義興と内通し、寝返ります。京にいる足利義澄、細川澄元は近江に逃れ、足利義材は将軍に復帰しました。
 義材派というと、一向一揆と戦った畠山、朝倉氏もその一員です。幕府の政権中枢と太いパイプを築くことによって教団の存続強化を図った実如の狙いはものの見事に裏目に出たわけです。
 政権は政元の敵によって握られましたが、とりあえず本願寺に実害はないと判断した実如が山科本願寺に戻ったのは、1509年(永正六年)のことでした。

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