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2008年4月17日 (木)

川戦:山科編⑥実如のジレンマ

 結果から見れば実如の判断は大失敗でした。「王法を先に」するよりも「紅旗征戎吾が事にあらず」に徹していた方が良かったはずです。しかし、そうするには教団は余りにも大きくなりすぎておりました。誰かが統制しなければ一揆集団はどこかで暴走してしまいます。しかしながら統制しようとするにも、末寺は各地で様々なしがらみに囚われています。地元勢力と密着して教勢を伸ばしている者は大坂一乱の蓮能だけではありません。本寺である山科本願寺からしてそうなのです。
 だからと言って過ちを認め、しがらみを断ち切り、実害のない仙人集団のようなものを目指せようはずはありません。そこは乱世であり、巨大な教団は俗に塗れながら目の前にあるのですから。すでに畠山や朝倉から恨みは買っています。今更武装解除をすれば餌食になるのがオチなのですね。それらは実如が抱えたジレンマでした。

 たどり着いた結論は、末寺であろうと依るべきしがらみはただ一つに絞るべきであるということだったようです。つまり、統制を強化し、権力を強化し、外敵に対しては一丸となってこれと当たるべし、ということです。そうすれば仮に室町殿や管領を敵に回したとしても教団の存続は可能でしょう。そのためには本山末寺の序列を整備し、少なくとも教団内部においては合い争うことのないようにする。その判断基準として採用したのは、本願寺教団の存続意義。親鸞の血筋でした。
 その線で実如は体制の再整備を進めます。息子の円如と弟の蓮淳を起用して教団改革を進めたのです。蓮淳は近江国大津の顕証寺の住持でした。顕証寺は蓮如の長男、順如が親鸞の祖像とともに入った経緯のある名刹です。彼は頃に伊勢国長島に水上要塞さながらの願証寺を建てました。後に織田信長との抗争において、その部将を何人も屠り、信長の攻撃を何年も凌ぎきった堅固な要塞です。足利義材や畠山氏が報復を企んだ時の避難所を想定していたのかもしれません。

 円如・蓮淳はまず、蓮如の御文の八十通を五帖にまとめ、宗門信条として定めました。次に1518年(永正十五年)に三法令を発布。内容は①武装・合戦の禁止、②派閥・徒党の禁止、③年貢不払いの禁止の三つです。これはお上から睨まれないようにするため、「王法を先に」するための方針と思われます。
 そして、もう一つ1519年(永正十六年)に制定した一門一家制度です。これは親鸞の子孫である本願寺法主の一族の序列を明確にするために設けられました。これは一門を三つのカテゴリに分けるものでした。内訳は、①連枝:法主の子供、兄弟。②一門:連枝の嫡男、③一家:連枝の次男以下、並びに蓮如以前に分かれた一族衆です。

 この改革は様々な軋轢を生みました。三法令の①武装・合戦の禁止は加賀国に亡命し、越前復帰を目指す和田本覚寺にとっては障害以外の何者でもありません。本覚寺の蓮恵は加賀三ヶ寺の一つ、二俣本泉寺の蓮悟に苦情を入れました。蓮悟は加賀一揆衆に檄をとばして越前攻めをさせた張本人です。それまで平和に暮らしていた越前国の本覚寺にとっては寝耳に水の話でしょう。故に越前国和田本覚寺の連恵にとっては、一揆を煽った加賀国二俣本泉寺の蓮悟こそ敗戦責任を負うべき人物です。しかし、本寺である山科本願寺が降した裁定は本覚寺蓮恵の破門処分でした。一つは三法令違反、そして、一門一家に対してみだりに相論を起こしたことが咎められたのでしょう。本覚寺の先代は蓮如のために吉崎の地を提供した功労者でもあるのですが、その住持が蓮如の一門によって罰せられたということです。

 また、近江国堅田本福寺の明宗に不正ありとされて彼も破門を食らいます。訴えを起こしたのは蓮淳でした。堅田本福寺は蓮如の代に本願寺教団に宗旨を変えて以来、日に陰に本願寺を支えた寺院です。細川政元が暗殺された時には法主実如を匿うこともしています。さりながら、近江には顕証寺という一門の蓮淳の寺があったのですが、近江における教勢は本福寺の方が大きかったというところが蓮淳の恨みを買っていたと思われます。
 前者は蓮恵が侘びを入れ許され、後者は蓮淳が示した証拠が嘘であったことが発覚し、許されました。さりながら、本覚寺や本福寺のような蓮如の代に功績のあった寺院であっても、一門衆によって破門されるのだという実例を門徒達に示したことによって、統制の実は大いに上がったと言えるでしょう。
 但し、その一門一家といえども、法主の統制下にあることは、本泉寺の連悟の養子に入った実悟
の実例を見れば判ると思います。実悟は大坂一乱で追放された蓮能の実子で、本泉寺連悟の養子になっていました。よって、大坂一乱当時実悟は北陸にいたため、罰を受けずにすんだのですが、本泉寺の連悟には疎まれました。彼は蓮如の実子であり、実如の定めた制度によれば連枝の資格があるにもかかわらず、連悟の申立「実悟は敵である畠山氏の血縁である」という理由をもって一家に格下げされています。

 これらの実例は非一門の大刹よりも、一門寺院が優先し、その一門の序列も上位者の恣意により左右される集権的な体制であるといえるでしょう。実如が円如・蓮淳に行わせた改革により、統制の取れた教団を目指すことになりましたが、そこに大きな軋み、軋轢を生んだことは事実です。
 受難を受けた石山の蓮能とその子実悟、本覚寺蓮恵、本福寺明宗達の姿に、比叡山延暦寺の圧力に苦吟する蓮如の姿を重ねるのは不遜でありましょうか。

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