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2008年5月27日 (火)

川戦:押籠編⑤戦後処理

 永正三河乱は今川勢の撤退で集結しました。それは、足利義材(義植)、細川高国の勝利であり、細川政元、澄元らの敗北の余波だったと思われます。細川政元とパイプを持っていた駿河国の今川氏親と伊勢宗瑞は遠江国を平らげ、三河国に攻め込みましたが、征服したはずの遠江国に同国守護の斯波義達が勢力を盛り返したことにより、三河に派遣した軍を呼び戻し、これに当たらねばならなくなりました。その斯波義達を三河国から支援した勢力があります。現在矢作古川のあたりに勢力をもつ吉良氏です。今川氏親が攻め込むまで遠江の中心地である浜名湖畔の引馬(現在の浜松)を領していたのは大河内氏でした。大河内氏は吉良氏の被官だそうです。それ故、東三河の戸田氏とともに牧野氏を制したあと、西三河に攻め込むならば松平氏と合わせて吉良氏にも軍勢を差し向けてもおかしくなかったと筈なのですが、にもかかわらず東海道をひたすら西進したのは、本来の目的が松平氏ではなく、斯波氏の根拠地である尾張国まで視野に入れた行軍だったのではないかと私は考えています。

 戸田憲光は伊勢宗瑞を中心とした国人連合による三河国を構想しました。中央にはかつて父である戸田信光が仕えた伊勢貞親の子と孫である伊勢貞宗・貞陸親子が新たな京の支配者となった足利義材(義植)、細川高国に取り入っています。伊勢宗瑞もまた、伊勢氏の一族です。井田野の勝利を既成事実に伊勢貞宗に働きかければ、新たな三河国の体制を作れると考えたのではないでしょうか。
 しかしながら、伊勢宗瑞は異なった判断をしました。永正五年十一月の公家の日記に今川氏親が三河で敗北したという記述があるそうです。今川勢は井田野の戦場で勝利したはずなのに、奇異に思える記録です。思うに、これは三河国については旧に復せという処分が下ったということではないかと思います。なんといっても伊勢貞宗・貞陸親子は細川政元に仕えておりました。その伊勢氏の言が容れられなくても不思議ではないでしょう。

 三河国より今川勢が撤退した結果として、今川勢として集結した三河国人連合は霧散し、安祥松平氏は勝利を得ることになりました。松平氏が失った物は大樹寺と岩津松平惣領家です。
 そう言い切るための材料として1511年(永正 八年)に信光明寺住持の肇誉が知恩院に転昇したことに伴い、安祥松平の親忠の息子である超誉存牛が信光明寺の住持になったことをあげます。信光明寺は岩津松平氏の、そして松平一門のための寺のはずです。惣領家の菩提を弔うはずの信光明寺に分家筋である超誉がはいった訳ですから、この時点で岩津家が惣領家の一門支配力は無くなったと考えていいと思います。もちろん岩津家には浄土宗西山義の妙心寺もあるのですが、超誉が十年後に京の知恩院の住持になったことを考え合わせるとバランスが取れていません。文明年間においては、信光明寺と妙心寺の両方が勅願寺指定されていることを考えると、その配慮が無いことが見て取れます。超誉の知恩院住持就任は裏で安祥松平の長親・信忠が強力なスポンサーとして立ち回らないと実現しないでしょう。岩津松平家には安祥長親・信忠親子がそうした行動をとることを制し得なかった。
 もう一つ根拠をあげますと、永正井田野合戦のあと、長親・信忠親子は勢誉愚底に大樹寺を再建させます。1513年(永正 十年)にそれは実現しました。それは大樹寺格式という文書に残っているのですが、そこに親忠の子孫は男女の区別なく、大樹寺に帰依するようにと命じています。超誉存牛もまた、親忠の息子であり、信光明寺を大樹寺の末寺扱いした文章にも取れます。つまり、この段階で長親・信忠親子の眼中に岩津惣領家は存在していないのですね。そういう意味で、岩津松平家は崩壊したと言い切ってよいと考えます。

 牛久保の牧野、二連木の戸田、西之郡の鵜殿、作手の奥平、段嶺の菅沼、長篠の菅沼、野田の菅沼、設楽・嵩瀬・西郷・伊奈の本多、吉田の人々に襲われた松平長親は婚姻政策で勢力を担保します。すなわち、現在の矢作古川を勢力圏に持つ吉良氏被官と姻戚関係を持つことにしたのです。本当だったら吉良氏と結ぶべきなのでしょうが、この時点の松平氏にとって吉良氏ははるかに上の家格なのでそこは妥協です。
 長親は大河内満成(信貞?)の娘を息子の信忠に娶わせます。大河内満成は斯波義寛・義達らとともに遠江国に攻め入った大河内貞綱の親族だそうです。そして、信忠の妹を吉良氏の老臣である富永氏に嫁がせました。これにより、松平――富永・大河内――吉良――斯波のラインが成立したわけです。松平氏が永正井田野合戦で敵に回した今川氏を中心とした三河国人連合に対抗する軸が完成したわけです。
 1509年(永正六年)3月22日に近江国堅田に避難していた実如は伊勢貞宗の仲介により山科本願寺に戻りますが、実質的に門徒達を使って何かできるような状況にはありませんでした。実如はこれ以後教団の内部改革に専心することになります。三河門徒もその間は自重していたと思われます。その間隙をついて、長親は桜井、青野、藤井、福釜、東端と矢作川下流域から油が淵に至る本願寺教団の諸寺院を囲むように分家を設けてゆきます。そういった行動に出ることができた背景に、吉良氏の支援があったと思われます。
 1512年(永正九年)、三河国本宗寺の住持として三河門徒を従える立場をもつ、本願寺第九世法主の実如の息子である実円が播磨国英賀(あが・現在の兵庫県姫路市)に一宇の建設を始めます。完成は1515年(永正十二年)で本徳寺と名づけられ、実円自らが本宗寺と兼務をする形で住持となります。
 この時期は伊勢国長島に蓮淳が願証寺という水塞寺院を作っていた時に重なっております。英賀は夢前川の扇状地に堀をめぐらせた環濠集落で、播磨門徒の勢力拠点として機能しました。このことは、仮に本宗寺が奪わた場合に実円が身を寄せる拠点ができた。そして、本宗寺がなくなった場合に、三河近在に住する門徒達を束ねるもう一つの拠点が出来上がったことを意味します。
 すなわち、永正三河乱で松平長親が勝利したことは、三河の本願寺教団にとって大きな脅威ではなかったかと想像するわけです。

 松平長親は今川勢から西三河を守った英雄になろうとしました。彼が大樹寺を再建したのは、安祥松平氏第一代の親忠を顕彰するためです。大樹寺の寺伝に親忠が外勢から大樹寺をまもった伝承を残しているのは、かつて井田野を守った親忠を顕彰することがすなわち、現在井田野を守っている長親の立場を強化することに繋がるからです。
 三河物語で大久保忠教は語っています。この合戦以後、三河で長親に従わないものはいなくなったと。長親は戦闘に参加して一族を守護した実績と大樹寺を通して一門を統制しようともくろんだのではないかと私は考えています。
 石川氏を中心とする三河の門徒武士達は京に実如が不在の中、松平氏につくか今川一門につくか旗幟を鮮明にできなかった。もしくは、今川方についていたと私は考えています。もし、門徒武士が松平長親の『勝利』に何らかの形で貢献できたとすれば、彼らの独立は保たれていたでしょう。加賀の一揆衆のありようや、後に三河国においても不輸不入権を手に入れようとする門徒武士達の行動を考えれば、法然・弁長流の浄土宗を奉じる長親の子息達を自らの勢力圏に受け入れるとは考えにくいのですね。少なくとも親忠の代まではそうではなかったのですから。

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