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2008年4月29日 (火)

川戦:山科編⑨錯乱の宗門

 蓮淳は北陸にて加賀三ヶ寺が下した裁定をひっくり返すことによって、本願寺教団は分裂し、連枝一党を粛清しました。その結果、本願寺教団は法主を中心とした武装門徒集団。厳格統制のとれた戦国大名に近い、畿内から北陸三河に影響を及ぼす一大勢力が完成した……、と言いたい所ですが必ずしもそこまでに至る道は平坦ではありませんですし、道を見失いすらしております。本稿ではその辺を述べてゆきます。

 加賀に侵入した朝倉氏、畠山氏から加賀国を守りぬいたことによって、堺にいる細川晴元の信用は一応勝ち得た蓮淳ですが、逆に晴元は蓮淳を頼って軍勢を催促するようになりました。細川晴元の部将三好元長はライバルであった細川高国を討ち取った、まさに晴元の片腕と呼べる人物でした。しかし、その功績を晴元は疎ましいものと思っていたようです。そんな折、木沢長政が三好元長の讒言をし、元長の密かに処断を決めてしまいます。この木沢長政はかつては河内国守護畠山義宣の家臣でしたが、本願寺の伝をたよって寝返った人物です。自らの居場所を作るためでしょうか、新しい主人の腹心を腐したのですね。ところが、旧主である畠山氏は木沢長政の裏切りを許さずその居城飯盛城を包囲しました。この救出を蓮淳に依頼したのです。
 この要請を受けて本願寺九世法主、証如が自ら石山御坊に出陣します。畿内の門徒達を動員して畠山義宣を一気に討ち取ります。そして、救出した木沢長政とともに三好元長のいる堺の顕本寺を攻めました。顕本寺は法華宗(日蓮宗のことです)を宗旨とし、元長は法華宗の熱心な宗徒でした。もともと浄土真宗と法華宗は仲が悪く、二つの宗派で争いがあると、元長は法華宗の立場で浄土真宗に圧力を加えたという経緯もあったようです。そうした中、蓮淳によって権威を最高に高められた本願寺九世法主が石山に下って門徒に動員をかけたのです。門徒達は本願寺教団の総力戦と受け止め本気の戦いを挑みます。河内畠山氏はもともと仏敵であり、そこに細川晴元の命令で法華宗徒の三好元長を討てるということになったのですから、門徒たちの気合の入り具合は違っていたでしょう。
 三好元長にしてもまさかこんなに早く畠山義宣が討ち取られるとは思ってなかったでしょうし、主筋である細川晴元の部下が自分の所に攻めて来ると思わなかったでしょう。三好元長は自害に追い込まれます。

 これによって晴元の依頼は一応果たしたことになるのですが、ここから証如の統制化にあるはずの門徒衆が暴走を始めます。
 そしてもう一つ事件が起こりました。堺には足利義材(義植)の養子、義維が「幕府」を開いておりました。彼は将軍宣下を受けているわけではないのですが、機構組織は構築され機能しており、公家の日記にも堺大樹(将軍)という呼称が見られるそうです。その彼が、三好元長を討った一揆衆の威勢を恐れて阿波国に逃れます。
 ここに力の真空状態が生まれました。河内守護畠山義宣、法華宗の守護者を勤めた三好元長、そして堺公方足利義維がいなくなり、石山御坊に本願寺証如が率いる畿内門徒がいるのみです。ちなみに証如はこの時、十六歳の青少年です。八歳から法主の座にあるとはいえ、武士なら、元服して間もない頃であり実権は補佐役の蓮淳がなお握っていたと見ていいでしょう。ましてや法主は武将ではなく、宗教指導者です。武将の真似事をして門徒達の統率をすることには無理があったようです。本来ならばこうした武辺働きは家宰の下間頼秀らが行うのですが、彼は弟の頼盛と一緒に北陸の小一揆討伐に出ています。

 集結した畿内門徒達は今度は大和国に殺到しました。目的は興福寺を筆頭とする旧仏教寺院の破壊です。証如や蓮淳はこれを制止しましたが、門徒達は聞き入れません。奈良の諸寺院に散々暴虐を尽くした挙句、同国を支配する筒井順興・越智利基に追い散らされました。この侵攻には戦略目標がなく、諸寺院を荒らすだけ荒らしただけなので敗北は必至だったでしょう。これによって、蓮淳、証如は大いなる不面目を天下に曝すことになりました。

 この不面目によって大きなツケを払わされることになります。肝心要の管領細川晴元を敵に回してしまったのです。彼は洛中の法華宗徒に対し、本願寺教団の諸寺院の破壊を依頼します。洛中の法華宗徒にとってみれば、法華宗を保護していた三好元長が本願寺に討たれ、奈良興福寺も襲われたなら、今度は洛中と思ったでしょう。実際蓮淳は細川晴元の変心を察知し、晴元討伐を企画していたようです。しかし、先手を取ったのは細川晴元でした。彼は南近江の六角定頼を動かし、まず若松顕証寺を落とします。これに蓮淳は対抗出来ず、山科本願寺に立てこもります。山科本願寺は大津と京都七口のうち粟田口と宇治川口を扼する要地であり、戦国大名の城郭並みの廓を備えておりました。これを囲うのは細川晴元、六角定頼に法華一揆衆でした。証如はこれを救おうと門徒たちを差し向けますが、法華一揆に阻まれ近づくことができません。
 結果として、山科本願寺は炎上しました。ここにこもった蓮淳は脱出。安置されている親鸞の祖像は実従(蓮能の子)が持ち出し脱出しました。

 これを言ってしまうと結果論でしかないのですが、蓮如の打ち出した『王法を先とする』の王法を細川家の管領と解釈してしまったことに無理があったのではないか。そんな気がします。

 ともあれ、本願寺教団は山科本願寺を喪いました。証如は石山御坊にいるまま。そうした状況で蓮淳が向かった先は長島願証寺です。本来、証如を補佐する立場のものが、大坂に向かわずに、伊勢国に避難したのです。恐らくは証如の依る石山も長くは持たないと考えたのではないかと思います。そしてそれは杞憂ではありませんでした。法華宗徒達は大坂を目指し、中途にある富田教行寺を焼き、石山御坊に迫ります。証如は石山御坊を新たな本願寺と定め、北陸から下間兄弟を呼び返し、門徒達の統率に当たらせます。そして細川高国の弟晴国と手を結んで法華宗徒や晴元勢と一時和睦しますが、今度は晴元が六角定頼の仲介で足利義晴と和睦して京都に迎え入れます。そしてしかる後に足利義晴に本願寺征伐命令を出させました。
 石山本願寺は包囲され、進退窮まった証如は長島願証寺から蓮淳を呼び出します。蓮淳はこのこじれきった関係を降伏することで乗り切りました。青蓮院尊鎮法親王を仲介に立てて幕府と交渉。代償は下間兄弟の首でした。そしてこの和睦によって曲がりなりにも本願寺教団は戦国時代の一大危機を乗り切ることができたのです。

 蓮淳が本願寺教団を守ろうとする固い意志を持っていたことは疑うべくもありません。しかし、その為に取られた方策の妥当性については色々議論を呼ぶところだろうと思います。


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