« 川戦:山科編⑪オヤシロさま伝説と白川郷 | トップページ | 川戦:押籠編②細川政元の闘争 »

2008年5月13日 (火)

川戦:押籠編①プロローグ

 本稿は、川の戦国史と銘うち、本願寺教団及び松平一族を軸に、それらが川に住む人々と密接な関係を持ちつつ勢力を拡張した様子を描きながら進めております。今後も三河国を中心に書いてゆくつもりです。
 本編のタイトルは、押籠編。1523年(大永 三年)に松平信忠が嫡子清康に家督譲渡して大浜に隠遁するという事件が起きております。この時、信忠三十三歳。当時の平均寿命を五十年と考えても、三十三歳は最も活躍を期待される時代です。その後、信忠は大浜の地で九年の余生を過ごし、1531年(享禄 四年)に没しました。その前後、松平清康は安祥松平家の家督として縦横無尽の活躍をしております。多くの歴史書が信忠の事を『非器』、『不器量』――平たく言えば暗愚――とし、一門・郎党に見放されたため、隠居したと書いております。
 本編ではこの事件を中世・近世に発生した『主君押籠』事件としてとらえ、主にその時代背景を見てゆこうというのが趣旨です。
 主君押籠と言うのは無能な主君を一門・家臣が合議して隠居に追い込んでよりマシな後継者を据えて御家存続をはかる、下克上の一形態です。武田晴信(信玄)が父信虎を追放したような目だった形ではなく、表面上は円満な家督相続の形を取ります。なので中々表に出づらい事件です。しかし、信忠の場合は三河物語などにはっきり家臣達が引退を迫ったシーンがありますので、典型的な主君押籠の事例と見ることができます。

 この当時の松平家は家臣団よりも一門衆の方が力が強かったと言われています。これについては、良質の史料にあまり家臣達の名前が出てこず、一門衆の名前が出てくることが多いからです。但し、残存する史料は菩提寺や系図史料が中心なのですね。この手の史料は当然、血縁関係が中心の記述になってますので、そこに他家の人間は入り込みにくいという事情があります。
 但し、松平家、特に安祥家が家臣団を形成したのもこの親忠から信忠の代にかけての事になります。
 安祥松平家を主とする家臣団を安祥譜代といいます。その中でも中心的な役割をになった家を安祥七家といいます。酒井、大久保、本多、阿部、石川、青山、植村各家です。この多くが門徒武士であり、門徒武士の安祥松平家臣化に石川氏が寄与したと言います。
 但し、明応の井田野合戦の翌年の1494年(明応三年)に、松平親忠が石川一族の本拠地に近い、姫を制圧したといいます。明応の井田野合戦の大将格の一人が阿部満五郎といいます。彼は上野(豊田市上郷)を拠点にしており、小川と同時に上野も制圧されております。ここでターゲットになったのは内藤重清という土豪で、彼もまた門徒武士でした。明応井田野合戦で井田野攻めに参加したといいます。親忠は息子の親房を姫、小川に程近い桜井に入れ、桜井松平家という分家を作りました。

 松平一族は浄土宗を奉じ、一族の結束に大樹寺を活用しましたが、家康の代に至るまでは、家臣に対して浄土宗への転向を勧めることはありませんでした。例外がないわけではないことは大樹寺が残した文書を見ればわかりますが、大樹寺関係資料では、前面に出てくるのは松平一門衆であり、家臣が絡むことはまずありません。それに対して本願寺教団は来るものは拒まずの姿勢を通していたようです。蓮如が三河布教で西端に立ち寄った時、蛇が若い娘に化生して蓮如の説法を聞きに来たという逸話があるそうです。逸話の上では蓮如は阿弥陀如来の功徳は生きとし生けるもの全てに及ぶといい、例え蛇であっても例外ではないと言い切りました。浄土宗鎮西派は松平氏を檀家に持つ以前、千葉氏の庇護を受けていたといいますから、それぞれの教団の特色が良く出ているといえるでしょう。

 その一方で松平親忠の子、長親は青野、藤井、福釜、東端と矢作川下流域から油ヶ淵に至る本願寺教団の諸寺院を囲むように分家を設けてゆきます。戦国武将達が専業軍人化するのは織田信長の登場を待たねばなりません。それ以前の武士団は基本的に半農であり、土着した人々でした。彼らを組織化し、動員をかけようとするならば、在地に拠点を持つことは正しい選択でしょう。
 但し、その戦略は門徒武士達にある種のプレッシャーを与えるものだったと思われます。土呂には本宗寺があり、彼らは二つの主人をもつことになっていたのですから。親忠は安祥の勢力を背景に松平家内に発言権を有しておりましたが、年を経るに従い本願寺は統制色を強めてゆきます。この影響が三河国に及ばなかったとは考えにくいです。
 併せて、親忠は岩津の惣領家から惣領権を奪い取っております。考えてみれば、源姓松平氏初代の親氏は養子であり、二代泰親は親氏の弟である可能性が高い。三代信光には信広という兄(これは実兄と考えた方がしっくりくる)がいて、四代親忠は兄の親長系の岩津家から代行の形で惣領権を手に入れました。
 長親は一応親忠の長男(系図によっては大給の乗元が兄とするものもありますが、これは信光の兄と考えた方がよいそうです)ですが、長男が家督をついだのはこれが最初のケースなわけです。そして、長親の嫡男、信忠がセカンドケースなわけだったのです。ここにおいて、分家を増やして行く戦略がつまずくことになります。
 本編では、松平信忠が押籠に至った理由を彼が家督を継いだ永正年間の政治動向から追ってゆきたいと思います。単純に三河国の松平家の動向のみを追うのではなく、同時期に起こった京都の政治的事件及び、本願寺教団の動向とからめて描写を試みようと思います。

1455年(康正 元年)松平長親誕生
1488年(長享 二年)長親発行文書の初出
1490年(延徳 二年)松平信忠誕生
1501年(文亀 元年)長親、この時までに出家。家督を信忠に譲る?
          大河内貞綱、斯波義寛と伴に引馬で今川勢と戦い、敗れる。
1503年(文亀 三年)信忠、称名寺の為に禁制発行。惣領の証拠?
1505年(永正 二年)畠山・朝倉氏、反細川政元で挙兵。実如、細川政元に味方する。
1506年(永正 三年)伊勢宗瑞、三河侵攻(~1510年 永正三河乱)。大樹寺破壊される。
1507年(永正 四年)細川政元暗殺される。実如、近江国堅田本福寺に避難。
1509年(永正 六年)信忠、称名寺に寺領寄進。(信忠)
1511年(永正 八年)斯波義達、遠江出陣。
          清康、生誕。
1512年(永正 九年)信忠、称名寺の永正三河乱戦没者供養念仏踊りの為の田地寄進(信忠)
          大河内貞綱、引馬占領。
1513年(永正 十年)長親、大樹寺に再建。大樹寺格式。(道忠)
          大河内貞綱、斯波義達、今川勢に敗れる。
1515年(永正十二年)実円、播磨国英賀に本徳寺を創建。
1517年(永正十四年)大河内貞綱、斯波義寛と伴に引馬で今川勢と戦い、敗死。
1518年(永正十五年)実如、三箇条の掟を定める。
          信忠、西方寺に寺領寄進。(信忠)
1519年(永正十六年)信忠、妙心寺の寺領を安堵。(信忠)
1520年(永正十七年)信忠、大樹寺の別時念仏の調整を植村・中山に依頼。(太雲)
          信忠、萬松寺に禁制発行。(信忠)
1521年(大永 元年)足利義材、阿波に亡命。足利義晴将軍位相続。
          斯波義達、死去
          長親、連歌師宗長を呼んで桑子妙眼寺にて連歌会を催す。
          信光明寺の超誉、知恩院に転昇。
1523年(大永 三年)信忠、清康に家督譲渡。大浜に隠遁。
          信忠、明眼寺に田地寄進。(信忠)
1526年(大永 六年)今川氏親、死去。
1528年(大永 八年)信忠、大樹寺相伝の祠堂銭と田地安堵を長親と発行。(祐泉)

1531年(享禄 四年)大小一揆。三河兵、北陸へ。松平信忠、没
1532年(天文 元年)天文の錯乱。山科本願寺炎上。
1537年(天文 六年)長親、妙心寺にて連歌会を催す。親忠(信光?)の追善目的
1544年(天文十三年)松平長親、没

|

« 川戦:山科編⑪オヤシロさま伝説と白川郷 | トップページ | 川戦:押籠編②細川政元の闘争 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/41190032

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:押籠編①プロローグ:

« 川戦:山科編⑪オヤシロさま伝説と白川郷 | トップページ | 川戦:押籠編②細川政元の闘争 »