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2008年5月29日 (木)

川戦:押籠編⑦松平家の内訌

 松平信忠は三河物語その他の文書において、散々こき下ろされております。いわば松平歴代の中でも『不肖』の人物です。その評価は一端脇に置いた上で、現存する同時代文書から彼の人物像を本稿で考察したいと思います。
 彼は後世に十通前後の署名文書を残しております。その全てが寺社関係であるのは、彼が仏心の篤い人物であることをさすのか、それとも毀誉褒貶の中で寺社以外に発給した文書が廃棄された結果であるのかは定かではありません。
 以下にその一覧を示します。

1503年(文亀 三年)信忠、称名寺の為に禁制発行。(信忠)
1509年(永正 六年)信忠、称名寺に寺領寄進。(信忠)
1512年(永正 九年)信忠、称名寺の永正三河乱戦没者供養念仏踊りの為の田地寄進(信忠)
1513年(永正 十年)長親、大樹寺に再建。大樹寺格式。(道忠)
1518年(永正十五年)信忠、西方寺に寺領寄進。(信忠)
1519年(永正十六年)信忠、妙心寺の寺領を安堵。(信忠)
1520年(永正十七年)信忠、大樹寺の別時念仏の調整を植村・中山に依頼。(太雲)
1520年(永正十七年)信忠、萬松寺に禁制発行。(信忠)
1523年(大永 三年)信忠、明眼寺に田地寄進。(信忠)
1526年(大永 六年)信忠、某社の奉加帳に一門・家臣とともに記名。(信忠)
1528年(大永 八年)信忠、大樹寺相伝の祠堂銭と田地安堵を長親と発行。(祐泉)

 内訳は称名寺(時宗)に三通、大樹寺(浄土宗白旗派)に三通、西方寺(浄土宗西山深草派)に一通、妙心寺(浄土宗西山深草派)に一通、萬松寺(曹洞宗)に一通、明眼寺(浄土真宗高田専修寺派)に一通、不明が一通です。称名寺と大樹寺にやや多く文書が残っている所から、それら社寺とのつながりが窺えます。
 妙心寺、萬松寺、西方寺は信忠の曽祖父にあたる信光ゆかりの寺社であり、明眼寺は長親以後に松平氏とのつきあいのある寺です。

 興味深いのは大樹寺に残された三通の文書、それぞれ署名が異なっています。それぞれ、道忠、太雲、祐泉。大樹寺文書の署名は後世に残っている名前と異なった名前で署名されているケースが見受けられます。親忠は西忠、長親は道閲という具合に。これは法号と解釈できるのですが、三つの名前をもっている信忠は特殊なケースといえるでしょう。しかも、大樹寺以外の文書には信忠と署名しているのですね。この使い分けに信忠と大樹寺、そして長親との隔絶を感じます。関係が良好であるならば、同じ名前を使い続ける筈です。そもそも、寄進状や安堵状、禁制文書の署名とは発給者の意思を明らかにするものであり、それがころころ変わるのは信用を落とす行為なのですから。道忠、太雲、祐泉の号が信忠という署名と併行して使われているとすれば尚更です。長親と信忠は永正乱で破壊された大樹寺を再建し、親忠の子孫は大樹寺に帰依せよ書かれた文書に署名しています。その文書の存在を前提に考えるならば、大樹寺を中心とした一門統制を図ろうとした主体は長親であり、信忠はそれに従わされた立場にあったといえるかもしれません。

 信忠と称名寺は関係が深く、永正井田野合戦から四年後の1512年(永正 九年)に信忠、称名寺の永正の三河乱戦没者供養の為の念仏踊りの為の田地寄進を行っております。但し、称名寺関連で現存する信忠文書はこれが最後。この翌年『親忠の子孫は大樹寺に帰依すべし』という文書に道忠の号で署名をしています。以後の、家督譲渡を強いられるまでの動向を追いますと、まず西方寺に寺領を寄進しています。この西方寺は妙心寺と同じく、松平泰親の子教然良頓開山の寺です。大樹寺に対しては別時念仏を絶やさないようにと家臣に命じている文書があります。残りは、妙心寺への寺領安堵状と萬松寺への禁制発行で、両寺を信忠が守護することを宣言した文書です。
 これらの文書はいずれも、安祥家以外の松平家関連寺院なのですね。これを信忠の仏心からととらえることもできるでしょうが、その信忠の家督譲渡を強いたのは松平一門衆でした。

 松平由来書という史料にはその経緯が以下のように書かれているそうです。
 松平郷松平家の勝茂が、信忠は『がうぎ(強情・神仏の祭礼をしない者)』であるので、隠居を求めるべく、一門の評定にかけました。一門衆はこれを諾とし、連判状を作って信忠に渡した後、それぞれの所領に引き篭もったそうです。信忠はやむなく、自ら隠居を決め称名寺に隠遁したそうです。この結果から判断するに、信忠の活動は『親忠の子孫は大樹寺に帰依すべし』という文言への対応であり、分裂しかかった一門に対する融和政策だったと思われます。信光明寺に親忠の子の超誉存牛が入ったのもその一環だったでしょうが、彼は大永元年に京に上って知恩院の住持になります。ひょっとしたら、岩津と安祥の関係の悪化により安祥家出身の超誉が岩津に居辛くなったのかもしれません。結局、信忠の工作は失敗に帰してしまいました。

 ただ、松平由来書の見解に従った場合、三河物語に書かれているような桜井松平信定が対抗馬として押し立てられたという記事は考えにくくなります。というのは、桜井松平信定もまた、安祥家の人間なのです。一門への融和策はすでに信忠によってとられておりますし、信定を押し立てて一門衆にどんな得があるのか、今ひとつ判らないです。
 安祥松平家勢力の減退は後ろ盾となった大河内氏、その背後にある吉良氏、斯波氏による遠江出征の失敗、そして吉良氏と繋がりがあった足利義材の二度目の都落ちとリンクしていると考えられます。であるならば、信忠の地位低下はとりもなおさず信定の地位低下につながります。信忠の後に家督を継いだ清康が一番初めに行ったのは、岡崎攻撃。すなわち一門衆への戦争でした。
 三河物語には、信定を擁して家督譲渡を迫る首謀者を信忠が斬った。にもかかわらず、家督譲渡の圧力が弱まらなかったため、清康に家督を譲渡したと書かれています。

 以下は推量です。本来の対抗馬は岩津松平家の者であり、それを実際に松平信忠は斬った。しかし、
それによって逆に事態は悪化し、一門と安祥家との対立は修復不能に陥ったように思われます。その時点で安祥松平家の後継と目されたのが、桜井信定だったのではないでしょうか。何しろ、信忠の嫡男清康はわずか十三歳なのですから。
 清康相続を誰が決めたかについては、そしてその直後に始まる戦争を軸に考えてみるべきだと思います。攻勢に出たのは安祥家です。清康にその意思はともかく、実力があったとは思えません。戦争指導者としての才覚があったことは諸書に記されていますが、十三歳の少年にそれが備わっていると、戦争が始まる前から見抜ける者がいたとは考えられないのですね。
 長親がもしも一門に対する戦争を考えていたなら、家督は清康ではなく、信定にしていたでしょう。平時であれば長子相続が望ましいことは言うまでもありませんが、これから戦争をしようとするものが十三歳の当主を立てて戦うというのは、現実的ではありません。一方の信定に一軍を率いる器量が備わっていたことは、後の戦歴が物語っています。
 信忠は清康相続を支持したとは思いますが、戦争を望んだとは思えません。もしそうなら自らが戦い、家督を譲渡はしなかったでしょう。三河物語においては、家督譲渡を迫った首謀者を斬ったことになっているのです。それが一門との戦いに参戦していないとすれば、やはり身体的な理由で戦場に立てなかったとしか考えられません。
 では、誰が清康相続を推したのか。それは安祥家の家臣団の中にいたと考えます。その中でも戦争にたけた人物が安祥家の名前で戦争をするために、あえて幼少の清康を押し立てたのではないか。そう考えるのが私には一番しっくりきます。
 その人物は軍事力を持っているにもかかわらず、表立って戦争が出来ない立場にあった人物です。

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2008年5月27日 (火)

川戦:押籠編⑤戦後処理

 永正三河乱は今川勢の撤退で集結しました。それは、足利義材(義植)、細川高国の勝利であり、細川政元、澄元らの敗北の余波だったと思われます。細川政元とパイプを持っていた駿河国の今川氏親と伊勢宗瑞は遠江国を平らげ、三河国に攻め込みましたが、征服したはずの遠江国に同国守護の斯波義達が勢力を盛り返したことにより、三河に派遣した軍を呼び戻し、これに当たらねばならなくなりました。その斯波義達を三河国から支援した勢力があります。現在矢作古川のあたりに勢力をもつ吉良氏です。今川氏親が攻め込むまで遠江の中心地である浜名湖畔の引馬(現在の浜松)を領していたのは大河内氏でした。大河内氏は吉良氏の被官だそうです。それ故、東三河の戸田氏とともに牧野氏を制したあと、西三河に攻め込むならば松平氏と合わせて吉良氏にも軍勢を差し向けてもおかしくなかったと筈なのですが、にもかかわらず東海道をひたすら西進したのは、本来の目的が松平氏ではなく、斯波氏の根拠地である尾張国まで視野に入れた行軍だったのではないかと私は考えています。

 戸田憲光は伊勢宗瑞を中心とした国人連合による三河国を構想しました。中央にはかつて父である戸田信光が仕えた伊勢貞親の子と孫である伊勢貞宗・貞陸親子が新たな京の支配者となった足利義材(義植)、細川高国に取り入っています。伊勢宗瑞もまた、伊勢氏の一族です。井田野の勝利を既成事実に伊勢貞宗に働きかければ、新たな三河国の体制を作れると考えたのではないでしょうか。
 しかしながら、伊勢宗瑞は異なった判断をしました。永正五年十一月の公家の日記に今川氏親が三河で敗北したという記述があるそうです。今川勢は井田野の戦場で勝利したはずなのに、奇異に思える記録です。思うに、これは三河国については旧に復せという処分が下ったということではないかと思います。なんといっても伊勢貞宗・貞陸親子は細川政元に仕えておりました。その伊勢氏の言が容れられなくても不思議ではないでしょう。

 三河国より今川勢が撤退した結果として、今川勢として集結した三河国人連合は霧散し、安祥松平氏は勝利を得ることになりました。松平氏が失った物は大樹寺と岩津松平惣領家です。
 そう言い切るための材料として1511年(永正 八年)に信光明寺住持の肇誉が知恩院に転昇したことに伴い、安祥松平の親忠の息子である超誉存牛が信光明寺の住持になったことをあげます。信光明寺は岩津松平氏の、そして松平一門のための寺のはずです。惣領家の菩提を弔うはずの信光明寺に分家筋である超誉がはいった訳ですから、この時点で岩津家が惣領家の一門支配力は無くなったと考えていいと思います。もちろん岩津家には浄土宗西山義の妙心寺もあるのですが、超誉が十年後に京の知恩院の住持になったことを考え合わせるとバランスが取れていません。文明年間においては、信光明寺と妙心寺の両方が勅願寺指定されていることを考えると、その配慮が無いことが見て取れます。超誉の知恩院住持就任は裏で安祥松平の長親・信忠が強力なスポンサーとして立ち回らないと実現しないでしょう。岩津松平家には安祥長親・信忠親子がそうした行動をとることを制し得なかった。
 もう一つ根拠をあげますと、永正井田野合戦のあと、長親・信忠親子は勢誉愚底に大樹寺を再建させます。1513年(永正 十年)にそれは実現しました。それは大樹寺格式という文書に残っているのですが、そこに親忠の子孫は男女の区別なく、大樹寺に帰依するようにと命じています。超誉存牛もまた、親忠の息子であり、信光明寺を大樹寺の末寺扱いした文章にも取れます。つまり、この段階で長親・信忠親子の眼中に岩津惣領家は存在していないのですね。そういう意味で、岩津松平家は崩壊したと言い切ってよいと考えます。

 牛久保の牧野、二連木の戸田、西之郡の鵜殿、作手の奥平、段嶺の菅沼、長篠の菅沼、野田の菅沼、設楽・嵩瀬・西郷・伊奈の本多、吉田の人々に襲われた松平長親は婚姻政策で勢力を担保します。すなわち、現在の矢作古川を勢力圏に持つ吉良氏被官と姻戚関係を持つことにしたのです。本当だったら吉良氏と結ぶべきなのでしょうが、この時点の松平氏にとって吉良氏ははるかに上の家格なのでそこは妥協です。
 長親は大河内満成(信貞?)の娘を息子の信忠に娶わせます。大河内満成は斯波義寛・義達らとともに遠江国に攻め入った大河内貞綱の親族だそうです。そして、信忠の妹を吉良氏の老臣である富永氏に嫁がせました。これにより、松平――富永・大河内――吉良――斯波のラインが成立したわけです。松平氏が永正井田野合戦で敵に回した今川氏を中心とした三河国人連合に対抗する軸が完成したわけです。
 1509年(永正六年)3月22日に近江国堅田に避難していた実如は伊勢貞宗の仲介により山科本願寺に戻りますが、実質的に門徒達を使って何かできるような状況にはありませんでした。実如はこれ以後教団の内部改革に専心することになります。三河門徒もその間は自重していたと思われます。その間隙をついて、長親は桜井、青野、藤井、福釜、東端と矢作川下流域から油が淵に至る本願寺教団の諸寺院を囲むように分家を設けてゆきます。そういった行動に出ることができた背景に、吉良氏の支援があったと思われます。
 1512年(永正九年)、三河国本宗寺の住持として三河門徒を従える立場をもつ、本願寺第九世法主の実如の息子である実円が播磨国英賀(あが・現在の兵庫県姫路市)に一宇の建設を始めます。完成は1515年(永正十二年)で本徳寺と名づけられ、実円自らが本宗寺と兼務をする形で住持となります。
 この時期は伊勢国長島に蓮淳が願証寺という水塞寺院を作っていた時に重なっております。英賀は夢前川の扇状地に堀をめぐらせた環濠集落で、播磨門徒の勢力拠点として機能しました。このことは、仮に本宗寺が奪わた場合に実円が身を寄せる拠点ができた。そして、本宗寺がなくなった場合に、三河近在に住する門徒達を束ねるもう一つの拠点が出来上がったことを意味します。
 すなわち、永正三河乱で松平長親が勝利したことは、三河の本願寺教団にとって大きな脅威ではなかったかと想像するわけです。

 松平長親は今川勢から西三河を守った英雄になろうとしました。彼が大樹寺を再建したのは、安祥松平氏第一代の親忠を顕彰するためです。大樹寺の寺伝に親忠が外勢から大樹寺をまもった伝承を残しているのは、かつて井田野を守った親忠を顕彰することがすなわち、現在井田野を守っている長親の立場を強化することに繋がるからです。
 三河物語で大久保忠教は語っています。この合戦以後、三河で長親に従わないものはいなくなったと。長親は戦闘に参加して一族を守護した実績と大樹寺を通して一門を統制しようともくろんだのではないかと私は考えています。
 石川氏を中心とする三河の門徒武士達は京に実如が不在の中、松平氏につくか今川一門につくか旗幟を鮮明にできなかった。もしくは、今川方についていたと私は考えています。もし、門徒武士が松平長親の『勝利』に何らかの形で貢献できたとすれば、彼らの独立は保たれていたでしょう。加賀の一揆衆のありようや、後に三河国においても不輸不入権を手に入れようとする門徒武士達の行動を考えれば、法然・弁長流の浄土宗を奉じる長親の子息達を自らの勢力圏に受け入れるとは考えにくいのですね。少なくとも親忠の代まではそうではなかったのですから。

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2008年5月22日 (木)

川戦:押籠編④足利義材の掌(たなごころ)

 尚、本稿ではこの永正の井田野合戦を1508年(永正五年)のこととしていますが、柳営秘鑑は1501年(文亀元年)、徳川実記では1505年(永正三年)説をとっています。永正三年に今川氏親が牧野古白と戦ったことは同時代史料で明らかになっております。そして永正の井田野合戦においては、今川勢と戦っているはずの牧野氏が今川軍として松平勢と対峙しています。それらの前後関係を見るに、永正三年に牧野氏を降した今川勢が、牧野氏の残兵を率いて松平氏を攻めたとみるのが妥当のように見えます。よって、永正五年説を本稿でも採用しております。

 この永正五年説をとった場合、京都の動きと照らし合わせれば、永正三河乱の様相がおそらくは違って見えてくるのですね。既に触れたとおり、牧野氏の今橋城を落とした翌年1507年(永正四年)6月23日に細川政元は暗殺されます。山科本願寺の実如が累が及ぶのを避けて堅田に非難したのはこの時です。この事件は政元の暗殺を教唆したかどで、九月一日には政元の三人の養子の一人、澄之が粛清され、阿波国守護家出身の細川澄元が京兆家を継ぐことで一応の決着が図られました。しかし、その年末に大内義興の支援を受けた足利義材(この時は義尹と改名中)が上洛の途に出ます。細川澄之は備中国守護家出身の細川高国に足利義材との交渉を命じましたが、逆に義材に加担します。京は恐慌に陥りました。そして、1508年(永正五年)四月には細川澄元と足利義澄、近江に脱出、高国が入京。六月には足利義材が上洛を果たします。伊勢家惣領の伊勢貞宗は五月の段階でちゃっかり足利義材派に乗り換えています。八月に今川氏親と伊勢宗瑞が吉田を進発した頃はすでにこんな状況でした。
 今川氏親は細川政元派として足利義材派の遠江国守護の斯波義寛から遠江国を奪ったはずなのですが、1508年(永正五年)七月までには足利義材(義植)から遠江国守護の職を貰っています。
 この『遠江国守護』の扱いが少々厄介です。一説には明応年間に斯波義寛が足利義澄派に鞍替えしたことに乗じて今川氏親も足利義材派に転じたという見方もあるそうですが、今川氏親も足利義材もお互いをどこまで信頼していたのかが未知数です。というより、今川氏親は足利義材・細川高国と足利義澄・細川澄元を両天秤にかけ、足利義材も今川氏親と斯波義達を互いに戦わせて牽制したのではないかという気がしています。理由は後で述べます。

 牧野氏を倒した時の今川氏は足利義澄=細川政元ラインで攻勢をかけましたが、松平攻めにおいてはその立場を変えているのですね。奇しくも同じ年の六月に戸田宗光が亡くなっています。寿命とも考えられますが、京都の動きと考え合わせると謀略のセンも考えられないわけでもないです。氏親が伊勢宗瑞を吉田から東海道沿いに一直線に大樹寺まで向かわせたのは尾張への進軍ルートを確保するためであり、最終目標は斯波義達が支配するもう一つの国、尾張攻めを敢行するためだったのではないかと思われます。

 西三河は本願寺教団と岩津松平家の惣領は細川政元が押さえておりました。しかし、現地では分家筋の安祥家が井田野の要衝を押さえ、実質的に松平一門を支配している状況です。ここを叩けば尾張国は目の前でした。ところが政局がここに着て大きく変わります。伊勢貞宗が早々に足利義材についたのも、尾張攻撃を視野に入れた伊勢宗瑞を支援するのが目的だったのかもしれません。とすると今川氏親の遠江国守護職は、今川氏親→伊勢宗瑞→伊勢貞宗→足利義材のルートで奏上されのかもしれません。
 本願寺教団は法主の実如が近江国堅田に逼塞し、三河の門徒衆は身動きの取れない状況でした。

 井田野合戦において、伊勢宗瑞と松平長親は直接対決しました。岩津城の攻防の結果は諸説あるものの、井田野合戦の結果はどうやら痛み分けでした。兵力差を考えると長親の頑張りが評価されるでしょう。
 三河物語においては、合戦後伊勢宗瑞は『最後に戦場を占領している今川軍の勝ちだ』と勝利宣言します。それを受けて、今川軍に与力した戸田憲光が宗瑞に対して『駿河と手を切り、三河に味方しろ』と言います。これに対して、『一度戻って詰めの城の戦闘準備を整えたらまた戻ってくる』と答えたまま、自分だけ撤退し、結局戻ってこなかった。というオチがついています。
 ここの解釈は戸田氏の離反を怖れての撤退というのが主流な説です。しかし、そうではなく、この合戦が既に細川政元の敗北、足利義材の勝利が確定した状況で敢行されたことを前提に考えてみれば戸田憲光と伊勢宗瑞の会話の意味は別な様相を呈してくるように私には見えます。

 戸田の提案はこのまま伊勢宗瑞を首領として、勢力を維持することではなかったでしょうか。そしてこの時の戸田には京都の状況、今川氏親の両天秤は見えていなかったと思います。
 その場には戸田、今川に服属した牧野、鵜殿、菅沼、奥平と三河国の主だった国人達が集結しています。細川政元は死にましたが、足利義澄と細川澄之は存命です。二人を助ける形での闘争の継続は可能なはずでした。戸田憲光にとっては伊勢宗瑞は主筋の一族の者ですから主人として立てるにはうってつけの人物です。
 しかし、この時点で吉田にいる今川氏親からは撤退命令が出ていたと思われます。おそらくは今川氏親が怖れていた事態が起こった、足利義材がこの戦いに介入したのではないかと思います。京を押さえたとは言え、足利義材はまだ畿内を平定したとは言えず、足利義澄や細川澄元も生きています。もし、今川氏親の思惑通り尾張攻めが成功したとすれば、今川家は伊豆国(伊勢宗瑞が支配)、駿河国、遠江国、三河国、尾張国の東海五カ国を支配する一大勢力になります。大内義興がバックについているとはいえ、これを御せるほど足利義材の力は強くありません。また、斯波氏は足利義材が流亡中に支援してくれた勢力です。であるならば、両者に足利義材の必要性を感じさせながらつぶれない程度に競わせることが、義材にとっては都合のいい状況だったのです。
 伊勢宗瑞は三河国人達を宥めすかして撤退しました。案の定、制圧したはずの遠江国において守護家の斯波義達が息を吹き返し、今川氏親に再戦を挑みます。この再起の背後に足利義材(義植)と細川高国がいたと私は見ております。
 松平長親は結果において救われたといえるでしょう。

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2008年5月20日 (火)

川戦:押籠編③松平の敵

 今川氏親による次のターゲットは松平氏でした。三河物語によると今川軍は吉田を進発し、東海道沿いに真っ直ぐ大樹寺へ向かったとあります。牧野氏の領地と松平氏の勢力圏は随分と離れており、その間に鵜殿氏、菅沼氏、奥平氏と様々な勢力が割拠していますが、それらを全て従えて進軍できたということは、予め入念な下工作が施されていたとおもっていいでしょう。
 とは言うものの、松平氏は伊勢氏の被官であり、立場的には戸田憲光と同じはずです。松平信光が伊勢貞親の被官であったことは蜷川親元の日記に明記されておりますし、信光の子の親長も伊勢氏に仕え、京で金融業を営んでいたことが記録に残っております。
 但し、永正三河乱勃発の時点で惣領の松平親長は存命であったかどうかは不明です。彼が確実に生きていたとわかるのは1503年(永正元年)に分一徳政令による債権放棄免除の申し立てをした記録です。そして、1520年(永正十七年)には彼が別の債権において徳政令に対する債権放棄免除の手続きをしなかったために、債権消失の判決が下ったことです。この時点で死んでいた為、債務保全が出来なかったともとらえられるため、はっきりとしたことは判らないそうです。親長の年齢は不詳ですが、弟の親忠の年齢を考えると今川勢侵入時点で六十代で、息子に代を譲っている頃だと思われるのですが、その息子の消息がつかめておりません。三河国は親忠、長親親子が采配している状況でした。この状況が細川政元、今川氏親、伊勢宗瑞にとって足利茶々丸が堀越公方家を乗っ取ったのと同じように映ったのかもしれません。

 今までの稿で石川政康は息子を安祥松平家に仕えさせたと繰り返し書いておりますが、その関係については慎重な考察が必要であると思っております。特に、永正年間における松平家と石川家及びその背後にある本願寺教団との関わりは多くの微妙な要素を含んでいるように思います。
 例えば、松平親忠は明応の井田野合戦の翌年の1494年(明応三年)に、石川一族の本拠地である小川を制圧しております。そして、親忠と長親の代で桜井、青野、藤井、福釜、東端と矢作川下流域から油が淵に至る本願寺教団の諸寺院を囲むように松平の分家を設けています。
 これらの動向は細川政元と協調関係にある実如や三河国本宗寺の実円(実如の四男)にとっては脅威だったのではないかと思われます。すでに実如は細川政元の意を受けて、北陸と河内国で戦端を開いています。あくまでも仮説ですが、実如と実円は細川政元とともに、松平氏の排除を画策したのではないかと思います。
 根拠としては、二つあります。一つは吉田から大樹寺まで抵抗らしい抵抗を受けていないこと。南方の土呂、深溝、五井、竹谷、形原方面には目もくれず、真っ直ぐ大樹寺に向かっています。
 もう一つは、迎撃に出た松平長親勢の中に石川氏の記載がないことです。石川氏は安祥城の家老として門徒武士を組織化して安祥城に入れたはずです。永正の井田野合戦の記録自体にこのときの松平勢の構成を書いたものは少ないのですが、柳営秘鑑という史料にはこの時の先陣として酒井浄賢、岡崎松平親重、本多、大久保、柳原が当たったと書かれているそうです。酒井氏は松平親氏の代から準一門の扱いを受けている一族ですし、岡崎松平氏は一門衆です。本多、大久保氏は安祥譜代家として江戸時代を通して重用されてきた一族です。柳原氏はわかりません。後詰として待機できるような余裕が松平長親にあったとは到底思えません。本願寺の意を受けて石川一族はこの合戦に参加していなかったのではないかと疑っております。もちろん、後世の都合による付会というものもあるかもしれませんが、そうなると岡崎松平氏の名前が入っているのが不自然なのですね。岡崎松平氏はこの後安祥松平氏によって大草に押し込められて、家康の代において三河から放逐されるのですから。

 1501年(文亀 元年)8月10日に松平親忠が没し、同月16日に丸根家勝等連署禁制という文書が作られます。この文書は松平一門の者が結束して大樹寺を守ることを約したものですが、ここに戸田氏の一族の者の名(田原孫次郎家光)が記されております。戸田宗光が松平信光の娘婿であった関係でしょう。ここには安祥譜代七家の署名はありません。戸田氏も松平一門との血縁関係を前提にした署名でしょう。その戸田氏が今川勢として大樹寺を占拠し、岩津を攻め、松平長親と戦ったのですから、この文書は反故にされております。

 そして、三河物語に語られている今川勢として松平氏を攻めた諸家を列記します。牛久保の牧野、二連木の戸田、西之郡の鵜殿、作手の奥平、段嶺の菅沼、長篠の菅沼、野田の菅沼、設楽・嵩瀬・西郷・伊奈の本多、吉田の人々。三河国人のオールスターキャストです。
 柳営秘鑑では長親の先陣を務めた本多氏が今川方に加わっております。本多氏は支族が多く、所謂安祥譜代七家の本多氏は、本多氏の一部だったのかもしれません。ここに書かれている諸家は清康、家康の代においては松平氏に服属し、与力した一族ですがこれら諸家が一堂に会したという意味で永正の井田野合戦は大きな意味をもっていたといえるでしょう。

 三河物語においては、長親が岩津救援のために駆けつけた家臣を前にして涙する美談がつづられているのですが、このエピソードには家臣たちが何者であるのかは記されておりません。また、その安祥松平家の家臣達にとって、岩津家の人々は松平党の『重臣』であって松平一族の惣領とは書かれていない等、他の記述と比べてこの部分は非常に後世の付会くさいです。三河物語は徳川家の譜代家臣(特に大久保家)が徳川家に対していかに貢献したかを記した書物ですが、柳営秘鑑に書かれている大久保の家名が、大久保家の子孫の手になる三河物語に書かれていないのですね。それどころか、誰が長親に味方して伊勢宗瑞と戦ったのかについては、ただ五百騎とのみ記載して詳細を明らかにしておりません。他の合戦談においては敵も味方もその陣容が微細に書かれているにもかかわらずにです。このあたりに当時の松平長親と岩津宗家を含めた松平一門の苦境が垣間見えるような気がします。

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2008年5月15日 (木)

川戦:押籠編②細川政元の闘争

 1505年(永正二年)、山科本願寺で法主実如が畿内・北陸の門徒達に対して畠山氏、朝倉氏への攻撃を命じた翌年、伊勢宗瑞が今川氏親の命を受けて三河に侵攻しております。畠山氏、朝倉氏の背後には足利義材がおり、本願寺教団は彼らを敵に回したわけですね。足利義材は1493年(明応二年)細川政元によって京都を追われ、流れ公方として各地を転々としており、地方の諸侯の助力を得て上洛を策しておりました。
 本願寺は実如と細川政元とのつながりに加え、実如の母が伊勢氏の出身で当主伊勢貞宗は細川派として行動しております。また、実如は日野富子の兄である日野勝光の猶子でもありました。
 安城市の歴史を調べますと本願寺は1461年(寛正二年)に上宮寺如光に十文字名号を与えたことを皮切りに安城市内の寺や門徒に名号やら阿弥陀如来絵像を下しているのですが、蓮如の代では1676年(文明八年)に一度途切れます。実如の代になってそれが再開されるのですが、その初出が1493年(明応二年)本證寺門徒の某に下されたものです。1493年(明応二年)は足利義材が京を追われた年です。この時点で蓮如はまだ存命ですが、寺務の一切は実如に任されておりました。この件を含め、1493年(明応二年)から、実如が畿内・北陸の門徒に動員をかけた1505年(永正二年)までの十二年間に七件の阿弥陀如来絵像が現在の安城市一帯の門徒達に下されております。タイミング的に実如の細川政元支援に呼応したものと見ることができるかもしれません。
 本願寺による阿弥陀如来絵像の門徒への下付は1505年(永正二年)以降、一端途切れ1513年(永正十年)から1515年(永正十二年)の間に三度あって再び途切れます。これは三河国が今川氏親の侵攻を受けたこともあるでしょう。さりながら、主因は1507年(永正四年)に細川政元が暗殺され、後難を怖れた実如が山科から近江国堅田に移った為だと思います。実如は1509年(永正六年)には山科本願寺に戻っております。仲介したのが晩年の伊勢貞宗とのことですから、実如の母の実家の一族である伊勢貞宗が細川高国と折り合いをつけることができたということなのでしょう。細川高国は畠山氏、朝倉氏のバックアップを得て帰京した足利義材(義植)を奉じておりますから、実如も山科復帰後しばらくの間は身動きがとれなかったはずです。

 細川政元と対立する足利義材派にとっては西三河の地は細川氏支持派が支配する土地と映ったに違いありません。1506年(永正三年)から三河国に侵攻を開始した今川氏親と伊勢宗瑞の立場を考察してみます。伊勢宗瑞は幕府の政所執事を勤めた伊勢氏の一族です。伊勢宗瑞の姉(妹という説もあり)は北側殿といい、今川義忠の妻でした。今川義忠は応仁の乱中、遠江国で討ち死にし、家督をめぐって混乱が起きました。そこを上手く収拾したのが京から駿河に下向した伊勢宗瑞であり、調停の結果今川氏の新当主になったのが氏親でした。その縁で伊勢宗瑞は今川氏親に仕える事になったわけです。経緯が経緯だけに、家臣とは言え対等以上の関係だったと想像できます。

 1491年(延徳3年)今川氏の領国の隣国である伊豆国を支配する堀越公方家で内紛が起こります。当主足利政知が死に、その嫡子であった足利潤童子を弟の茶々丸が殺害して堀越公方家をのっとりました。堀越公方足利政知は永享の乱で滅ぼされた鎌倉にあった関東公方に変わるものとして細川政元が送り込んだ新関東公方家です。ところが元祖関東公方の子孫が下総国古河を拠点として関東公方を名乗ったため、足利政知は伊豆一国を支配する存在に過ぎなくなったわけです。小家となったといえども、足利政知は将軍の連枝なわけですが、その相続が暴力によって横領されたことは、政知を関東に送り込んだ幕府にとって看過できないことでした。
 1493年(明応二年)細川政元が足利義材を追い落とし、実権をにぎると間もなく、伊勢宗瑞が伊豆に攻め込み、足利茶々丸を滅ぼします。足利義材が京を脱出したことにより、彼を奉じる勢力が現れるのは自明でした。足利茶々丸は現政権が望まぬ形でお家乗っ取りをしたのです。細川政元にとって潜在的な脅威になりえる存在でした。伊勢宗瑞は政所執事(このときは貞陸)の一族です。細川政元は彼を通じて伊勢宗瑞に足利茶々丸を討たせたということが近年の研究でわかってきております。
 この見解に従うなら、今川氏親、伊勢宗瑞は細川政元派ということが出来るでしょう。以後、伊勢宗瑞は伊豆を支配するとともに、今川氏親の家臣として遠江国の斯波氏と戦います。

 永正年間の今川氏親の三河侵攻はその文脈の延長線上で考えてみるなら、興味深い方向性をみることができるかもしれません。
 1506年(永正三年)今川氏親はまず、三河国今橋城による牧野古白を滅ぼします。ここを攻める渥美郡の戸田氏の後詰としての参戦です。時の当主は戸田憲光で、伊勢貞親の被官であった宗光(全久)の息子です。もともと碧海郡上野(今の豊田市上郷町)を根拠地にしていましたが、知多から渥美半島に根拠地を広げ、上野の領地はどうも放棄されたのではないかと思われます。血縁関係のある松平氏が周辺を囲むように勢力伸張している以上、上野から所領を増やすあてはなく、戦国領主としての旨味はあまりないと判断したと私は考えています。
 牧野氏は出自がはっきりしておりません。古白の父の代に一色時家に服属した新興の土豪だったようです。応仁の乱を経て東三河の今橋(現在の愛知県豊川市)に城を築きました。一色氏は没落した後もこの地に根付いた戦国領主です。足利義材を野に放ってしまった以上、出自不明の、なおかつ伊勢氏被官の戸田氏に対立する勢力である牧野氏は潜在的な敵対勢力です。足利義材は日本中から支援勢力を求めています。牧野古白が足利義材を支援すると名乗り出れば、それに応じた地位を与えることは想像に難くありません。牧野氏を討伐することは、政所執事伊勢氏の一族である伊勢宗瑞にとっても、その主人の今川氏親にとっても、それだけではなく、細川政元にとってもメリットのあることだったでしょう。

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2008年5月13日 (火)

川戦:押籠編①プロローグ

 本稿は、川の戦国史と銘うち、本願寺教団及び松平一族を軸に、それらが川に住む人々と密接な関係を持ちつつ勢力を拡張した様子を描きながら進めております。今後も三河国を中心に書いてゆくつもりです。
 本編のタイトルは、押籠編。1523年(大永 三年)に松平信忠が嫡子清康に家督譲渡して大浜に隠遁するという事件が起きております。この時、信忠三十三歳。当時の平均寿命を五十年と考えても、三十三歳は最も活躍を期待される時代です。その後、信忠は大浜の地で九年の余生を過ごし、1531年(享禄 四年)に没しました。その前後、松平清康は安祥松平家の家督として縦横無尽の活躍をしております。多くの歴史書が信忠の事を『非器』、『不器量』――平たく言えば暗愚――とし、一門・郎党に見放されたため、隠居したと書いております。
 本編ではこの事件を中世・近世に発生した『主君押籠』事件としてとらえ、主にその時代背景を見てゆこうというのが趣旨です。
 主君押籠と言うのは無能な主君を一門・家臣が合議して隠居に追い込んでよりマシな後継者を据えて御家存続をはかる、下克上の一形態です。武田晴信(信玄)が父信虎を追放したような目だった形ではなく、表面上は円満な家督相続の形を取ります。なので中々表に出づらい事件です。しかし、信忠の場合は三河物語などにはっきり家臣達が引退を迫ったシーンがありますので、典型的な主君押籠の事例と見ることができます。

 この当時の松平家は家臣団よりも一門衆の方が力が強かったと言われています。これについては、良質の史料にあまり家臣達の名前が出てこず、一門衆の名前が出てくることが多いからです。但し、残存する史料は菩提寺や系図史料が中心なのですね。この手の史料は当然、血縁関係が中心の記述になってますので、そこに他家の人間は入り込みにくいという事情があります。
 但し、松平家、特に安祥家が家臣団を形成したのもこの親忠から信忠の代にかけての事になります。
 安祥松平家を主とする家臣団を安祥譜代といいます。その中でも中心的な役割をになった家を安祥七家といいます。酒井、大久保、本多、阿部、石川、青山、植村各家です。この多くが門徒武士であり、門徒武士の安祥松平家臣化に石川氏が寄与したと言います。
 但し、明応の井田野合戦の翌年の1494年(明応三年)に、松平親忠が石川一族の本拠地に近い、姫を制圧したといいます。明応の井田野合戦の大将格の一人が阿部満五郎といいます。彼は上野(豊田市上郷)を拠点にしており、小川と同時に上野も制圧されております。ここでターゲットになったのは内藤重清という土豪で、彼もまた門徒武士でした。明応井田野合戦で井田野攻めに参加したといいます。親忠は息子の親房を姫、小川に程近い桜井に入れ、桜井松平家という分家を作りました。

 松平一族は浄土宗を奉じ、一族の結束に大樹寺を活用しましたが、家康の代に至るまでは、家臣に対して浄土宗への転向を勧めることはありませんでした。例外がないわけではないことは大樹寺が残した文書を見ればわかりますが、大樹寺関係資料では、前面に出てくるのは松平一門衆であり、家臣が絡むことはまずありません。それに対して本願寺教団は来るものは拒まずの姿勢を通していたようです。蓮如が三河布教で西端に立ち寄った時、蛇が若い娘に化生して蓮如の説法を聞きに来たという逸話があるそうです。逸話の上では蓮如は阿弥陀如来の功徳は生きとし生けるもの全てに及ぶといい、例え蛇であっても例外ではないと言い切りました。浄土宗鎮西派は松平氏を檀家に持つ以前、千葉氏の庇護を受けていたといいますから、それぞれの教団の特色が良く出ているといえるでしょう。

 その一方で松平親忠の子、長親は青野、藤井、福釜、東端と矢作川下流域から油ヶ淵に至る本願寺教団の諸寺院を囲むように分家を設けてゆきます。戦国武将達が専業軍人化するのは織田信長の登場を待たねばなりません。それ以前の武士団は基本的に半農であり、土着した人々でした。彼らを組織化し、動員をかけようとするならば、在地に拠点を持つことは正しい選択でしょう。
 但し、その戦略は門徒武士達にある種のプレッシャーを与えるものだったと思われます。土呂には本宗寺があり、彼らは二つの主人をもつことになっていたのですから。親忠は安祥の勢力を背景に松平家内に発言権を有しておりましたが、年を経るに従い本願寺は統制色を強めてゆきます。この影響が三河国に及ばなかったとは考えにくいです。
 併せて、親忠は岩津の惣領家から惣領権を奪い取っております。考えてみれば、源姓松平氏初代の親氏は養子であり、二代泰親は親氏の弟である可能性が高い。三代信光には信広という兄(これは実兄と考えた方がしっくりくる)がいて、四代親忠は兄の親長系の岩津家から代行の形で惣領権を手に入れました。
 長親は一応親忠の長男(系図によっては大給の乗元が兄とするものもありますが、これは信光の兄と考えた方がよいそうです)ですが、長男が家督をついだのはこれが最初のケースなわけです。そして、長親の嫡男、信忠がセカンドケースなわけだったのです。ここにおいて、分家を増やして行く戦略がつまずくことになります。
 本編では、松平信忠が押籠に至った理由を彼が家督を継いだ永正年間の政治動向から追ってゆきたいと思います。単純に三河国の松平家の動向のみを追うのではなく、同時期に起こった京都の政治的事件及び、本願寺教団の動向とからめて描写を試みようと思います。

1455年(康正 元年)松平長親誕生
1488年(長享 二年)長親発行文書の初出
1490年(延徳 二年)松平信忠誕生
1501年(文亀 元年)長親、この時までに出家。家督を信忠に譲る?
          大河内貞綱、斯波義寛と伴に引馬で今川勢と戦い、敗れる。
1503年(文亀 三年)信忠、称名寺の為に禁制発行。惣領の証拠?
1505年(永正 二年)畠山・朝倉氏、反細川政元で挙兵。実如、細川政元に味方する。
1506年(永正 三年)伊勢宗瑞、三河侵攻(~1510年 永正三河乱)。大樹寺破壊される。
1507年(永正 四年)細川政元暗殺される。実如、近江国堅田本福寺に避難。
1509年(永正 六年)信忠、称名寺に寺領寄進。(信忠)
1511年(永正 八年)斯波義達、遠江出陣。
          清康、生誕。
1512年(永正 九年)信忠、称名寺の永正三河乱戦没者供養念仏踊りの為の田地寄進(信忠)
          大河内貞綱、引馬占領。
1513年(永正 十年)長親、大樹寺に再建。大樹寺格式。(道忠)
          大河内貞綱、斯波義達、今川勢に敗れる。
1515年(永正十二年)実円、播磨国英賀に本徳寺を創建。
1517年(永正十四年)大河内貞綱、斯波義寛と伴に引馬で今川勢と戦い、敗死。
1518年(永正十五年)実如、三箇条の掟を定める。
          信忠、西方寺に寺領寄進。(信忠)
1519年(永正十六年)信忠、妙心寺の寺領を安堵。(信忠)
1520年(永正十七年)信忠、大樹寺の別時念仏の調整を植村・中山に依頼。(太雲)
          信忠、萬松寺に禁制発行。(信忠)
1521年(大永 元年)足利義材、阿波に亡命。足利義晴将軍位相続。
          斯波義達、死去
          長親、連歌師宗長を呼んで桑子妙眼寺にて連歌会を催す。
          信光明寺の超誉、知恩院に転昇。
1523年(大永 三年)信忠、清康に家督譲渡。大浜に隠遁。
          信忠、明眼寺に田地寄進。(信忠)
1526年(大永 六年)今川氏親、死去。
1528年(大永 八年)信忠、大樹寺相伝の祠堂銭と田地安堵を長親と発行。(祐泉)

1531年(享禄 四年)大小一揆。三河兵、北陸へ。松平信忠、没
1532年(天文 元年)天文の錯乱。山科本願寺炎上。
1537年(天文 六年)長親、妙心寺にて連歌会を催す。親忠(信光?)の追善目的
1544年(天文十三年)松平長親、没

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2008年5月 6日 (火)

川戦:山科編⑪オヤシロさま伝説と白川郷

 オマケ的に白川郷について触れておきます。本稿で大小一揆に触れた折、大一揆の京都から加賀への侵入経路として琵琶湖から若狭街道ルートは越前の朝倉氏によってふさがれている為、美濃国から飛騨国白川郷経由で加賀国に侵入したと書きました。白川郷はゲーム・アニメで有名になった『ひぐらしのなく頃に』の舞台となった雛見沢のモデルになった場所です。合掌造り民家が世界遺産に指定された土地でもありますね。
 未見の方には一部ネタバレで申し訳ないのですが、白川郷の歴史をネットで調べるにつけ戦国時代の白川郷は色々ミステリアスなエピソードでてんこ盛りになっています。ちなみにネットで調べただけで裏取りはしてませんので、そこのところは良しなにお願いします。『ひぐらしのなく頃に』にはムー系歴オタの美人看護婦という設定の鷹野三四というキャラクターが語る雛見沢の古史、昭和の雛見沢村の歴史、そして本編で起こる事件には戦国時代の白川郷の歴史を上手く織り込んであると感心するとともに、調べれば調べるほど深まる謎に鷹野三四が雛見沢の歴史に抱いた興味の質が垣間見えてなかなか面白いです。
 雛見沢は岐阜県の隣県という設定になってますが、冬は雪に覆われて陸の孤島になるせいか、排他的な気風のある村です。鷹野三四が語るところの雛見沢の歴史はこんな感じです。

 雛見沢村には年に一回、六月頃に綿流しの祭りを行います。盆や秋祭りとは時期のずれた初夏に行われるその祭りは、豪雪地帯のその長い冬の終わりに寒さを凌いでくれた布団の綿を裂き、感謝とともに川に流すお祭りです。しかし、その祭りにはおぞましい由来があったのです。
 雛見沢はかつて鬼ヶ淵と呼ばれていました。その名の由来は沼の底から鬼が現れ麓の村の人々を襲い、さらって食べていたからというのです。村人は大いに困っていたところをオヤシロさまと呼ばれる神様が現れ鬼を懲らしめました。懲らしめられた鬼は改心し、村人と共存することを誓います。オヤシロさまは鬼と村人に掟を課し、その土地の神様として祀られることになりました。しかし、鬼は時々その本性を顕し、人を食べたくてたまらなくなります。オヤシロさまは掟を破った人間を選び、鬼の生贄とすることを許しました。鬼はそれを感謝するとともに、生贄以外の人は食べないことを誓います。年に一度鬼達は咎人を攫って食べました。土地では攫われた人は神隠しならぬ鬼隠しにあったといわれ、その臓物は鬼のオヤシロさまに対する感謝とともに沢に流されたといいます。これが雛見沢の古手神社で年に一度行われる綿(腸)流しの祭りの始まりです。

 予め断っておきますが、鬼隠しも腸流しもお話を面白くするためのつけたしで、綿を流すのは桃の節句にどこでも行われていた流し雛の風習の変形です。少なくとも私はそう受け取ってますし、本稿で人喰い鬼を扱うつもりはありません。
 ここで取り上げるのは、鬼と人とオヤシロさまという存在の関係です。リアル雛見沢である白川郷にもそれに類するエピソードがあるのですね。
 寛正年間といいますから、蓮如の大谷本願寺が比叡山延暦寺に焼き討ちにあったころなんですが、この白川郷に内ヶ島一族がやって来ます。もともとは武蔵七党という関東の地侍の一揆衆の一族だったらしいのですが、足利義政の命令でこの地を治めます。内ヶ島一族は金の採掘の技術を持っていたそうで白川郷を流れる庄川の川筋にある帰雲山(かえりくもやま)という所に城を構えました。

 この地には正蓮寺という浄土真宗本願寺系の寺があったのですが、ここの門徒達が一揆を起こして内ヶ島一族と対立したために内ヶ島一族は正蓮寺を焼いて住持の一族を殺します。そこで仲裁に動いたのが本願寺八世留守職の蓮如でした。寛正年間以降で蓮如がこの地に介入できるチャンスとしては、吉崎御坊で布教活動をしていた頃、応仁・文明の乱の最中でしょう。彼は正蓮寺の住持の子供を内ヶ島の惣領の子と娶わせ、正蓮寺を照蓮寺と改名して再建させたそうです。以後、内ヶ島一族は照蓮寺と連携し共存することになります。大小一揆において内ヶ島一族が本願寺の大一揆の軍勢通過に協力したのはこういう背景があったためですね。
 内ヶ島というのは珍しい苗字です。その音は鬼ヶ淵に通じます。彼らが襲った村人は正蓮寺の一揆衆で、仲介したオヤシロさまは蓮如に見立てたのではないかと私は考えております。
 ただし、『ひぐらしのなく頃に』に出てくるオヤシロ様は女性の神様であって、蓮如は人間の男性です。この違いはおそらくは白山信仰の本尊である白山比媛=菊理比媛のイメージなのでしょう。白川郷の信仰はもともと白山比媛の系統でしたが、蓮如らによる布教により浄土真宗が浸透していったわけです。作中で雛見沢の村人の連帯が強いのも、浄土真宗の講に育まれた惣中一揆の体質なのだと受け取ることができます。

 この後、内ヶ島氏は照蓮寺と連携をとりながら戦国時代を生き抜きます。内ヶ島氏は本願寺の支援勢力でした。帰雲山の近辺で採れる砂金を本願寺に送っていた形跡があるそうです。最終的に本願寺が破れ、越中国を領した織田信長の家臣、佐々成政に与して羽柴秀吉と戦うものの、領地のある飛騨国は羽柴方の金森長近に占領され、佐々成政も降伏しました。時の当主内ヶ島氏理も羽柴秀吉に帰順し、許されて本領を安堵されたものの、それから間もなく中部地方を襲った天正大地震によって内ヶ島一族が拠る帰雲城は崩壊、一夜にして一族は全滅しました。合戦に破れて全滅する大名は多いものの、天災で一族滅び去ることになったのは、この一族くらいなものではないかと思います。この事件も形を変えて、『ひぐらしのなく頃に』のストーリーの重要なモチーフとして活かされてます。(ネタバレになるので明かしません)

 さて、『ひぐらしのなく頃に』のストーリーにダム戦争のエピソードが出てきます。雛見沢にダム建設計画が持ち上がって、村人達が結束して反対運動を繰り広げ国の計画を撤回させるという内容です。白川郷を流れる庄川の上流に御母衣ダムがあるのですが、ここの建設に対して実際に地元民の反対運動があったそうです。結局ダムは建設され、上流地域の荘川・中野村はダム湖の湖底に沈むみました。この中野村にあったのが照蓮寺です。
 『ひぐらしのなく頃に』雛見沢村には村人の信仰を集める古手神社があり、そこにはオヤシロさまが祀ってあります。雛見沢村は水没を免れましたが、水没した中野村には蓮如ゆかりの照蓮寺があったのですね。雛見沢村の古手神社は白川郷の白川八幡宮がそのロケーション上のモデルですが、エピソード上のモデルはこの照蓮寺だったのかもしれないと思うととても興味深いものがあります。

 最後に土地神であるオヤシロさまと蓮如を繋ぐもう一つの鍵を提示しておきます。オヤシロさまを漢字で表せば御八代様と書く事ができます。ヤシロは八代の言いかえであることはストーリーの中で明かされております。オヤシロさまを祀る神主の一家である古手家に女系当主が八代続けば、オヤシロ様の生まれ変わりであるという言い伝えがそれです。そして、蓮如は本願寺八世の留守職なのですね。この八世というのは浄土真宗の開祖親鸞から八代目を意味します。つまり御八代様、オヤシロさまなのです。

 以上は私の勝手な当て推量であり、本当の所『ひぐらしのなく頃に』の作者である竜騎士07氏にそのような考えがあったのかどうかはわかりません。
 私自身は白川郷へ行ったことはありませんが、こういうエピソードを詰め込んでから巡礼するとさぞかし鷹野三四の『にぱぁ~』な気分が味わえるのではないかと思います。

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2008年5月 1日 (木)

川戦:山科編⑩考察

 浄土真宗の宗門の一つである本願寺教団のありよう。蓮如の時代と実如・蓮淳の時代では大きく様相を異にしているように見受けられます。蓮如は人を惹きつける才能を持った一個のスターでした。故に彼が比叡山延暦寺に弾圧を受けたとしても、彼を助ける人々が勝手連のように集合し、三河や北陸、河内方面に布教を進めることができたのでしょう。勝手連は勝手連であるが故に、それぞれがそれぞれの動機から蓮如に加担しております。それ故、蓮如本人はそれぞれの戦いに介入することが出来ませんでした。
 加賀一向一揆が富樫政親を滅ぼした時、時の管領細川政元は本願寺教団に処罰を求めましたが、この時蓮如が下した裁定は『叱りの御文』でした。仮にこれが実如や連淳をはじめとする蓮如の後継者ならば彼らを破門するか、北陸に畿内の門徒を送り込んで成敗していたかもしれません。もっとも、だからと言って連淳や証如が間違っていると言うつもりはありません。彼らには彼らの事情があったのです。
 蓮如の遺産は途轍もなく大きく、にもかかわらず蓮如の後継者達には蓮如が持っていた人を惹きつける才覚は無かった。無いというのは語弊がありますね。蓮如ほどの才覚は有していなかったと言った方が正しいでしょう。しかし、教団は一人の力では維持できないくらいに肥大化しています。実如や連淳には助けが必要でした。それが細川政元だったと思います。
 彼らにとって細川政元は中央とのパイプであり、仏法と王法をつなく架け橋でした。その選択は細川政元が平時の政治家である限りにおいて間違いではないと思います。さりながら、時は乱世であり、混迷の状況を打開するビジョンを細川政元自身も持っておりませんでした。少なくとも、実効ある結果を残せませんでした。そして政元もまた、山科本願寺に助力を求めたのです。そして、それは王法が仏法に求めるもの――魂の救済――ではなく、門徒による武力行使という極めて俗なものだったわけです。

 山科本願寺に寺を建て、門徒が富樫政親を自刃に追いやったにもかかわらず、叱りの御文一枚で大目に見てもらった時点で、もはや後に引けなくなっていたのだと思います。実如や連淳は舵を切り替えました。法主を中心とした統制のとれた教団に変えることです。
 その為に、教義を明らかにし、王法に従うことを宣言し、家門の序列を定めました。その為に連能とその子たち、加賀三ヶ寺の兄や伯父達を敵に回して粛清しました。その中にあっては湖族の信を集めて蓮如を支援した法住とその後を継いだ明宗の堅田本福寺や、蓮如のために吉崎の地をあてがった越前本覚寺が口出しをする余地はありえなかったようです。

 勿論、色々な所で不満は生じます。それを宥めるためにとった手段が二つ。一つは、門徒達の俗な要望にも応えてやること。越前国から加賀に亡命した本覚寺の蓮恵は、本願寺の不戦方針を不服として連枝の連悟と争い破門を受けましたが、それでも越前の亡命門徒衆は故地回復の望みをもっていました。その望みに応えて畠山氏や朝倉氏と戦う彼らを最終的には承認し、彼らを罰しようとした加賀三ヶ寺を武力討伐するに至ります。そして同時に法主の権威を高めるだけ高めました。蓮如を支援した外部の寺の者達よりも、連枝が偉く、連枝も法主の方針に逆らえば処罰される。このルールを教団全体に浸透させたわけです。

 しかし、絶対的な権威というものは実は危ういのですね。畠山氏追討の為に山科を出て石山に入った法主証如に河内の門徒衆は沸き立ちました。そしてそれは証如自身にコントロール出来る物ではなかったのです。本願寺が教団として軍事行動を取る時には家宰の下間氏が担当しますが、この時下間頼秀・頼盛兄弟は大一揆勢を率いて北陸に出張中でした。証如は細川晴元からの要請によって、畠山義宣と三好元長を門徒たちに討たせました。
 そして、勝利に酔った門徒達は大和に乱入し、興福寺に狼藉を働きます。証如にはこれを押しとどめることは出来ませんでした。本来ならば、本福寺や本覚寺に相当する河内や大和在国の有力寺院が暴発を止めるべきなのですが、彼らの権威は連淳によって徹底的に貶められていたわけです。地元の有力寺院にしても、下手に止めて加賀の小一揆のように討伐されるのではないかと思ってしまえば止めるに止められませんよね。追認の上意を当てにした末端勢力の暴走は昭和に至っても二・二六のクーデター未遂事件を引き起こしております。
 その結果本願寺は討伐の対象となり、証如は山科本願寺を失いました。連淳は伊勢長島に亡命していません。下間頼秀・頼盛兄弟を呼び戻したものの戦況は絶対的に不利なものでした。結局の所、連淳が細川晴元に降伏を申し入れ、下間頼秀・頼盛らの破門を条件に受け入れられました。ギリギリのところで証如は許され、石山御坊は石山本願寺として存続できることになったわけです。

 ただ、細川晴元にしても内外に多数の敵を有し、味方と言えど決して信頼の置ける者たちばかりではありませんでした。結局の所、身内に刺される形で細川晴元も失脚するに至ります。その後も続く目まぐるしい権力争いの時代を、本願寺はそのプレイヤーとなることで生き抜くことが出来たわけです。それはこの時代に、連淳が本願寺と言う宗教団体あるいは、蓮如を中心とした勝手連を本願寺法主を中心とした戦国大名に作り変えたお陰ということも出来るかもしれません。

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